春風が、まだ肌寒い三月の京都の街を包み込む。ほのかに香る春の気配に、私は思わず目を細める。この季節になると、四年前のあの日のことが蘇ってくる。地元の書店で、奏が新しいことに挑戦したいと訴えてきた日。私は奏と一緒に京都で生活できるだけで十分楽しみだったのだけれど、奏の並々ならぬ決意の滲む瞳に揺り動かされ、YouTuberとして活動を始めたのだ。あれが奏にとっては転機だった。私は、大学生になり人前でキラキラとした女子の憧れの存在に生まれ変わっていく奏を、一番近くで見ていた。
「奏……」
ふと、頬を撫でる風に奏の気配を感じて立ち止まる。奏がそばにいるはずないのに、奏に激励されている気がした。
リクルートスーツに身を包んだ私は、大阪の繁華街へと続く電車に乗り込むべく、河原町へと向かっていた。今日は大阪で採用面接を受けなければならない。去年いろいろあったせいで、私はまだ就職先が決まっていなかった。そのため、今年は就職浪人をする予定だ。
出町柳駅から河原町までは電車かバスで行くのが早いのだけれど、私はあえて鴨川沿いを南下することにした。四年前、初めて見た鴨川の景色を前に、奏と一緒に空気がおいしいねと笑ったのを思い出す。鴨川の澄んだ水を見て、これまで幾人の人の心が洗われてきたんだろうか。きっと何百年も昔から、鴨川は移りゆく京都の街並みの中、京都のシンボルとして街の人々を見守ってきたのだ。なんて、面接前に現実逃避をしたくて遥か遠くの歴史へと思いを馳せる自分がイタい。
鴨川沿いを歩き、四条大橋が見えて来たところで私は歩道へと上がった。慣れないパンプスを履いたせいですでに足が疲れていたが、しっかりと前を向いて歩く。四条大橋はおそらく京都で一番人が往来する場所だ。鴨川の東側は祇園、西側は河原町へと続いている。私は河原町の方へ橋を渡るべく一歩踏み出した。
橋の上からは壮大な鴨川の景色が見えるから気分がいい。ここで写真を撮る人も多い。確か京都に来たばかりのころ、私も奏と一緒に写真を撮ったっけ。思い出される奏との京都での日々に、胸が熱くなった。
橋を渡り切り、阪急電車の入り口前まで来たところで、私はスーツの裾から糸が垂れ下がっていることに気がついた。
「うわ、やっば」
今から面接に行くのに、裾がほつれてる!
どうしよう。ハサミなんて持ってないし、買いに行くには少々時間がかかる。河川敷をのんびり歩きすぎたせいか、目的の電車が来るのにあと十分しかなかった。
途方に暮れてその場に立ち尽くしていると、後ろからポンと肩を叩かれる。
「西條さん?」
「わっ」
振り返って目の前に現れたのは安藤くんだ。街中で知り合いに話しかけられるとは思わず、驚いて一歩下がってしまった。
「そんな驚かんでもええやん」
「ご、ごめんなさい」
「いや、ええけどどうしたん? 今から面接?」
「うん。そうなんだけど、これ……」
私は安藤くんにスーツのほつれた部分を見せる。「ああ、なるほど……」と神妙に頷いたかと思うと、彼は鞄の中をガサゴソとまさぐり、携帯用のハサミを差し出してくれた。
「これ、よかったら使って」
「え、ありがとう」
まさか彼の鞄からハサミが出てくるとは思わなかった私は、再び驚いて安藤くんを二度見してしまう。しかし、時は一刻を争う事態。私は、彼から受け取ったハサミでほつれた部分をカットした。
「ありがとう、助かった。でもなんでハサミなんか持ち歩いてるの?」
「ほら、たまに出かけた先でハサミ欲しい時あらへん?」
「まあ確かに、買ったもののタグを切る時とか……」
「そうそう! そういう時のために一応持っててん! ……いや、ちゃうな。『面接前の西條さんのスーツのほつれを切るため』やわ」
したり顔で胸をそらす安藤くん。そんな彼がおかしくて、私は思わず笑ってしまう。
「なんや笑わんといてよ」
「だって、さすがだなって思って」
「それ、褒めとるん?」
「もちろん!」
笑顔でそう答えると、安藤くんはほっとした様子だった。
「恭太、お待たせ」
私たちが話していると、なんと向かいの横断歩道から御手洗くんとつばきが渡ってきた。
「あれ、ナエじゃん。スーツってことは今から面接?」
「そう」
三人で遊びに来たのか、と納得がいったけど、よく見れば御手洗くんとつばきの距離が近い。つばきはクリスマスイブに神谷くんと別れたって言ってたけど、もしかして御手洗くんといい感じなの!?
聞きたいことはいろいろあったけれど、腕時計を見ると電車の出発時刻まで残り3分を切っていた。私は慌てて、「また後で!」と三人に告げる。しかし、安藤くんが「あ!」と声を上げたので私は立ち止まる。
「どうしたの?」
「あのさ、今日面接が終わったら……時間ある?」
「う、うん」
「良かった。じゃあ一緒にご飯でも食べに行かへん?」
「……分かった」
私が頷くと、後ろで御手洗くんとつばきがニヤニヤと笑みを浮かべているのが見えた。
「も、もう! あんまり見ないで!」
後ろの二人に向かって叫びつつ、私は足早にホームへと向かった。
安藤くんが私を誘うなんて、初めてのことだ。これから面接だというのに頭から彼の顔が離れない。ダメだ、ダメ! せめて面接が終わってから考えるのよ!
妄想で自分の頬をパチンと叩き、私はやって来た電車に飛び乗った。