西條さんの呼吸が荒くなる。当時のことを思い出して、相当追い詰められているのだろう。三輪さんが、「もうやめる?」と心配して問いかけたが、西條さんは首を横に振った。まるで、「最後まで話してほしい」と言っているようだ。
姉がいなくなったことを受け入れられずに自分が姉だと思い込む——半ば信じがたい話だが、心に大きなショックを受けた西條さんの防衛本能が働いたというのは頷ける。
「びっくりしたのは、話し方や性格までナエはカナになりきっていたことよ。高校の頃からどちらかと言えばカナは控えめで真面目なタイプ、ナエは楽観的で明るいタイプだった。ナエはカナのことを完全にトレースしてた」
これには西條さんも頷いた。心当たりがあるのだろう。僕や学は本当の奏のことを知らないのでなんとも言えないが本人がそう思うなら間違いない。
「でも、ナエがカナになっているのはずっとじゃなかったの。時々思い出したかのように華苗に戻ることがあった。そういう時、ナエは自分が奏になっていたことを忘れていて、記憶もなくなっているみたいだったわ」
「確かにそうだ……身に覚えがないことがあったり、記憶が飛んでいたり……。YouTube時代のことも思い出そうとすると頭が痛くて。たぶん、YouTube時代のことは奏なしには語れないから……心に蓋をして見えないようにしていたんだと思う」
西條さんが胸に手を当てて深く息を吸っては吐いて、を繰り返していた。そうでもしないと平静を保てないのだろう。
西條さんの記憶がなくなっている件については、僕にも身に覚えがあった。NFで西條さんと三輪さんに鉢合わせした時、西條さんは僕の顔を見て誰だったか思い出せない様子だった。あれは、奏になりかわった華苗ではなく、華苗自身だったに違いない。華苗として僕に会うのが初めてだった西條さんは、当然僕のことを知らないわけで。誰だか分からないのは当たり前だった。
「あたしは、ナエがカナになっている間、真実を伝えようか散々迷ったわ。YouTubeのことをそれとなく伝えようとしたり、就職とか未来の話をして少しでもナエがカナのことに気づくように仕向けたりした。でも、これだけショックを受けているナエに真実を告げても、余計にナエを苦しめるだけだと思って……。だから、ナエが自然と自分のことを思い出すのを待とうと思ったの。心の整理がつくまで、ナエがカナになりきっているのを、あたしは側で見守っていようって。カナが所属してた文学部にも、ナエが所属する経済学部にも、二人の知り合いに直接会って話をして、どうか話を合わせてほしいってお願いした。皆、事情を聞いたら分かってくれたよ。もちろん、全員にお願いできたわけじゃない。もしかしたらナエを見ておかしいなって気づく人がいたかもしれない。だけど、あたしにできることはそれくらいしかなくて……。これまで黙ってて、ごめんなさい」
三輪さんが、深く頭を下げる。
たった一人、西條さんの秘密を知っていた三輪さんは、この半年間西條さんが傷つかないように、相当の苦労を要しただろう。西條姉妹の友達に必死に頭を下げている彼女の姿が目に浮かぶ。僕だったら、そこまでのことができただろうか。もしよくないタイミングで西條さんが真実に気がつけば、余計に彼女を混乱させ、破滅させることになる。三輪さんも、それだけは避けたかったはずだ。
「守りたかった……ナエも、カナも。二人のことが大好きだったから、もう二度と、ナエが傷つくところを見たくなかった。それが結果的にあたしの自己満足に終わるとしても。でもナエは、あたしのこと許せないよね」
三輪さんが自分の胸の前で洋服の襟をぎゅっと握る。大切にしすぎて壊してしまいそうな勢いで指先に力を込める。彼女の拳が次第に真っ赤に染まっていく。三輪さんの心の葛藤が、痛いくらいに伝わってきて、僕まで身につまされた気分だった。
「そんなこと、ない」
「え?」
これまで三輪さんの話を、泣きそうな顔で聞いていた西條さんが口を開く。
「許せないなんて、そんなはずない。私がどれだけつばきに感謝してるか」
分かる? と三輪さんの目を見つめて問いかける。今度は三輪さんの目尻に涙が溜まっていた。
「ありがとうつばき。私のこと、そばで守ってくれて。正直、まだ全然現実を受け入れられない……。奏のことを想うと悲しくてたまらない。だけど、転びそうだった私を必死に支えてくれたのはつばきや、ここにいる安藤くんや御手洗くん、皆のおかげで私
はなんとか今自分を保ててるんだ。だからさ、顔を上げてよ。ねえ、つばき」
もういいよ、と三輪さんを見つめる西條さんの瞳がそう語っている。
ああ、この人は紛れもなく西條さんや。
僕が知っている西條さんは、姉に扮した妹だったけれど、親友を真っ直ぐに見つめるそのひたむきさは変わらない。
僕が恋した彼女そのものだった。
「皆、助けてくれて本当にありがとう」
西條さんが朗らかに笑う。僕はずっと、この笑顔を見たかった。
恋人がほしいと躍起になる西條さんも、行方不明になった双子の片割れのことを思って切なげな表情を浮かべる西條さんも、全部彼女であることには変わりないのだけれど。
ただ彼女の笑顔を見たい。好きになったらもう、彼女の笑った顔を見ていられるだけでこんなにも幸せなもんなんやな。
「あーお腹いっぱい! あのさ、最後に一つだけお願いがあるんだけど」
