*
もうダメだ。
目の前まで迫って来るユカイの顔は、嫉妬にまみれ歪んでいた。私は覚悟を決めて再び両眼をぎゅっと瞑る。ユカイの両掌が私の首を覆い、爪が肌に食い込む。ぐぬぬ、と声にならない悲鳴が泡と一緒に口から漏れた。
「……っ、めて」
やめて、と叫びたいのに声が出ない。
楽しげに奇声をあげるユカイは、もうとっくに人間の心など持ち合わせていないようだった。
このままじゃ、死んじゃう……。
奏、あなたも同じ目に遭ったの?
半年前のあの日、二人で出かける予定だったあなたが忘れ物をしたと言って家に戻っていったとき。
たまたまアプリでやりとりをしていたユカイに出会い、拐われて。
今の私のように、どこかに閉じ込められて襲われたの……?
あなたは自らの意思で失踪してしまったのかもしれないと思い込んでいたけれど、本当は今の私みたいに、「助けて」と叫んでいたの?
もしそうだったら、本当にごめんなさい。
あなたの叫びに、気づいてあげられなくてごめんなさい——。
「さあ、もう諦めるんだ! 君もお姉さんの元へ行くんだ!」
ユカイの両手の指により一層強い力が込められる。
奏、奏、奏。
私は今から、そっちにいくよ——。
何もかも諦めて抵抗する気力を失い、だらりと頭を垂れた時だった。
「西條さんから離れろっ!」
部屋の扉が勢いよく開かれる音がしたかと思うと、聞き覚えのある声が私の脳天を貫いた。
「な、なんだ君は!」
突然侵入者が現れたことが予想外だったのか、ユカイは私の首からとっさに手を離して振り返る。締め付けられていた力がなくなり、げほ、げほっと何度も咳き込んだ。全身が酸素を求め、息を吸うことだけに全神経が集中する。
「はあ……はあ……」
しばらくして、ようやく呼吸が整ってきたところで、状況を把握する。
「……安藤くん」
私の目の前に立つユカイと対峙していたのは、ほかでもない、私が助けを求めた安藤恭太だった。
「てめえ、何者だ? どうしてここが分かった」
「僕は、京都大学経済学部四回生の安藤恭太だ。そして西條さんの友達や。昨日、彼女から『自分たちがよく知っている場所にデートに行く』と聞いて、ぴんと来たんだ。僕と彼女の共通事項といえば、京大生であるということ。京大生がよく知っている場所はここ、京都大学やないかってね」
彼の言葉を聞いてハッとする。
京都大学……? ここが、大学構内だというの?
確かに私は安藤くんに私たちがよく知っている場所でユカイとデートをすると伝えたが、それは鴨川のことだ。鴨川は京大生の青春の場となっているからそう言っただけで。
でも、彼の勘違いが彼をここまで導いてくれたのだとしたら、こんなにも嬉しいことはなかった。
「京都大学って言っても広いから、走り回って探したよ。もしかしたら違うキャンパスかもしれないと思ったけど、西條さんは文学部やから文学部のある本部構内に絞って探したんや。なかなかハードな捜索やったよ。いろんな校舎を回って、最後に行き着いたのがここ、法経済学部本館の地下というわけや」
法経済学部本館の地下……。
ああ、そうか。そういうことだったの。
ここで目覚めたとき、どこか既視感があると思っていた。
私はずっと、奏がいなくなってから、西條奏として生きてきた。でも私は奏じゃない。華苗だ。私は文学部じゃなくて経済学部。ここを目にしてことがあるのも当然だった。それに、この間文学部で研究発表の授業に参加しようと受付で名前を告げたとき、事務員が首を傾げていたのを思い出した。そりゃそうだ、西條奏は行方不明になっているはずなのに、本人だと名乗る人物が現れたのだから混乱するのも無理はない。
「ふふふふふ、なかなかの名推理だな! しかしこんなところに身一つで乗り込んできて、君は馬鹿なのか?」
「う、それは……」
安藤くんがたじろぐ。
「京大生と言ってもこの程度かよ。俺の方が……俺の方がずっと、この大学にふさわしいんだよっ」
もうダメだ。
目の前まで迫って来るユカイの顔は、嫉妬にまみれ歪んでいた。私は覚悟を決めて再び両眼をぎゅっと瞑る。ユカイの両掌が私の首を覆い、爪が肌に食い込む。ぐぬぬ、と声にならない悲鳴が泡と一緒に口から漏れた。
「……っ、めて」
やめて、と叫びたいのに声が出ない。
楽しげに奇声をあげるユカイは、もうとっくに人間の心など持ち合わせていないようだった。
このままじゃ、死んじゃう……。
奏、あなたも同じ目に遭ったの?
