「本当ですか?」
「香椎が失明するまでの時間は、高校に入学する前から伝えられていた。もちろん、完治した人だっている病気だ。治療を続けていけば失明の手前で免れるかもしれないとも言われている。香椎だって、それを防ぐために通院しているんだ。最初から諦めてない」
 まるで自分に言い聞かせているような口ぶりだった。他人だとしても、普段から近くにいる人が急に消えてしまうことに恐怖を覚えるのと同じように、香椎先輩が失明する事実に目を背けたくてもおかしい話ではないのだ。
 だとしたら私は知らなかったとはいえ、酷いことを言ってしまった。
「私、この間香椎先輩に……」
「聞いたよ。第六感を持ってるんじゃないかって言ったんだって?」
 高嶺先輩が失笑しながら言う。
「アイツは気にしてないよ。褒め言葉だって受け取ってた。絵を見て触れただけで、絵の作者が描いている場所やその時の感情を読み取るとかに日常的にやってるし」
「でも!」
「悪気があって言ったことじゃないのは、香椎だってわかってる。そう重く捉えないで」
 小さな言葉で人は深く傷つくことを、私は知っている。いくら無意識だったとしても、生きている間はずっと背中に刺さっているのだ。「私がいないと何もできないちぃちゃん」と早紀が私にずっと言い続けるように、聞き流しても取れない棘はいくらでもある。卑屈な言葉で傷つける側の化け物に、なりたくなかった。
 耐え切れず先輩から目を逸らして俯いた。美術室の沈黙があんなに心地良いと思っていたのに、ずんと沈んだ空気で満ちる。
 すると、高嶺先輩は目線を私に合わせて言う。
「言葉は時に人を救い、時に傷つける。そんな道具を人が使い続ける以上、この世界から言葉の暴力がなくなることはない。全部背中に刺さったまま、生きていくしかないんだよ」
 否定された美術室、問題児扱い――高嶺先輩だってずっと誰かを傷つけ、誰かに傷つけられてきた。
 いや、この世界に誰一人傷つけずに人生を終える人間はいないのではないか。それは誰も口にしないだけで、生きる上での暗黙の了解として成立している。理由に納得できない小学生の気分になる。
「だーかーら! 浅野はいつも通りに香椎と接してやってくれないか? アイツ、お前のこと気に入ってるみたいだし」
「……香椎先輩が?」
「あんなに至近距離で確認していたのを久々に見たよ。『明日へ』を見て入学してきた話をする前にも関わらずだ。浅野って、なんでもかんでも溜め込んじゃうタイプだろ?」
「うっ……」
「だからクロッキー帳を渡したんじゃないかな。絵を描くことで気持ちを落ち着かせて、集中することで頭の中をクリアにするって、前に香椎が言ってたんだ。上手くいかない時はブツブツ呟いてるし。そうそう、あの時もすごかった。数学の授業で図形の面積を求める問題があって――」
 授業中の香椎先輩のとんでも話がニ、三個続く。香椎先輩の話をするときの高嶺先輩の表情はいつも活き活きとしている。自分のことのように自慢気に話すのは早紀と変わらないのに、先輩からは香椎先輩へのリスペクトを感じた。それは逆もしかり、香椎先輩と二人で話しているときは必ずと言っていいほど、高嶺先輩の名前が上がっている。
 ひとしきり笑ったところで、先輩は描きかけになっているクロッキー帳に目を向けた。
「浅野、俺たちの前でも描くようになったな」
「……そう、ですね。スケッチだけですけど」
「やっぱり香椎の言った通りだった」
「え?」
「クロッキー帳を渡したとき、かなり強引だっただろ。さすがに不躾しすぎだって言ったら、『他人に欠陥品だと決めつけられるのは誰だって嫌だろ』ってさ」
 以前「私の絵は下手」だと言った際、香椎先輩の表情が歪んだのを思い出した。たかが一回の入賞というだけで「上手い」という認識で話を進める周りが嫌いだった。畳み掛けるように「何も出来ない人間」だと早紀に言われても聞き流すことしかしなかった。すべてが上手い下手だけで成立するものじゃないと、わかっていたつもりでいたのに、美術部の二人によって思い知らされたのだ。
 下手だろうが関係ない、絵が描きたい。
 知識がなくたって、落書きしかできなくたって、誰かに咎められることじゃない。法律を破り、刑務所に入れられるわけじゃない。衝動で志望校を変えたのだって、私が決めたことだ。
「きっと浅野は、今の自分から変わりたかったんじゃないかな。高校デビューとかそんな言葉を使う程簡単なものじゃなくて、自分のしたいことを見つけるためにさ。……って俺の所見なんだけど、実際のところはどうなの?」
 表現は自由で、上手い下手もどうでも良い。他人の物差しで自分を図ろうとするのは愚かだ。
「……そうかも、しれません」
 小さく呟くと、高嶺先輩は満足そうに笑った。