*
昨年の文化祭に展示された『明日へ』は、理事長の遺言により展示後、息子夫婦の自宅へ置かれることになっていた。なんでもカンバス一枚を飾る場所を確保するために一時的に学校で預かっていたようだ。先週まで第八美術室に置かれていたが、学校側の恩情で今日までの一週間、展示ホールの中心に置かせてもらっていたという。展示ホールは荷物の搬入口として駐車所に近いこともあって、展示兼保管には最適な場所だった。
第八美術室を後にした私たちは、展示ホールに向かった。未だ校内を把握しきれていない私は、先輩たちの後を追うので精一杯だった。
その間、二人は何も喋ることはなかった。どこかピリッと張りつめた雰囲気に、緊張しているのかもしれない。
階段を登って降りてを繰り返し、昼間に一度だけ通った廊下を抜けると、そこに展示ホールはあった。鍵はかかっていないようで、高嶺先輩がガラス戸を開く。それに続いて香椎先輩が入っていき、中に置かれたカンバスの前に立った。
「いつも開けっ放しだけど、絵が置いてある時くらいは鍵かけて欲しいよな。今度交渉してみるか」
「無駄だろ。どうせ警備員も学校の息がかかってんだから。損壊はしてないからいいけど、これで壊れてたら理事長に頼んで枕元に立ってもらえ」
「香椎先輩、その言い方はダメですって!」
いくら冗談で言っていたとしても理事長に失礼だ。「悪かったって」と香椎先輩が言うけれど、悪い笑みは隠しきれていない。
「それよりも浅野、さっさとこっち来いよ。絵の前に落とし穴が掘られている訳じゃあるまいし、警戒する必要もねぇだろ」
「い、いえ! 私はここで大丈夫です!」
香椎先輩に指摘されても、未だ入口で立ち止まっていた。昼休みの時に一瞬見えただけで胸が張り裂けそうになったのに、文化祭で見たときの距離に立ったらどうなってしまうのか。そんな私の異常な行動に、先輩たちは苦笑いを浮かべた。
「あ、浅野さん、もっと気楽でいいんだよ? そんな好きな人に告白するような反応されてもこっちが困るし」
「そう、ですけど……でも」
そう言われたら余計に近付くことを躊躇ってしまう。まだ『明日へ』の絵の前に香椎先輩が立っていることが幸いして、この位置からは何も見えない。
すると、香椎先輩がこちらに向かって歩いてくる。
「――これは……知り合いから聞いた話なんだけど」
「は、はい?」
「お前みたいに、絵に呑まれたっていう奴がいるんだ。美術館に展示してあった猫の絵だったらしいんだけど、繊細で細やかで、線の一本一本に目を奪われたんだと。それは電流が身体に駆け巡ったというより、心臓を貫かれたような感覚だったらしい。目が離せなくてじっと見入っていたら、周囲の声だけでなく、来場者が歩く靴底の擦れる音さえも聞こえなくなっていた。周りの空気が違うことに気付いた途端、絵の中にいるはずの猫が笑ったのを見て、思わず声が出て現実に戻ってきたって話だ。一緒に来ていた家族は、微動だにしない自分を心配して背中を何度も叩いた。何度声をかけても反応がなくて慌てたらしい」
「……それって」
「お前の話を聞いていたら、その感覚に似ているなって思った。絵にのめり込み、その情景を思い浮かべて、絵に込められた声が聞こえる。……なんか、いいよな。ただの妄想だったとしても、感性って人それぞれだから、何も間違っちゃいない」
香椎先輩が目の前で止まり、目を細めてじっと私の目を見る。
「『明日へ』は息子夫婦が引き取ることになっているが、ずっと飾ってもらえるかは分からない。布に巻かれて日の当たらない薄暗い場所で、他の骨董品と一緒に永い眠りにつくかもしれない」
「え……?」
「理事長もわかってたうえで供養絵画を選んだ。あの絵が誰かの目に触れるのはこれが最期になるかもしれない」
「…………」
「聞いてやってくれ。もう一度、あの子の声を」
香椎先輩が一歩横にずれると、私の正面にカンバスが現れた。周りに他の作品が並んでいないせいか、あの時のような浮いた印象はない。
