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 入学当初からずっと私にひっついてきた早紀は、クラスのグループに混ざるようになった。まるで私への当てつけのように友達との会話が教室中に響いている。それが羨ましいとは正直思えなくて、教室で一人、机に突っ伏して寝たふりをするか、適当に持ってきた本を呼んでで授業までの時間を潰している。
 クロッキー帳は教室に早紀がいるときに開くのを躊躇っていた。また取り上げられて、笑われたらたまったものじゃない。
 それから一週間が過ぎた。ホームルームが終わって向かった第八音楽室は珍しく一番乗りだった。案の定、鍵はかかっていない。
 私はいつの間にか、美術部にいる時間が楽しみになっていた。ふと思い立って、入学当初に全員に配られた入部届の希望欄に美術部と自分の名前を書いて、お守り代わりにクロッキー帳の後ろに貼り付けている。入れなくても同じ時間が共有できるだけでいい。だから、誰もいない美術室にいることにドキドキした。
 入ってすぐにやるのは、空気の入れ替える作業。警備員も教師も立ち寄らない美術室は、物置同然の扱いで掃除もろくにできていない。棚だけでなく、床に並べられたイーゼルや額縁に溜まりっぱなしの埃は、つい先日三人で大掃除をしてようやくきれいになった。「面倒だったから」と今までやってこなかったことを聞いて、私から動いた。それでも建物の構造上の問題で風の通りが悪く、一番乗りで入ってきた人が換気をするようにしていた。
 空気の入れ替えには時間がかかる。先輩たちはホームルームが長引いているのか、未だ連絡もない。
「……よし」
 鞄からクロッキー帳を取り出して、床に座り込む。
 椅子に座って描いているよりも、体育座りして描いた方が自分には合っているのだと気付いてからはずっとこの体勢だ。クロッキー帳の新しいページを開くと、描く位置を確認してから線を引く。ホームルームが早く終わったときから、今日は部屋の中心に置かれたイーゼルとカンバスを描こうと決めていた。
 香椎先輩はここに来ると、いつも決まってカンバスの前に立って描く。片付けずにそのまま帰るから、最低限の整頓しかされていない。それが先輩のスタイルのようで、高嶺先輩も片付けようとはしない。もちろん、一応部外者である私も触れたことはない。普段見えない部分は、美術室に一番乗りしたときにしか見れない。この機会を逃すわけにはいかないのだ。
 近くの机に並べられた絵の具とパレット、数種類の筆。その近くで使い込んだ2Hの鉛筆が数本転がっている。どれも香椎先輩が描くときに使う道具だ。
 ふと、香椎先輩に連れられて授業をサボった日のことを思い出した。
 あの時の先輩は珍しい眼鏡姿だったけど、美術室に着くなりすぐ外していた。授業の時だけとかならわかるけど、普段かけていなければ移動する前に外しているのではないか。それとも、絵と向き合っているときだけ外しているのか。私は生まれてからずっと裸眼のため、眼鏡をかけて生活をしたことがないが、レンズ一枚が対象物との間に入ることで、見え方が変わることがあってもおかしくない。絵ならば特に、だ。
 手を止めて考えていると、美術室の戸がいつものようにしなりながら開いた。鞄とスケッチブックを持った高嶺先輩だ。
「おっ! 浅野、早いな」
 換気してくれたのか、と開いた窓から入ってくる風でなびいたカーテンをおさえる。普段は高嶺先輩がしているのだろう。
「助かったよ、ありがとう。遅くなって悪かった」
「いえ……あれ? 香椎先輩は一緒じゃないんですか?」 
「ああ、香椎は今日、通院の日だから帰ったよ」
「通院?」
 繰り返して問うと、高嶺先輩はしまった、と顔を歪めた。
「……聞かなかったことにしたほうがいいですか?」
「いや、その……」
 高嶺先輩はうーんと唸りながら自分の荷物を下ろし、近くの椅子を引っ張ってくる。私も立ち上がって先輩の近くの椅子に座った。しばらく躊躇っていたが、渋々口を開いた。
「本当は俺の口から話すことじゃないんだけど……最近一緒にいること多いし、最悪のケースを考えて浅野にも教えておく。ただし、他言無用で頼むな」
「は、はい」
 高嶺先輩は一呼吸置いてから、私を真っ直ぐ見据えた。
「香椎、目があまり良く見えないんだ」
「……え?」
「網膜色素変性症っていう目の病気でさ、夜盲症から始まって次第に視野が狭くなって視力低下し、色覚異常の症状が出てくる。個人差があるが、今の香椎は見える範囲が狭くなりつつあるんだ。特に最近は絵に没頭することが増えたからか、めまいまで起こしてる」
「視力が低下する病気……それって」
「完全に失明する事例は二五〇人に一人程度。可能性はかなり低いと言われてれる。……けど」
 いつになく真剣な表情で、高嶺先輩は私に現実を叩きつける。

「アイツはその一人に選ばれた。あと二年もしないうちに失明するらしい」