もしも好きになった人に傷つくようなことがあったら、正義のヒーローになって助けに行きたい。好きになった人が不安になっていたらその肩を抱き、「大丈夫だ」と言ってあげたい。
大学に入学してからずっと僕は恋人という存在が欲しくてたまらなかった。
周りを見回すと彼女とどこそこにデートに行ったとか、誕生日プレゼントにティファニーの指輪をあげただとか、自慢げに話すやつらばかりで。僕は猛烈に嫉妬し、リア充生活を満喫する彼らを呪いたくもなった。
でも僕にも真奈という恋人ができて、分かったことがある。
世の恋人たちは皆手放しで幸せなだけじゃない。二人の関係に悩んだり苦しんだり、いろんな困難に立ち向かったりしているということ。そして、単に恋人が欲しいという感情だけでは、それらの問題を解決するには不十分だということ。
恋人が欲しいんじゃない。
僕は、好きになった人と幸せになりたいんや。
西條さんのことが好きだと気づいたのはつい先日のことだ。彼女からしたら僕なんてたくさんいる男友達の中の一人でしかないのかもしれない。僕と学は同列で、愉快な京大生としか思われていないのかも。
それでも、僕は彼女のことが好きやから、もしも彼女に危機が迫っているのなら助けなければならない。好きになった期間なんて、どうでもいいことなんや。ほんの少しのきっかけで、人は誰かに恋をする。一昨日の晩、妹のいない初めてのクリスマスに声を震わせていた彼女の心ごと、僕は抱きしめたかった。今日、学が三輪さんにそうしたように。
気持ち悪いと言われるかもしれない。
拒絶されるかもしれない。
けれど、何もせずにこの気持ちを諦めるくらいなら、嫌われる方がましだ。
西條さんの居場所が分からない。
僕たちがよく知ってる場所って、どこなんや。
僕は、百万遍の学の家からまず出町柳駅の方へと向かった。出町柳駅と京大の本部キャンパス入り口を一直線につなぐ今出川通りを走りながら、すれ違う二人組を観察する。朝から降り続く雪が、身体中にまとわりついて僕の身体を冷やしていく。途中現れる横道では、ずっと向こうの方へと視線を這わせて人がいないか確認した。京都には細い横道がたくさんある。しかしその先は住宅地であることが多く。そんなところへデートで行っているとは思えない。
どこだ、どこにいるんやっ。
もしも彼女や相手の家にいるようなことがあれば、どんなに探しても見つかるはずがない。その場合、いずれ西條さんから三輪さんに連絡がいくことを願うしかなかった。だがそれも、西條さんに危害が加えられていないことが前提となる。もしも彼女の身に何かあったら……と考えるとゾッとして背中の鳥肌が立った。
この辺でデートで行くような場所は——と考えると、鴨川かカフェぐらいしか思いつかない。カフェは結構多いので今頃コーヒーでも飲んで楽しくおしゃべりしているのかも。それならいい。いや、厳密に言うとよくないのだが……今は僕の感情を優先してる場合やない。
「西條さん!」
彼女の名前を叫びながら、僕は鴨川デルタまでたどり着いた。春や夏にはこの場所でお酒を飲む若者や小さい子供づれの家族が遊んでいるのだが、この寒い中デルタで遊ぼうなんていう猛者はいなかった。せいぜい橋の上から雪の降る鴨川の写真を撮っている人たちぐらいだ。
しかし僕はあらゆる可能性を考えて——たとえば、鴨川に西條さんが流されているとか——デルタの岸まで降り立った。
「さっむ!」
遮るものが何もない鴨川デルタで、雪の降る今日は立っているだけでも凍てつくような寒さが全身を襲った。はっきり言ってこんな日にデルタなんて馬鹿としか言いようがない。橋の上から僕を見ている人がいれば、若者がまた無茶をしているとしか思われないだろう。
「西條さーん」
彼女の名前を大声で呼ぶ。しかし、その声は風の中にかき消され、遠くまで響くことはない。もしも彼女が川に流されていたらと思うと、居ても立ってもいられず川の方まで進んでいった。
「西條さん、おらへんか!?」
こんなところで見つかるほうが嫌なのだが、万が一のことを考えて川面を覗き込んだ。
「おわっ!」
あまりにも必死すぎて、足場を確保するのが遅れた僕はデルタの坂から川の方へと滑り落ちる。
「っつ」
ゴツゴツした石に足首を打ちつけ、キインという嫌な痛みが全身を駆け巡る。寒さもあいまって、余計に痛みがひどい。
ああ、僕はこのままここで凍死してまうんやろうか……。
橋の上から「きみ、大丈夫か!」と優しい誰かが叫ぶ声が聞こえているにもかかわらず、そんな馬鹿みたいなことを考えていた。もしここが山の中だったら僕は完全に遭難している。
「だ、大丈夫です」
こんなときにこんなところで助けてもらうのは恥ずかしく、僕はあらんかぎりの声で返事をした。すると「そうか。気をつけろよ」と僕に声をかけてくれた男性が去っていった。
這いつくばりながらデルタの岸へと再びよじ登る。上まで登ると走り回った疲れがどっと押し寄せて来て、そのまますっと意識が遠のきかけた。
こんなところで寝たらあかんのに。
頭では分かっているのに、体が言うことを聞かない。どうやら先ほど転んだのが思った以上に身に堪えたようだ。
「西條さん……」
ああ、僕はなんて情けないんやろか。
好きな人の一人も見つけられへんって。
もし今頃西條さんが危険な目に遭っているとすれば、こんなところで時間を無駄にするわけにはいかない。どこでもいい、とにかく動かなければ。
でも、どこに……?
