屋上のフェンスの向こうに立つサチの後姿が目に入り、心臓が締め付けられた。その姿は、さっき別れた時と同じ制服姿だ。もしかして、僕と別れた後からずっといたのかもしれない。

「怜くん…」

 体を横向きにして振り返ったサチの目は、暗い夜空の下でもわかるほど真っ赤に充血していた。

「なにしてんの、サチ」

 一体、何があったんだよ。

「こんな遅くに、どうしたの」

 サチは、僕の問いかけに答えずに、ただ潤んだ瞳を向けるだけだった。でも、その瞳は言葉以上にサチの苦しみを表し、訴えていた。

 僕は、ゆっくりとサチに近づいて、フェンスを掴む細い腕を掴んだ。驚くほど細くて冷たい手首だった。

「危ないから、こっちおいで」

 間近で見るサチの頬は涙が通った後がくっきりとわかるほどに濡れて乾いてを繰り返したのだろう。綺麗な白い肌が痛々しい。

「…ねぇ、怜くん…、死んだら楽になれるかな」

 胸が、締め付けられた。
 それと同時に、サチの手首を握る手に力をこめた。

「楽になれるなら…死ぬの?」

 静かな夜だ。
 時折真下を通る車の走行音だけがここまで上がってくる以外に音は無い。僕は、真っすぐにサチを見つめる。僕もフェンスの向こうに行こうかと思ったけれど、この手を離したらと想像したらできなかった。

「ダメだよ、死ぬのは」
「ーーーー…うっ…うぅっ…」

 フェンスを持つ手に顔をうずめて泣き崩れるサチを、僕はフェンス越しに抱きしめた。初めて触れた時、そのか細さに驚いた僕だったけれど、こうして腕の中に収めてしまうとその小ささにまた驚く。

 僕の胸におでこを押し当てて、サチは声をあげて泣いた。
 制服のシャツに滲む涙とサチの悲しみを代弁する嗚咽に、僕の心が痛む。いつもあんなに明るいサチが泣いている。しかも今日は自分の誕生日だというのに、生まれた日に死と向かい合うなんて、間違ってる。

 どれくらい泣いていただろうか、ようやく落ち着いた頃を見計らって僕はなんとかサチをこちら側へと誘導し、またじんわりとあたたかいコンクリの上に並んで座った。僕は、サロンエプロンのポケットからスマホを出して店長にサチが屋上にいて無事だということをメッセージを入れておいた。

 足を踏み外しやしないかと、握ったままだった手首は薄っすらと赤みを帯びてしまっていて申し訳なかった。

「おめでとう」
「…え?」

 僕の言葉の意味がわからなかったのか、サチはぽかんとした顔で僕を見た。瞼は腫れ、目は充血して鼻の先は真っ赤で、今だけはとてもお世辞にもかわいいとは言えない。

「今日、誕生日なんだって?なんで教えてくれなかったのさ」
「あ…、うん…」

 頷いたきり、言葉は続かない。次の瞬間には、サチは大粒の涙を目にため込んでいた。

「え…サチ…?」

 ぼろぼろと溢れて零れていく涙に、僕は焦る。

「ご、ごめん、責めてるわけじゃないんだよ、ただ、教えてくれたら何かお祝いできたのにって思って…だから…えっと、」
「…あ、ありがと…怜く…っ、ありがとう…」

 そう振り絞るように言って、サチは僕の胸に倒れ込むようにしがみついてきた。慌てて受け止める、細い肩。

 どうして、涙は枯れないのだろう。
 どんなに流しても、とめどなく溢れてくるんだ。
 悲しみも一緒に流してくれるならいくらでも流すけどそうじゃないから始末に負えない。

「…お母さん…っ、私の誕生日、っく、忘れてた…ひっ」

 しゃくりあげながら、サチはぽつりぽつりと話し出した。
 サチの弟が難病を患っているため母親は病院に付きっきりで家にはほとんど寝に帰ってくるだけで、今朝も誕生日のことには一言も触れてくれず、夕方電話して夕飯はどうするのかと聞いても勝手に食べててと言われて終わり。そのうち思い出してくれるかと今の今まで待っていたけれど電話もメッセージも無かったという。

 そして、それは今に始まったことではなく、高校3年という大事な時期に引っ越したのも弟の病院を変えたためで、子どものころからサチは何もかもが後回し。約束はいつも守られたためしはないし、そのことで文句を言おうものなら「仕方がないでしょ、幸は健康なだけ恵まれてると思って少しは我慢しなさい」と叱られるのだという。

「弟が…福(ふく)が、病気だから…お母さんも大変だし、疲れてるし、約束守ってもらえないのは、仕方がないって思ってたよ…?…でも…でもさ、一言、おめでとうくらいは、言って欲しかったよぉ…、私を、産んだ日だけは、忘れてほしく、なかった…」

 プレゼントもケーキもいらない。たった一言、母親からの「おめでとう」だけで良かったんだ。その瞬間、一瞬でもいい、自分のことだけに意識を向けてほしかった。それだけで、サチは乗り越えられたのに…。

「ーーー幸!!」

 突然、ドアの開く音と共に叫ばれた声が、僕とサチだけの静かな夜を切り裂いた。きっとサチの母親だろう、サチは勢いよく立ち上がると、後ずさった。その目には怒りや恐怖、悲しみがぐちゃぐちゃに混ざった色を宿していて、不安を覚えた僕も立ち上がってサチのそばに歩みよる。
 サチの母親は速足でこちらまで一直線に来ると、怒りをぶちまけるように声を張り上げた。

