「ふう……」

 採用面接が終わると、緊張の糸がほぐれてどっと疲れがこみ上げて来た。会社から出て少し歩いたところにある公園で、私は息を吐いた。面接自体は初めててはないが、やっぱり毎回ちゃんと緊張するし、変な汗をかいてしまう。手応えはあまりないけれど、ありのままに質問に答えたはずだ。これでどんな結果になっても悔いはない。
 気疲れを落ち着けるべく、私はベンチに座って空を見上げた。奏がきっと見守ってくれている。空を見るといつも、奏の気配を感じられて好きだった。

 公園の真ん中にある泉の周りで小さい子供たちがお母さんと一緒にはしゃぎ回る声が聞こえる。どこにでもあるのどかな光景に、いつの間にか心洗われる自分がいた。ふふ、私ももう大人になってしまったんだなぁ。小さい頃、奏と一緒に公園で走り回っていた思い出が記憶の中を駆け巡る。私の人生の中で奏の存在がどれほど大きかったかを最近思い知っている。そしてこれから茫漠と広がる私の未来に奏がいない不安は、どうやっても消えそうにない。

「あっ」

 ぼうっとしていると向こうから飛んできたゴム製のボールが、私の足下に転がった。
 ボールを追って、トコトコと走ってくる二歳ぐらいの女の子に、私はボールを手渡した。

「ありがとう」

「どういたしまして」

 まだ舌ったらずな物言いで、女の子はにっこりと嬉しそうに笑った。私もつられて笑う。後ろからお母さんと思しき人がやって来た。

「カナデ、こっちで遊ばないとダメでしょう。ごめんなさいね」

「いえ! お構いなく」

 かなで、と呼ばれた女の子がお母さんに手を引かれて離れていく。後ろを振り返り、大きな瞳で私を見つめている。私は、遠ざかっていく彼女に手を振った。

「ばいばい、奏」

 あの子の人生は、これからとんでもなく長い。いつか大切な人に出会い、失って、喜んだり悲しんだりするんだろうな。
 私も、もう行かなきゃ。
 椅子から立ち上がり、駅の方へとゆっくりと歩き出す。
 胸に新鮮な空気が入り込み、ようやくまっすぐ前を向いた。


「安藤くん、お待たせ」

 京都の河原町に戻ると、安藤くんが改札の前で私を待っていてくれていた。大阪から京都に戻ってくると、帰ってきた、という感覚に襲われる。私ももういい加減、京都に囚われている。

「いえいえ、待ってへんよ! お疲れ。面接どうやった?」

「なんとか乗り切ったって感じ。まあ、ダメでも次頑張るわ」

「潔いな。いいことや」

 安藤くんは昼間会った時よりもいささか緊張した面持ちで私を迎えてくれた。その表情が、今夜のご飯をデートだと表現しているようで、私も一気に心臓の音が鳴り出した。

「どうしたん? なんか変なもんでも食べた?」

「な、そんなんじゃないよ。ほら、行こう」

 私は、「えっ」と声を上げる彼の前をすたすたと歩き始める。安藤くんは知らないんでしょう。私の心臓、今面接の時よりも速く動いてるんだから——。

「わっ」

 無理して早足で歩いたせいで、私は足を挫いてバランスを崩した。それもこれもパンプスのせいだ。こんな歩きにくい靴、早く脱いでしまいたい。

「大丈夫? ほら」

 視線の先にすっと伸びてきた彼の手を、私はじっと見つめる。
 安藤くんは奏に恋をしていた。
 だけど私は奏じゃない。そんなことはこの三ヶ月間で彼も重々承知しているはず。それでも彼は、私に手を差し出してくれている。この手を掴んでも、いいんだろうか。安藤くんは照れ臭そうに私の反応を待っている。何を迷っているのだろう。彼は他の誰でもない、私を見てくれているのだ。
 私は掌を握り、汗が出ていないか確認してから安藤くんの手をそっと握った。少し汗ばんだ彼の掌が温かい。胸がきゅっと締め付けられるような気がして、やっぱり鼓動が速くなるのを感じた。

「気をつけてな」

「うん」

 彼の言うことに従って、彼の横でゆっくりと歩き出す。安藤くんはスマホでマップを見ながら今日行く予定のご飯屋さんの場所を確認していた。私は、恥ずかしくて顔を上げられない。

「そういえば三輪さんと学、付き合うことになったんやって!」

 安藤くんが緊張した私に気を遣ってか、思い出したように言った。

「え、そうなの?」

「うん。僕も今日知ったんやけどね。まったく学のやつ、僕を差し置いて楽しんでやがる」

 悔しそうな安藤くんだったが、その声はどことなく明るい。本当は御手洗くんに幸せになってもらいたいんだろう。

「そっかあ。なんか良かったな。私もつばきには幸せになってほしいから」

「せやな」

 二人して友人の幸せを願っていると、自然と思考は自分たちの関係へと引きずられていた。

「あのさ、西條さんはその……気にしてるん?」

「え?」

 夜の繁華街、道ゆく人々が恋人や仲間たちと楽しそうに喋りながら遠ざかっていく。リクルートスーツ姿の女の子なんて全然いない。

「僕が、西條さんのことを奏の代わりだと思ってるんやないかって」

「それは……」

 気にしていない、と言えば嘘になる。
 でも、彼が葛藤を乗り越えて私をきちんと華苗として見てくれていることを知っている。普段はひょうきん者の安藤くんだけれど、好きな人にまっすぐ向かっていく性格は素敵だと思っていた。ユカイから私を助け出してくれたのも彼だ。彼は私の命の恩人だから、私に対して真剣に向き合ってくれていることが伝わってくる。

「ううん、私は安藤くんが誠実な人だって知ってる。だから奏の代わりとして私を見てるなんて思ってない」

「そっか、良かった」

 ほっと胸を撫で下ろす安藤くん。私は彼に伝えたかったことを口にした。

「私は奏を忘れないし、忘れたくない。安藤くんも、奏のこと無理に忘れようとしないで。奏のこと好きでいて。でも私のことも……その、見てほしい」

 人生で一度も、こんなに恥ずかしい台詞を吐いたことはない。繁華街の煌めきが何も目に入らないくらい、自分の気持ちを伝えるのでいっぱいいっぱいになっていた。

 安藤くんが驚いたように息をのむ気配がした。恥ずかしくて彼の目を見ることができない私は、視線を下に落とす。パンプスの先が少し白っぽく汚れていた。きっと今日、公園にいったせいだ。

「そんなの、当たり前やんか」

 はいこれ、と安藤くんが鞄からウェットティッシュを取り出して私に渡してくれた。これで靴を拭いて、ということだろう。まったく、安藤くんはどうしてこんなものまで持ち歩いているのだろう。おかしくて笑いながら、私は彼からウェットティッシュを受け取った。

「ありがとう」

 安藤くんは私を繁華街から鴨川の方へと連れていく。京都の街並みが一気に広がる。川沿いの店にでもいくのだろうか。どこに行くにしろ、そこはきっと桃源郷のように楽しいに違いない。

 彼は来月から就職で東京に行くことになる。でも私は、この地で彼に出会った。ここが、私たちの始まりの場所だ。たとえ遠く離れても、彼が大切な人であることには変わらない。

 そうだよね、奏。

 刹那、吹き抜ける風が私の髪の毛を揺らす。さっと彼の頬に当たり、二人して顔を見合わせる。今、確かに隣にある温もりを感じながら、幸せな未来を想像する。大丈夫、未来の私はきっと笑っているだろう。
 私の大好きな京都で出会った、大切な人と一緒にいる未来を夢見て。

【終わり】