何の手がかりもなく走り回ったところで余計な体力を消耗するだけだ。どこかあてを見つけなければ。
「君は一体どこにいるんだ」
僕は、君のことをまだ半分も知らない。
でも、もし許されるならば君の残りのすべてを知りたいと思う。
そのためには何としてでも、今日君を見つけなければならない。
西條さん。
僕は、恋愛で百点はとれないよ。
でもさ、あと一点でもいい。君との恋の結末を、明るいものにしたい。百点に近づけたいって思うのは、間違いだろうか。
「はは……」
青春映画のヒーロー気取りか、僕は。
こんなに役に立たないヒーローなんて、誰も望んじゃいない。
ヒーローなら、どんなにしんどい場面でも勇気を奮い立たせるはずだ。
必死に力を振り絞り、重たい腰を上げ立ち上がる。とにかく、行こう。そう思って一歩踏み出したとき。
ポケットの中のスマホがブルブルと震えだした。
「誰やろ」
凍える指を必死に動かしてスマホを確認すると、発信元は三輪さんだった。
もしかして西條さんから三輪さんに連絡がいったのかもしれないと期待を込めて、僕は通話ボタンを押した。
『あ、よかった、つながった』
「三輪さん。もしかして西條さんから連絡が来たん!?」
『いや、残念ながら連絡は……』
「そうか」
期待しただけ僕はガックリと肩を落とした。彼女の無事がまだ分からないという状況に、これほど心がざわつくなんて。
『連絡は来てないけど、あたし思い出したことがあって』
「何?」
『カナが昨日デートしてたユカイのこと!』
「なんやて!」
謎に包まれていたユカイのことが分かれば、少しは西條さんの居場所を見つける手掛かりになるかもしれない。逸る気持ちを抑えて、三輪さんの次の言葉を待った。
『ユカイの写真を見た時、既視感があるって言ったじゃない。そしたら思い出したわ。あたし、ユカイの顔を——いや、正確に言うと彼の首元にあるあざを、交番の前で見たかもしれない』
「あざ……? 交番……?」
どういうことだろう。交番の前ですれ違ったということだろうか?
