香椎先輩が失明するまで残り二年を切っている――美術部を先輩たちの代で終わりにすると言った高嶺先輩の言葉は、彼の為にあるものだと聞いて取れた。
 それからしばらく私のアルバイトが立て続けに入ったため、美術部に顔を出す日が減って二週間も先輩たちと会っていない。教室も離れているから、校内で遭遇することもない。
 クロッキー帳だけは毎日続けており、気付けば残り二ページになっていた。初めて描いたパンジーよりも良いものが描けているかは半信半疑だけど、満足するものは増えてきた。心なしか、描き終えた後の達成感と終わってしまった虚しさを感じる度に楽しいとすら思う。
 早く第八美術室に行きたい。クロッキー帳を更新していく度に、先輩たちを思い浮かべてしまう。


 この日の授業は、担当教科の先生が急病で休みになり、プリントを解くだけの自習となった。
 ピンチヒッターの先生はプリントを配ってすぐに職員室に戻ってしまったから、教室は一気に賑やかになる。プリントを真面目に解く人は少なく、談笑する人もいれば机に突っ伏して眠る人もいる。あと数十分後には昼休みということもあって、クラスのほとんどがやる気を失くしていた。
 仕方なしにプリントを解いていると、突然「浅野さん?」と頭の上から声をかけられた。教室の入口の席に座っている()()くんだ。入学当初は出席番号が近いこともあって何度か話したことがある。控え目で周りに合わせていくタイプの彼は、眉をしかめた顔で続ける。
「先輩が呼んでるよ。三年生」
「三年生?」
 小田くんの向こうに見える教室の入口に目を向ければ、なぜか体操着姿の香椎先輩が立っていた。絵を描く時以外はかけている黒縁の眼鏡姿は相変わらず見慣れない。先輩も私に気付いたのか、教室の戸に手をおいて寄り掛かりながら言う。
「浅野、暇なら手伝え」
 いや、授業中ですけど。
 突然現れた先輩に、クラスメイトは皆驚いて私と交互に目を遣る。
 ……ああ、これは質問攻めにされるやつだ。
 私は小田くんにお礼を言って、慌てて立ち上がり廊下に出た。戸で見えなかっただけで、同じ服装をしていた高嶺先輩もいる。しばらく美術室に行っていないこともあってか、驚きが隠せない。
「なんで二人ともいるんですか?」
「この時間、自習だろ。だったら手伝え」
「答えになってないんですけど」
「ほらぁ、俺の言った通りじゃん。授業中に後輩の教室に突入するのは香椎くらいだって」
 呆れながらも顔には「よくやった」と書かれているような気がする。高嶺先輩をキッと睨むと、耐え切れなかったのか、吹き出して笑った。
「ごめんって! 一応俺は止めたんだよ?」
「高嶺先輩が仕向けたんじゃないんですか? たとえ香椎先輩が時々口が悪くなることがあっても、こんな大胆なことはしないと思います」
「お前は俺を何だと思ってるんだ」
「いやぁ、俺も香椎も、今日の放課後は進路面談が入ってて活動できなくてさ。先生に無理言って公欠使ったんだ」
「公欠……?」
 平日に大会等があって、授業に参加出来ない場合は公欠扱いが認められている。でも美術部にそれは適用されるのだろうか。
「これから素材作りに行くんだけど、浅野も一緒にどうかなって思って。もちろん、無理にとは言わないよ。お昼休み過ぎまでかかるからさ」
「素材作りって、何か作るんですか?」
「そうそう。近くに卒業生がやってる工房があってさ、そこで素材を作って貰っているんだ」
 素材と聞いてパッと思いついたのは、やはり香椎先輩が描いた『明日へ』の供養絵画だ。あの絵に使われている絵の具には亡き理事長――花井文江先生の遺灰が混ぜ込まれている。美術部として公欠が使われていることも含めると、何か依頼があったのだろう。授業中にも関わらず声をかけてきてくれたことも、これは先輩たちの製作工程を間近で見れるチャンスだ!
「あの、私も――」
「ちぃちゃーん! なになに、先輩たちとどこかいくの?」
 話を遮って後ろから早紀がやってきた。教室にいるクラスメイトが数名、物珍しそうに様子を伺っている。早紀は笑みを浮かべて「私たち、仲が良いんです」と言いたげに私の右腕に抱き着いた。
 突然のことに香椎先輩は顔を歪めると、すぐ高嶺先輩の方を見る。初対面の人の顔を覚えるために至近距離で確認することがあるけど、今回はしないらしい。この対応に慣れているのか、高嶺先輩が入れ替わるようにして前に出た。
「えーっと……浅野の友達?」
「はい! (くわ)()早紀っていいます。佐知とは中学からの仲良しでぇ」
「さっきちぃちゃんって呼んでたよね? それって浅野のこと?」
「そうです! この子の下の名前、『佐知』なんですよ。『さっちゃん』がニックネームだと私と被っちゃうから、ちぃちゃんって呼んであげているんです。それに漢字は違うけど、さちって幸せと同じ意味でしょ? 名字と合わせて『幸が浅い』なんて可哀想。名前のせいか、この子は私がいないと何もできないから、ちぃちゃん呼びがぴったりなんです。中学のときなんて、いつも一人ぼっちだだったんで私は一緒にいてあげたんですよー」
 さも自分が助けているのだと、自慢げに早紀は語った。聞き飽きた言葉の数々に思わず吐き気がする。
「ねぇ佐知、部活に入らないって言ってたくせにどこで先輩と知り合ったの? なんで教えてくれなかったの?」
「……い、言わなくてもいいかなって。話すきっかけもたまたまだったし」
 早紀は私が美術部の絵に惹かれて入学したことを知っている。この二人が美術部だと分かったらもっと面倒になるのは明白だった。
「せっかく佐知がお世話になっているし、私も仲良くしてほしいなーって。ちぃちゃんのくせに、独り占めなんて随分偉くなったね」
 早紀が私の方に笑みを向けるその裏で、抱き着くように巻き付いた私の右腕を力いっぱい掴まれる。
ハンドボール部で鍛えられた指先が骨に突き立てられる。思わず顔を歪めると、ぼそっと耳元で呟かれた。
「私、まだ怒ってるの。何もできないくせに、見え張って先輩を呼んだとしたら、私への当てつけにしか見えないし。ってか、何様って感じ?」
「いったい何の話を……」
 ――「私、別に早紀がいなくてもできるから」
 そうだ、啖呵切ったんだっけ。
 最近関わらなくなったこともあるけど、単に勉強とバイトが忙しくてすっかり忘れていた。もう数週間も時間が経っているのにまだ根に持っているのは、早紀らしいというかなんというか。呆れて言葉も出ない。それでよかったかもしれない。口を開こうとすれば、腕に食い込んだ指がどんどん骨と肉の間に沈んでいく。
 早紀はただ平然を装ってさらに続ける。
「先輩、これから佐知とどこにいくんですか? 私も連れて行ってください!」
「えー? でも君、授業中でしょ?」
「佐知だって授業中ですよ、この子だけずるいじゃないですか!」
「……だってさ。どうする?」