「こんな時間まで家を出て連絡もしないなんて、どれだけ心配させれば気が済むの!」

 あまりの声に、サチは顔を背ける。 

「姉さん!落ち着いて!」

 後から来た店長が、母親をなだめるように肩に手を置くも、「あんたは黙ってて」と一蹴されてしまう。

「おか、さんは…、私なんて、いらないんでしょ!」
「何バカなこと言ってるの?そんなわけ無いでしょう。ただでさえ福のことで疲れてるんだからこれ以上煩わせないでちょうだい」
「ほら、何を言っても福福福!お母さんはいつも福ばっかり!私のことなんか見てないじゃない!もう放っておいて!」
「もういい加減にしなさい!」
「姉さん!」

 三歩、サチの母親が前に進みサチの目の前まできて右手を振り上げた。サチは目をぎゅっと瞑る。
 それがとてもスローモーションに見えた僕は、サチの顔に振り落とされるその手をとっさに掴んだ。

「っ、放しなさいよ」
「叩かないと約束してくれるなら、放します」
「怜くん…」
「あなたには、関係ないでしょう?!幸を見つけてくれたことは感謝するけど、もう帰ってもらえる?!」
「嫌です」
「なっ!…なんなのよ、あなた」
「どんな理由でも、子どもを叩いたら、虐待です」

 僕は、ど正論をぶつける。

「叩かれたほうは体だけじゃなくて、心も傷つきます」

 力んでいた手から力が抜けたのを感じて、僕は母親の手を放した。

「サチさんは、ずっと我慢してきたんです」
「…当たり前でしょ…、福は病気なのよ、健康な幸とは違う」
「健康なら我慢して当たり前ですか?何をしても、約束を破っても構わないとでも?サチさんだって、一人の人間ですよ?!ひどいことを言われたりひどい扱いをされたら、傷つくんです。そりゃ、弟さんの病気は確かに本人もお母さんもツラいだろうし大変だろうけど、サチさんだってあなたの子どもに変わりないじゃないですか!」

 それを…、健康だからと、我慢しろだなんて、あんまりだ。僕たち子どもにとって、母親という存在は代わりのきかない唯一の存在だというのに。どれだけ大きな存在か、どうしてわからないんだ。
 サチは、自分の心が空っぽだと、だから死にたいと言ったんだ。出会ったここで、さっきだって今にも飛び降りそうだったんだ。楽になれるなら死を望むと言ったんだ。

「サチさんは…、あなたに、たった一言でいいから『おめでとう』って言ってほしかったんです。なのに、どうして…っ」

 うまくいかないんだろう。
 僕たちは、ただ、必要とされたいだけなのに。多くは望んでいないのに、それすらも、叶わない。

「怜く…、もう、いいよ…」

 サチが僕の腕を引っ張った。

「もう、いいから、泣かないで……」

 言われて初めて自分が泣いていることに気が付いて、僕は濡れた顔を腕で拭う。

 ――たった一言。

 僕たちの存在を肯定する言葉でも、否定する言葉でも、そのたった一言が僕たちにとっていかに大きな影響力を持っているか、この人達は全くわかっていない。

 サチの母親に放った言葉は、サチの代弁であり僕自身の嘆きだったことを濡れた頬の冷たさに思い知らされた。

「お母さん…、もう少し落ち着いたらちゃんと帰るから、先に帰ってて…お願い」

 サチの母親は、まだ何か言いたげに口を開いたが、結局何も言わずにドアの向こうに姿を消した。

「幸、出来るだけ早く帰ってちゃんと話しろよ。…怜くんも、ありがとう」

 店長は僕らにそう声をかけると屋上から出ていき、また静かな夜が訪れる。

「…なんか、ごめん…」

 部外者の僕が一人で勝手に熱くなって、挙句泣いてしまって、急に恥ずかしさがこみ上げてくる。
 僕の腕を掴んだままのサチは、僕の腕におでこをこつんと寄せると「ううん、ありがとう」と呟いた。そう言ってもらえて、僕の心は少し軽くなる。

「助けてくれて…ありがとう。嬉しかった、本当に」
「サチ」

 僕は、サチの手を取り、向かい合うと両手でしっかりと握った。

「サチの命は、この世に生を受けた時点で君だけのもので、誰かのためにあるものじゃない」

 サチが、僕に言ってくれた言葉だ。

「だけど、サチが生きてることで、幸せになる人がいる。僕もその一人だよ」

 僕は、あの時確かにサチに救われたし、サチといる時間だけはモノクロでもつまらないものでもなくて、サチといる時の自分もなかなか悪くないって思うんだ。
 僕なんかじゃ、君を救うことは出来ないかもしれないけど、言わずにはいられない。

「だから、お願いだ。もう、死のうなんて考えないで。さっき…サチがもしかしたら死んでしまうかもしれない、と思った時、たまらなく不安で怖かったんだ」

 その漆黒の瞳に涙をためながら何度も何度も頷くサチを見て、僕はまた小さな体を抱きしめた。今度は、僕たちの間を遮るフェンスはない。薄いシャツ越しに伝わる互いの体温の温かさに、生を実感する。

生きてる。

僕らは生きてる。

「死なないよ…、私、死なない」

 僕の胸に顔をうずめて言うそれは、まるでサチ自身に言い聞かせているようだった。

「こんな私でも、死んだら悲しんでくれる人がいるってわかったから…」

 フェンスの向こうに立ち、目を瞑って手を放せば、もしかしたら楽になれるかもしれない。
 けれど、決して忘れてはいけないことがある。
 消えていく命だとしても、この世に生まれた意味が必ずあるということ。サチが僕に言葉をくれたように、その言葉で僕が救われたように、それは紛れもない真実だと僕は思った。

「ありがとう、怜くん、…私に生きる理由をくれて、ありがとう…っ」

 生きることを諦めさえしなければ、時雨のように降り続けるとめどない涙で濡れた頬の冷たさを、僕らはきっといつか誰かと分かち合えるだろう。