ようやく展示ホールに足を踏み入れ、おそるおそるカンバスの前に立つ。イーゼルの上に立てかけられた『明日へ』の絵は、半年前に初めて見たときと同じ希望に満ち溢れた世界に見えた。その中に描かれた、醜い部分を隠すように、泣き叫ぶ声を抑え込むほどきれいだった。
さらにカンバスに近付けば、途端に遠くから警報の音が聞こえてきた。
近くの建物に火がついて、逃げろ逃げろと泣き叫ぶ声が飛び交う。背を向けたときに漂ったあの苦い香りは、焼き焦げた匂いによく似ていた。
周囲の混乱に呆然としていると、少女が目の前で転んだ。ボロボロの布に包んだ何かをしっかり抱きかかえ、無事かどうか確認してもう一度立ち上がる。
周囲にある建物が崩れる音、何かが近くで落ちてきた音が重なってかき消されてしまう。黒煙が立ちのぼり、人々が逃げ惑う中、少女と目が合った。
言葉が出てこないほど、少女はきれいに笑った。
「……伺ってもいいですか?」
後ろで様子を伺っている二人の先輩に問いかける。すぐ隣に来たのは高嶺先輩だった。
「どうした?」
「理事長先生に、ご兄弟はいらっしゃいますか」
あの日からずっと引っかかっていたことがある。カンバスに描かれた、花束を抱えた少女だ。
平和の意味を持つ花――デイジー、コスモス、オリーブ、タンジーは戦時中に集められるほど簡単な花ではない。それが作者によるオリジナルだったとしても、同じ花を揃えるだけでよかったはずだ。複数にする必要はどこにもない。
思えば花束の抱え方も不自然だ。いくら大きい花束だからといって、子ども一人を抱えているようにも見える。戦時中なら、自分の身で隠すように大切に抱えているのが子どもでもおかしくない。
一瞬見えた、大切そうに抱えた布の中で眠る赤ん坊がいたのだって、見間違えなんかじゃない。
「弟さんが一人いるけど……なんでお前が知ってるんだ?」
驚いた様子の高嶺先輩にさらに問う。
「今、その人どうされていますか……っ」
どうか死なないで。忘れないで。――少女が私に向かって確かに言った。でもそれは私ではなく、抱きかかえた男の子に向けられたものかもしれない。
「……赤ん坊だった弟を理事長が親代わりで育てた話は生前聞いたことがある。戦争の時代を生き延びて、今は歴史博物館で館長しているよ。戦争を後世に残していくために、定期的に講演会も開いてる」
「……そうですか」
少女が抱きかかえていたあの小さな子が、今も生きている。その事実にホッとし、途端に脚の力が抜けて立ち崩れた。自分でも気付かないうちに気を張っていたのかもしれない。
慌てて高嶺先輩が駆け寄って背中を支えてくれた。
「大丈夫か?」と心配そうに顔を覗き込んでくるけど、私はまだカンバスに目を向けたままでいた。
忘れてはならない。伝えていかなければならない。――たとえそれが、綺麗事だったとしても。
それを訴え続けた理事長の想いに触れたような気がして、気付けばボロボロと涙をこぼしていた。
「私、理事長先生に会ってみたかったです」
私がそう言うと、先輩たちがそろって私の頭をガシガシと撫でまわした。
――その数分後、引き取りにきた息子夫婦がやってくると、目元が真っ赤に腫れた私を見て大層驚いていた。説明するには恥ずかしいので「花粉症です」と誤魔化したら納得してくれたけど、高嶺先輩だけが小さく笑っていた。
「引き取りが遅くなってしまい、申し訳ありませんでした。ようやく飾る場所が決まったので、やっと母を連れていけます」
「連れていける……ってことは、ご自宅に飾られるのではないんですか?」
息子さんの言葉に高嶺先輩が問うと、気恥ずかしそうに笑った。
「実は、伯父の博物館に置いてもらえないか相談していたんです。母から絵について聞いたとき、自宅に飾るだけではもったいないと思って。僕らがいつかいなくなって、倉の中に片付けられてしまったら母が可哀想ですから。伯父の運営する博物館の中に、戦時中のものを集めた写真や古着が展示されているホールがありまして、そこに入れてもらうことになりました。……あなたのように、絵を見て何か感じとってくれる人がこの先も現れるかもしれないですから」
あなた、と言って私のほうを見る。下手な嘘はとっくに見抜かれていたらしい。