西條さんが再び三輪さんの方を見る。三輪さんはもう涙を流してなどいない。真っ赤に腫らした瞳をゴシゴシと袖で擦った。
「なに?」
「あのね——」
姉がいなくなったことを受け入れられずに自分が姉だと思い込む——半ば信じがたい話だが、心に大きなショックを受けた西條さんの防衛本能が働いたというのは頷ける。
「びっくりしたのは、話し方や性格までナエはカナになりきっていたことよ。高校の頃からどちらかと言えばカナは控えめで真面目なタイプ、ナエは楽観的で明るいタイプだった。ナエはカナのことを完全にトレースしてた」
これには西條さんも頷いた。心当たりがあるのだろう。僕や学は本当の奏のことを知らないのでなんとも言えないが本人がそう思うなら間違いない。
「でも、ナエがカナになっているのはずっとじゃなかったの。時々思い出したかのように華苗に戻ることがあった。そういう時、ナエは自分が奏になっていたことを忘れていて、記憶もなくなっているみたいだったわ」
「確かにそうだ……身に覚えがないことがあったり、記憶が飛んでいたり……。YouTube時代のことも思い出そうとすると頭が痛くて。たぶん、YouTube時代のことは奏なしには語れないから……心に蓋をして見えないようにしていたんだと思う」
西條さんが胸に手を当てて深く息を吸っては吐いて、を繰り返していた。そうでもしないと平静を保てないのだろう。
西條さんの記憶がなくなっている件については、僕にも身に覚えがあった。NFで西條さんと三輪さんに鉢合わせした時、西條さんは僕の顔を見て誰だったか思い出せない様子だった。あれは、奏になりかわった華苗ではなく、華苗自身だったに違いない。華苗として僕に会うのが初めてだった西條さんは、当然僕のことを知らないわけで。誰だか分からないのは当たり前だった。
「あたしは、ナエがカナになっている間、真実を伝えようか散々迷ったわ。YouTubeのことをそれとなく伝えようとしたり、就職とか未来の話をして少しでもナエがカナのことに気づくように仕向けたりした。でも、これだけショックを受けているナエに真実を告げても、余計にナエを苦しめるだけだと思って……。だから、ナエが自然と自分のことを思い出すのを待とうと思ったの。心の整理がつくまで、ナエがカナになりきっているのを、あたしは側で見守っていようって。カナが所属してた文学部にも、ナエが所属する経済学部にも、二人の知り合いに直接会って話をして、どうか話を合わせてほしいってお願いした。皆、事情を聞いたら分かってくれたよ。もちろん、全員にお願いできたわけじゃない。もしかしたらナエを見ておかしいなって気づく人がいたかもしれない。だけど、あたしにできることはそれくらいしかなくて……。これまで黙ってて、ごめんなさい」
三輪さんが、深く頭を下げる。
たった一人、西條さんの秘密を知っていた三輪さんは、この半年間西條さんが傷つかないように、相当の苦労を要しただろう。西條姉妹の友達に必死に頭を下げている彼女の姿が目に浮かぶ。僕だったら、そこまでのことができただろうか。もしよくないタイミングで西條さんが真実に気がつけば、余計に彼女を混乱させ、破滅させることになる。三輪さんも、それだけは避けたかったはずだ。
「守りたかった……ナエも、カナも。二人のことが大好きだったから、もう二度と、ナエが傷つくところを見たくなかった。それが結果的にあたしの自己満足に終わるとしても。でもナエは、あたしのこと許せないよね」
三輪さんが自分の胸の前で洋服の襟をぎゅっと握る。大切にしすぎて壊してしまいそうな勢いで指先に力を込める。彼女の拳が次第に真っ赤に染まっていく。三輪さんの心の葛藤が、痛いくらいに伝わってきて、僕まで身につまされた気分だった。
「そんなこと、ない」
「え?」
これまで三輪さんの話を、泣きそうな顔で聞いていた西條さんが口を開く。
「許せないなんて、そんなはずない。私がどれだけつばきに感謝してるか」
分かる? と三輪さんの目を見つめて問いかける。今度は三輪さんの目尻に涙が溜まっていた。
「ありがとうつばき。私のこと、そばで守ってくれて。正直、まだ全然現実を受け入れられない……。奏のことを想うと悲しくてたまらない。だけど、転びそうだった私を必死に支えてくれたのはつばきや、ここにいる安藤くんや御手洗くん、皆のおかげで私
はなんとか今自分を保ててるんだ。だからさ、顔を上げてよ。ねえ、つばき」
もういいよ、と三輪さんを見つめる西條さんの瞳がそう語っている。
ああ、この人は紛れもなく西條さんや。
僕が知っている西條さんは、姉に扮した妹だったけれど、親友を真っ直ぐに見つめるそのひたむきさは変わらない。
僕が恋した彼女そのものだった。
「皆、助けてくれて本当にありがとう」
西條さんが朗らかに笑う。僕はずっと、この笑顔を見たかった。
恋人がほしいと躍起になる西條さんも、行方不明になった双子の片割れのことを思って切なげな表情を浮かべる西條さんも、全部彼女であることには変わりないのだけれど。
ただ彼女の笑顔を見たい。好きになったらもう、彼女の笑った顔を見ていられるだけでこんなにも幸せなもんなんやな。
「あーお腹いっぱい! あのさ、最後に一つだけお願いがあるんだけど」
西條さんが再び三輪さんの方を見る。三輪さんはもう涙を流してなどいない。真っ赤に腫らした瞳をゴシゴシと袖で擦った。
「なに?」
「あのね——」