半年前のあの日、二人で出かける予定だったあなたが忘れ物をしたと言って家に戻っていったとき。
たまたまアプリでやりとりをしていたユカイに出会い、拐われて。
今の私のように、どこかに閉じ込められて襲われたの……?
あなたは自らの意思で失踪してしまったのかもしれないと思い込んでいたけれど、本当は今の私みたいに、「助けて」と叫んでいたの?
もしそうだったら、本当にごめんなさい。
あなたの叫びに、気づいてあげられなくてごめんなさい——。
「さあ、もう諦めるんだ! 君もお姉さんの元へ行くんだ!」
ユカイの両手の指により一層強い力が込められる。
奏、奏、奏。
私は今から、そっちにいくよ——。
何もかも諦めて抵抗する気力を失い、だらりと頭を垂れた時だった。
「西條さんから離れろっ!」
部屋の扉が勢いよく開かれる音がしたかと思うと、聞き覚えのある声が私の脳天を貫いた。
「な、なんだ君は!」
突然侵入者が現れたことが予想外だったのか、ユカイは私の首からとっさに手を離して振り返る。締め付けられていた力がなくなり、げほ、げほっと何度も咳き込んだ。全身が酸素を求め、息を吸うことだけに全神経が集中する。
「はあ……はあ……」
しばらくして、ようやく呼吸が整ってきたところで、状況を把握する。
「……安藤くん」
私の目の前に立つユカイと対峙していたのは、ほかでもない、私が助けを求めた安藤恭太だった。
「てめえ、何者だ? どうしてここが分かった」
「僕は、京都大学経済学部四回生の安藤恭太だ。そして西條さんの友達や。昨日、彼女から『自分たちがよく知っている場所にデートに行く』と聞いて、ぴんと来たんだ。僕と彼女の共通事項といえば、京大生であるということ。京大生がよく知っている場所はここ、京都大学やないかってね」
彼の言葉を聞いてハッとする。
京都大学……? ここが、大学構内だというの?
確かに私は安藤くんに私たちがよく知っている場所でユカイとデートをすると伝えたが、それは鴨川のことだ。鴨川は京大生の青春の場となっているからそう言っただけで。
でも、彼の勘違いが彼をここまで導いてくれたのだとしたら、こんなにも嬉しいことはなかった。
「京都大学って言っても広いから、走り回って探したよ。もしかしたら違うキャンパスかもしれないと思ったけど、西條さんは文学部やから文学部のある本部構内に絞って探したんや。なかなかハードな捜索やったよ。いろんな校舎を回って、最後に行き着いたのがここ、法経済学部本館の地下というわけや」
法経済学部本館の地下……。
ああ、そうか。そういうことだったの。
ここで目覚めたとき、どこか既視感があると思っていた。
私はずっと、奏がいなくなってから、西條奏として生きてきた。でも私は奏じゃない。華苗だ。私は文学部じゃなくて経済学部。ここを目にしてことがあるのも当然だった。それに、この間文学部で研究発表の授業に参加しようと受付で名前を告げたとき、事務員が首を傾げていたのを思い出した。そりゃそうだ、西條奏は行方不明になっているはずなのに、本人だと名乗る人物が現れたのだから混乱するのも無理はない。
「ふふふふふ、なかなかの名推理だな! しかしこんなところに身一つで乗り込んできて、君は馬鹿なのか?」
「う、それは……」
安藤くんがたじろぐ。
「京大生と言ってもこの程度かよ。俺の方が……俺の方がずっと、この大学にふさわしいんだよっ」