カンバスを梱包し、駐車場に停めていた車に乗せると、息子夫婦は礼を言って立ち去った。一度自宅に持ち帰り、明日また博物館へ持っていくのだという。
遠くになるまで見送った私たちは駐車場から展示ホールへ戻る。その道中、校舎に入る手前で香椎先輩が急に立ち止まった。つられて私も、高嶺先輩も立ち止まる。
「香椎? どうした」
「……浅野さ、部活どうすんの?」
「え?」
じろっと目だけを動かして、香椎先輩は私に問う。
「話を聞いてりゃ、担任にしつこく強要されてんだろ? バイトの日以外は高嶺のところに行くって言っとけばしばらくは大丈夫だろうが、お前さえよければ暇な時に第八美術室に顔を出しに来い」
「……えぇ!?」
あまりにも唐突な提案に、思わず声が出てしまった。これには高嶺先輩も驚いていて「お、おい香椎!」と咎めた。
「正気か? 俺に巻き込むなって言ったくせに!」
「元はといえば、お前が巻き込んだんだから責任持てよ」
「そうだけど! 俺たちにとっては貴重な人材だし、このままにしておくのは勿体無いと思ってたけど」
「だろ。今なら紙パック代チャラにしてやってもいい」
「安い取引をするな! ……いいよ、わかった」
乗り掛かった舟だ、と小さく肩を落とした。仕方がないと言いたげながらも、心なしか嬉しそうに見える。本日何度目かもわからない、困惑する私に高嶺先輩がいう。
「埃っぽいところに好んで来ると変な目で見られるかもだけど、それでもいいならおいで」
「……いいんですか?」
「いいよ。香椎がこんなに活き活きとしているのは久々だ。その礼はさせてほしい。……それと」
高嶺先輩が香椎先輩と目配せすると、私に向かって同時に頭を下げた。
「あの絵を見つけてくれて、泣いてくれてありがとう」
――桜の花びら舞う、四月の空。こうして私が駆け込んだ世界は、胸にぽっかりと空いた穴を埋める優しさと、寂しさを残して別れを告げるとともに、新たな景色に小さく胸が高鳴った。
顔に出ていたのか、笑みを隠せない私を見て、先輩たちも笑った。
昨年の文化祭に展示された『明日へ』は、理事長の遺言により展示後、息子夫婦の自宅へ置かれることになっていた。なんでもカンバス一枚を飾る場所を確保するために一時的に学校で預かっていたようだ。先週まで第八美術室に置かれていたが、学校側の恩情で今日までの一週間、展示ホールの中心に置かせてもらっていたという。展示ホールは荷物の搬入口として駐車所に近いこともあって、展示兼保管には最適な場所だった。
第八美術室を後にした私たちは、展示ホールに向かった。未だ校内を把握しきれていない私は、先輩たちの後を追うので精一杯だった。
その間、二人は何も喋ることはなかった。どこかピリッと張りつめた雰囲気に、緊張しているのかもしれない。
階段を登って降りてを繰り返し、昼間に一度だけ通った廊下を抜けると、そこに展示ホールはあった。鍵はかかっていないようで、高嶺先輩がガラス戸を開く。それに続いて香椎先輩が入っていき、中に置かれたカンバスの前に立った。
「いつも開けっ放しだけど、絵が置いてある時くらいは鍵かけて欲しいよな。今度交渉してみるか」
「無駄だろ。どうせ警備員も学校の息がかかってんだから。損壊はしてないからいいけど、これで壊れてたら理事長に頼んで枕元に立ってもらえ」
「香椎先輩、その言い方はダメですって!」
いくら冗談で言っていたとしても理事長に失礼だ。「悪かったって」と香椎先輩が言うけれど、悪い笑みは隠しきれていない。
「それよりも浅野、さっさとこっち来いよ。絵の前に落とし穴が掘られている訳じゃあるまいし、警戒する必要もねぇだろ」
「い、いえ! 私はここで大丈夫です!」
香椎先輩に指摘されても、未だ入口で立ち止まっていた。昼休みの時に一瞬見えただけで胸が張り裂けそうになったのに、文化祭で見たときの距離に立ったらどうなってしまうのか。そんな私の異常な行動に、先輩たちは苦笑いを浮かべた。
「あ、浅野さん、もっと気楽でいいんだよ? そんな好きな人に告白するような反応されてもこっちが困るし」
「そう、ですけど……でも」
