それから少し話して、早紀は部活の先輩に呼ばれて行ってしまった。ただでさえ練習でくたくたなのに、これから三日間の合宿が始まるのだ。ざっくり練習メニューやスケジュールを聞いたが、運動に無縁な私にとってはハードすぎてついていけないと思った。
 去り際、すっきりした表情の早紀は「今度、佐知がシフト入っているときにバイト先に茶化しに行くから」と言い残していった。自分でも欠点を把握しているのを隠して部活に励んでいるようなので、これ以上天狗になることはないだろう。茶化されるのは御免だけど。

 私はすっかり忘れていた当初の目的を果たすため、再び美術室に向かった。
 誰もいないはずの第八美術室には、香椎先輩がカンバスの置かれていないイーゼルを前に呆然と立ち尽くしていた。今日は工房に行くと聞いていたが、予定が変更になったのだろうか。
 開け閉めするだけでガタガタと鳴る戸をゆっくり閉めると、私は違和感を覚えた。先輩がピクリとも動かない。普段なら引き戸の音で気付くのに見向きもしない。ゆっくり近付いて「先輩」と声をかけると、おそるおそる顔をこちらに向けた。絵と向き合っているときは外している眼鏡をかけていても気付かない、それどころか、私だと気付いていない。
「……佐知?」
「は、はい。入ってきたの、気付きませんでし――!?」
 問いかけを遮って、先輩はおもむろに私の頬に両手を添えた。何かを探るように、顔のパーツをなぞっていく。初めて出会ったときよりも慎重に、壊れてしまわないようにそっと触れられる。きっと先輩は気付いていないだろうが、私は沸騰しそうなくらい顔が熱かった。
「せ、せせ先輩!? どうしたんですか!?」
「……不味いな」
「え?」
 顔から手を離すと、香椎先輩はいたって冷静に言う。
「触覚がうまく機能していない。佐知の顔の形や温度も、鉛筆を持つ感覚も痺れてよく分からない。……困った」
 大問題じゃないか。
 部長不在の中を積極的に動いてきた香椎先輩が、低下した視力をカバーするための感覚の一つをこのタイミングで機能しなくなるのは一大事だ。いや、近付くまで気付かなかったことも考えると、もしかしたら聴覚も怪しい。
 それを「困った」と平然を装う先輩に、焦りを通り越して心底呆れた。
「先輩、病院行きましょう。触覚が怪しいのはさすがに不味いですって」
「昨日の通院次いでに診てもらったっての。ストレスから来るモンで、ある程度期間で戻るらしい」
「嘘ついてません?」
「これ以上佐知に嘘も隠し事もしねぇよ。高嶺じゃあるまいし」
 はぁ、と大きな溜息をつく香椎先輩。その反応は私がしたいんだけど。
「別に今に始まったことじゃねぇから。心配すんな」
「……私が入ってきたのも気付かなかったのに?」
「タイミングの問題だろ」
 あっけらかんと答えて、またイーゼルに目を戻す。ああもう、この人も自分の心配をしない!