何を、と問われるとこんなにも答えるのが難しいと思わなかった。少し考えてから、私は見たものをそのまま伝えることにした。
 気付いたら高嶺先輩が現れて思い出話に浸っていたこと。香椎先輩の画力を絶賛し、それに嫉妬している自分が嫌だったこと。カンバスが高嶺先輩の心情にあわせて真っ黒に染まっていくのを見たこと。
 すべて話し終えると、香椎先輩はカンバスに目を向けた。
「中心にあった走り書きが消されているのは、高嶺がやったのか?」
「少なくとも私が見た中では……もしかしたら、気付かないうちに私が触れていたかも」
「それはねぇよ。お前が消したら、お前の手にも煤がついてるはずだろ」
 両手を見比べるが、煤がついている様子はない。制服の袖口でも擦れる可能性はあるとはいえ、夏場の半袖のワイシャツでピンポイントにどう擦ることができると言うのか。
 ふと、香椎先輩の手が震えているのが見えた。それが感情によるものだったのか、それとも症状によるものだったかはわからなくて、私はおそるおそる問う。
「あの、香椎先輩……手の痺れは、どうなりましたか」
「まだなんとも」
 やっぱり聞かなければよかった、と後悔する。たった数日で回復するようなものじゃないことくらい、私にだってわかるのに。
「それにしても、さすが高嶺だな。これで完成と言われても驚かねぇ」
 カンバスを見つめる香椎先輩の目はいつになく優しい目をしていた。先輩にしてみれば、高嶺先輩の描く風景画は目標だ。経験を積むために今はイラストを描いているとはいえ、いつかは自分も描くと決めている。お互いを目標にしている二人は、ライバルといっても良いのかもしれない。幼なじみで同志で、ライバル。ありきたりで拙く並べた言葉がぴったりだと思ってしまう。
「佐知、あのさ」
 香椎先輩がカンバスを見つめながら言う。
「俺は、この絵に色を乗せたくない」
「……高嶺先輩が完成させるべき絵だからですか?」
「それもある。……ただ、これで本当にいいのか? 本当に最後になるかもしれないこの絵を、すべて高嶺が手がけるべきじゃないか。俺が中途半端に介入して、作品の世界を壊すんじゃないか。……俺が、高嶺のしたいことを奪ってきたようなものなのに」
 まるで懺悔だった。吐き出してすっきりしたいのに、どうやってもできないもどかしさ。好きなものを描き続けることが正しいと思っていたはずなのに、途端に自信がなくなった香椎先輩の姿は、今にも崩れそうだった。
 作品については意見を出し合う二人でも、もしかしたら自分が相手に思っていることを口に出して話したことがないのだと思った。長い付き合いだからこそ話せない――いや、話さなくてもわかったような気になっているかもしれない。
 私は咄嗟に香椎先輩の手を掴んだ。震えていたのが途端に止み、先輩は困惑した表情で私を見る。「このカンバスの世界は、色がありませんでした」
「……は?」
「絵に呑まれた時、高嶺先輩はこの世界を彩るのは香椎先輩の仕事だと言い切りました。高嶺先輩だけの絵ではなく、美術部で完成させる絵だからです。香椎先輩以外に色を乗せられる人はいません。先輩以外の人に、描かせちゃダメなんです」
 こんな言い方は卑怯だと思う。それでも構わない。だって私は、部長直々に背中を叩いてやってくれと頼まれているのだから。
「高嶺先輩も一緒に作るんです、最後なんかじゃない、最初の作品です!」
「……最初……そうか、最初か」
 そう呟いた香椎先輩は突然ハッと顔を上げ、私とカンバスを見比べ始めた。そして何を思ったのか、カンバスを持って高嶺先輩がいつも座っていた椅子に腰かけると、高さを調節しながら確認していく。
「せ、先輩? どうしたんですか?」
「佐知、そこの箱馬を持ってきてイーゼルの前に立ってくれ」
「え?」
「いいから、早く!」
「は、はい!」
 慌てて言われた通りにイーゼルの横に詰まれていた箱馬を一つ持ってくる。演劇部が使わなくなったのか、芸術コースの生徒か教師が作ったのかは定かではないが、埃の被った箱板をイーゼルの前に置いてその上に乗る。ミシッと音が聞こえた気がするけど気にしない。そのまま前を向くと、普段よりも高い視点での美術室の景色に新鮮さを感じた。
「……そういうことか」
 一人で納得した声が聞こえてきた。振り向いて「何がですか」と問えば、先輩はニヤリと笑みを浮かべる。
「わかったんだ。高嶺が描き加えたかったものが」
 いつもの先輩が、戻ってきた。