そう言われたら余計に近付くことを躊躇ってしまう。まだ『明日へ』の絵の前に香椎先輩が立っていることが幸いして、この位置からは何も見えない。
すると、香椎先輩がこちらに向かって歩いてくる。
「――これは……知り合いから聞いた話なんだけど」
「は、はい?」
「お前みたいに、絵に呑まれたっていう奴がいるんだ。美術館に展示してあった猫の絵だったらしいんだけど、繊細で細やかで、線の一本一本に目を奪われたんだと。それは電流が身体に駆け巡ったというより、心臓を貫かれたような感覚だったらしい。目が離せなくてじっと見入っていたら、周囲の声だけでなく、来場者が歩く靴底の擦れる音さえも聞こえなくなっていた。周りの空気が違うことに気付いた途端、絵の中にいるはずの猫が笑ったのを見て、思わず声が出て現実に戻ってきたって話だ。一緒に来ていた家族は、微動だにしない自分を心配して背中を何度も叩いた。何度声をかけても反応がなくて慌てたらしい」
「……それって」
「お前の話を聞いていたら、その感覚に似ているなって思った。絵にのめり込み、その情景を思い浮かべて、絵に込められた声が聞こえる。……なんか、いいよな。ただの妄想だったとしても、感性って人それぞれだから、何も間違っちゃいない」
香椎先輩が目の前で止まり、目を細めてじっと私の目を見る。
「『明日へ』は息子夫婦が引き取ることになっているが、ずっと飾ってもらえるかは分からない。布に巻かれて日の当たらない薄暗い場所で、他の骨董品と一緒に永い眠りにつくかもしれない」
「え……?」
「理事長もわかってたうえで供養絵画を選んだ。あの絵が誰かの目に触れるのはこれが最期になるかもしれない」
「…………」
「聞いてやってくれ。もう一度、あの子の声を」
香椎先輩が一歩横にずれると、私の正面にカンバスが現れた。周りに他の作品が並んでいないせいか、あの時のような浮いた印象はない。
ようやく展示ホールに足を踏み入れ、おそるおそるカンバスの前に立つ。イーゼルの上に立てかけられた『明日へ』の絵は、半年前に初めて見たときと同じ希望に満ち溢れた世界に見えた。その中に描かれた、醜い部分を隠すように、泣き叫ぶ声を抑え込むほどきれいだった。
さらにカンバスに近付けば、途端に遠くから警報の音が聞こえてきた。
近くの建物に火がついて、逃げろ逃げろと泣き叫ぶ声が飛び交う。背を向けたときに漂ったあの苦い香りは、焼き焦げた匂いによく似ていた。
周囲の混乱に呆然としていると、少女が目の前で転んだ。ボロボロの布に包んだ何かをしっかり抱きかかえ、無事かどうか確認してもう一度立ち上がる。
周囲にある建物が崩れる音、何かが近くで落ちてきた音が重なってかき消されてしまう。黒煙が立ちのぼり、人々が逃げ惑う中、少女と目が合った。
言葉が出てこないほど、少女はきれいに笑った。
「……伺ってもいいですか?」
後ろで様子を伺っている二人の先輩に問いかける。すぐ隣に来たのは高嶺先輩だった。
「どうした?」
「理事長先生に、ご兄弟はいらっしゃいますか」
あの日からずっと引っかかっていたことがある。カンバスに描かれた、花束を抱えた少女だ。
平和の意味を持つ花――デイジー、コスモス、オリーブ、タンジーは戦時中に集められるほど簡単な花ではない。それが作者によるオリジナルだったとしても、同じ花を揃えるだけでよかったはずだ。複数にする必要はどこにもない。
思えば花束の抱え方も不自然だ。いくら大きい花束だからといって、子ども一人を抱えているようにも見える。戦時中なら、自分の身で隠すように大切に抱えているのが子どもでもおかしくない。
一瞬見えた、大切そうに抱えた布の中で眠る赤ん坊がいたのだって、見間違えなんかじゃない。
「弟さんが一人いるけど……なんでお前が知ってるんだ?」
驚いた様子の高嶺先輩にさらに問う。
「今、その人どうされていますか……っ」
どうか死なないで。忘れないで。――少女が私に向かって確かに言った。でもそれは私ではなく、抱きかかえた男の子に向けられたものかもしれない。
