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 高嶺先輩が入院して数日後、夏の蒸し暑さが教室を包んだ。物置として扱われている第八美術室にエアコンが付いているわけがなく、来るたびに空気の入れ替えを兼ねてずっと窓を全開にしていた。室内よりも外の方が風があるせいか、涼しいとさえ感じてしまう。
 今日は宮地さんが文化祭に出展する絵に混ぜ込む灰の原料となるイーゼルと絵筆を、わざわざ学校まで引き取りに来てくれた。あの日持って行ったものは警察の方で回収され、処分されてしまったらしい。たとえ返されてきたとしても、いつになるかわからないからと出向いてくれたのだ。
 ちなみに近々、工事を担当していた業者が学校と入院中の高嶺先輩の元へ謝罪に来るという。
「俺の家と姑さんの家は昨日きた。工事はほとんど終わっているから、後の処理はそっちに任せることにした」
「姑さんはその後、どうですか?」
「あの人は元気だよ。大丈夫」
 そう言って宮地さんは美術室を見渡した。いつもと変わらないはずなのに、どこか寂しげに見える。
 香椎先輩は先程から、木枠にはめるちょうどよい布を漁っていた。ヒビが入った眼鏡を新調したのはいいが、慣れない視界での素材探しに苦戦していた。
「悠人の奴、大丈夫か? あんな無口なのは初めてだ」
「私もそう思ったんですけどね……」
「佐知」
「は、はい!?」
 こそこそと話していると、突然香椎先輩に呼ばれた。自然と背筋が伸びる。
「お前、今日の帰りに病院行くって言ってたよな?」
「え? はい、先輩に新しいクロッキー帳を頼まれたので……」
「じゃあ、これも持って行ってくれ。病院にはアイツから許可取ってるから」
「……これ、ですか?」
 そう言って渡されたのは、先程まで悩んでいた布を貼り付けたカンバスだった。横は六十センチ弱ほどで、今まで美術部が描いてきたものと同じサイズの布に、うっすらと鉛筆の線が何本か入っている。
「悠人、これを女子に持って行かせるのか?」
「俺も病院に顔出すけど、用事済ませてからじゃないと行けなくてさ。顧問から文化祭の展示はどうするかとか、諸々呼び出しくらってんの」
 美術部の部長である高嶺先輩が居ない今、自動的に香椎先輩が対応しなくてはならない。それはわかるけど、どうしてもわからないことが一つある。
「香椎先輩、聞いてもいいですか?」
「なに」
「どうして、高嶺先輩の美術室が見たいんですか?」
 出会ってまだ間もない頃に見せてもらった、まだ物置状態だった頃の第八美術室を描いたデッサン。それが描かれているスケッチブックは高嶺先輩がいつも持ち歩いていて、今も病院の荷物にある。描いていることを知らなかったとはいえ、一度も見ていない美術室の下描きを先輩に任すのはあまりにも投げやりに見えた。ただでさえ、学校と離れた病室で描かせようなんて、無茶にもほどがある。
「美術室にあるイーゼルや絵筆の灰を使うのもそうです。愛着があるからといって、無理に関連付いたものにしなくてもいいんじゃないんでしょうか」
 すると香椎先輩は少し躊躇って口を開いた。
「アイツが見ている景色が知りたかった、それだけだ」
「景色……?」
「俺の視力もそろそろだし、ちゃんと見ておきたいんだよ。特に美術室(ここ)は俺達みたいなモンだからさ。……こんな理由で納得してくれるとは思ってねぇよ。悪いな」
 ふいに視線を逸らされ、香椎先輩は荷物を持って美術室を出ていく。忘れていたわけではなかったけれど、当人に言われてしまうと言い返せない。失明するまで二年――いや、出会った頃にはもうカウントダウンは始まっていた。一年半も過ぎている。
「……こればっかりはしょうがねぇな」
 宮地さんも立ち上がって私にいう。
「悠人と千暁のこと、頼んでいいか。多分、今二人と話せるのはお前しかいないと思うんだ。それでなにかあったら、俺にも教えてくれ。必ず駆けつける」
「宮地さん……」
「頼むぞ、佐知(・・)
 小さく頷くと、宮地さんは目を伏せた。