「……赤ん坊だった弟を理事長が親代わりで育てた話は生前聞いたことがある。戦争の時代を生き延びて、今は歴史博物館で館長しているよ。戦争を後世に残していくために、定期的に講演会も開いてる」
「……そうですか」
少女が抱きかかえていたあの小さな子が、今も生きている。その事実にホッとし、途端に脚の力が抜けて立ち崩れた。自分でも気付かないうちに気を張っていたのかもしれない。
慌てて高嶺先輩が駆け寄って背中を支えてくれた。
「大丈夫か?」と心配そうに顔を覗き込んでくるけど、私はまだカンバスに目を向けたままでいた。
忘れてはならない。伝えていかなければならない。――たとえそれが、綺麗事だったとしても。
それを訴え続けた理事長の想いに触れたような気がして、気付けばボロボロと涙をこぼしていた。
「私、理事長先生に会ってみたかったです」
私がそう言うと、先輩たちがそろって私の頭をガシガシと撫でまわした。
――その数分後、引き取りにきた息子夫婦がやってくると、目元が真っ赤に腫れた私を見て大層驚いていた。説明するには恥ずかしいので「花粉症です」と誤魔化したら納得してくれたけど、高嶺先輩だけが小さく笑っていた。
「引き取りが遅くなってしまい、申し訳ありませんでした。ようやく飾る場所が決まったので、やっと母を連れていけます」
「連れていける……ってことは、ご自宅に飾られるのではないんですか?」
息子さんの言葉に高嶺先輩が問うと、気恥ずかしそうに笑った。
「実は、伯父の博物館に置いてもらえないか相談していたんです。母から絵について聞いたとき、自宅に飾るだけではもったいないと思って。僕らがいつかいなくなって、倉の中に片付けられてしまったら母が可哀想ですから。伯父の運営する博物館の中に、戦時中のものを集めた写真や古着が展示されているホールがありまして、そこに入れてもらうことになりました。……あなたのように、絵を見て何か感じとってくれる人がこの先も現れるかもしれないですから」
あなた、と言って私のほうを見る。下手な嘘はとっくに見抜かれていたらしい。
カンバスを梱包し、駐車場に停めていた車に乗せると、息子夫婦は礼を言って立ち去った。一度自宅に持ち帰り、明日また博物館へ持っていくのだという。
遠くになるまで見送った私たちは駐車場から展示ホールへ戻る。その道中、校舎に入る手前で香椎先輩が急に立ち止まった。つられて私も、高嶺先輩も立ち止まる。
「香椎? どうした」
「……浅野さ、部活どうすんの?」
「え?」
じろっと目だけを動かして、香椎先輩は私に問う。
「話を聞いてりゃ、担任にしつこく強要されてんだろ? バイトの日以外は高嶺のところに行くって言っとけばしばらくは大丈夫だろうが、お前さえよければ暇な時に第八美術室に顔を出しに来い」
「……えぇ!?」
あまりにも唐突な提案に、思わず声が出てしまった。これには高嶺先輩も驚いていて「お、おい香椎!」と咎めた。
「正気か? 俺に巻き込むなって言ったくせに!」
「元はといえば、お前が巻き込んだんだから責任持てよ」
「そうだけど! 俺たちにとっては貴重な人材だし、このままにしておくのは勿体無いと思ってたけど」
「だろ。今なら紙パック代チャラにしてやってもいい」
「安い取引をするな! ……いいよ、わかった」
乗り掛かった舟だ、と小さく肩を落とした。仕方がないと言いたげながらも、心なしか嬉しそうに見える。本日何度目かもわからない、困惑する私に高嶺先輩がいう。
「埃っぽいところに好んで来ると変な目で見られるかもだけど、それでもいいならおいで」
「……いいんですか?」
「いいよ。香椎がこんなに活き活きとしているのは久々だ。その礼はさせてほしい。……それと」
高嶺先輩が香椎先輩と目配せすると、私に向かって同時に頭を下げた。
「あの絵を見つけてくれて、泣いてくれてありがとう」
――桜の花びら舞う、四月の空。こうして私が駆け込んだ世界は、胸にぽっかりと空いた穴を埋める優しさと、寂しさを残して別れを告げるとともに、新たな景色に小さく胸が高鳴った。
顔に出ていたのか、笑みを隠せない私を見て、先輩たちも笑った。