『出町柳駅の近くに交番があるでしょう?』
「あ、ああ。せやな」
この辺の交番といえばさっき鴨川に来る際に通り過ぎた。確か、下鴨警察署——ここからすぐにたどり着ける。
『その交番の前にある掲示板で見たのよ! ユカイにそっくりなあざが首元にある指名手配犯の似顔絵!』
「は、指名手配……?」
予想外のワードが三輪さんの口から飛び出してきて面食らう。指名手配犯。そんなの、僕の日常にはまったく関係のない輩だ。しかしそれは三輪さんにとっても、西條さんにとっても同じはずだ。なぜ、西條さんが指名手配犯と一緒にいるんや——。
『安藤くん。数ヶ月前からYouTuberを狙った連続誘拐事件が発生してるの、知ってる?』
「YouTuber連続誘拐事件……確か、結構前にニュースで見たような……」
あれは確か、真奈と出会って一週間後、二回目のデートに漕ぎ着けた日の朝だ。意気揚々とデートの支度をしながらなんとなくテレビをつけると、物騒なニュースが流れてきたのを思い出す。嫌な気分になったのですぐにテレビを消してしまったので詳細はあまり知らない。普段からニュースを見る方でもない。だから、注意してその内容を聞いたかと言えば答えはNOだ。
『その誘拐事件の犯人として候補に上がってる似顔絵が、ユカイの首元にあるあざと同じものを描いてるのを、思い出したの。アプリのユカイの顔は、その似顔絵とはちょっと違うの。もしかしたら整形でもしてるのかもしれない。犯人が堂々とアプリに顔を晒すなんておかしいからね。でも首元の薄いあざまでは、隠そうとしていなかったのかもしれない。あたし自身、ほんとうにうっすらと記憶に残ってただけだから、普通はスルーされてしまうくらいのあざだったし』
「そんなことって……」
あるわけがない。と否定したいのに、クリスマスイブの前日に西條さんが話してくれたことがフラッシュバックする。確か彼女は元YouTuberなのだと言っていた。だとすれば、犯人と思われるユカイが彼女を狙っていてもおかしくない——。
頭を鈍器で殴られたような衝撃を覚える。
『お願い安藤くん、信じて! あたしも今から御手洗くんと一緒にカナを探しに行くから……カナのこと、助けて』
切実な声で訴える三輪さんの必死な表情が頭に浮かび、僕は一気に目が覚めた。
「分かった、信じるわ。もしそうじゃなかったら良かったって安心するだけやもんな。でも本当にユカイが犯罪者やったとき、後悔しても遅いから。僕は三輪さんの言うことを信じて西條さんを見つけ出すわ」
『ありがとう……』
今までの人生で、後悔したことならたくさんある。
勉強ばかりしていた高校時代、もっと周りのやつらと同じようにセイシュンにも目を向けていれば良かったとか。
真奈と付き合っている頃、表面上の彼女ではなく、奥底に眠っている彼女の気持ちに気づいてあげられたら良かったとか。
数え出したら後悔だらけの人生だ。一流大学に受かったからといって、僕には誇れるところが何もない。立派な人間でも、異性に好かれるような人間でもない。
だからせめて、今大切だと思う人のことだけは守りたいんや。
痛む足首を庇いながら、僕は鴨川デルタから橋の方へとなんとか歩き、先ほど走ってきた今出川通へと続く信号を渡る。雪は、先ほどよりも強く激しく視界を白く染めた。
「これが掲示板やな」
三輪さんから教えてもらった下鴨警察署の前にある掲示板を凝視する。張り紙が剥がれないように、掲示板はアクリルのケースで覆われていた。表面にへばりつく雪をコートの袖で拭うと、強盗やら殺人犯やらかなり凶悪な事件の容疑者と思しき人物の似顔絵が現れた。その中にはたしてユカイの似顔絵が、あった。
僕はユカイの顔写真を見たことはないが、その人物の似顔絵の下に「YouTuber連続誘拐事件容疑者」と書かれているのを見てすぐにピンときた。ハリのある長めの髪の毛、切れ長の一重まぶた。低い鼻。失礼だが、マッチングアプリで女性からモテそうな様子はない。さらによく見ると、三輪さんの言う通り、首元に薄いあざの描写があった。
彼の説明書に、四度の誘拐事件を起こしていること、他にもロマンス詐欺や美人局をやっていた容疑があることが綴られている。
「美人局って、ナナコがやってたっていう……」
もしかしてこいつはナナコと手を組んでいた男なのではないか。確か学が、ナナコの相手の男は相当手慣れた感じだったと言っていた。頭の中で、パズルのピースがどんどんはまっていく。
「西條さんはこの男と……」
嫌な想像が浮かび、すぐに頭をぶんぶんと横に振った。
おかしな想像はするな。そんなことしたら、気持ちが持たへん。今は彼女を見つけ出すことだけを考えるんや。
YouTuber連続誘拐事件。なぜ彼がそんなことをしたのか分からない。YouTuberに恨みでもあるのか、それとも単に有名人気取りのYouTuberをひっつかまえて懲らしめてやろうという愉快犯なのか。
とにかく今は動機を探っている場合ではない。
西條さんがいそうな場所は一体どこなんだ。
デートの場所について、彼女が教えてくれたのは「私たちがよく知っている場所」だということだけ。「私たち」というのが西條さんと僕のことを指すのであれば、僕たちの共通点はただ一つ、京大生であることだけだ。
京大生がよく知っている場所。
それって、もしかして。
彼女と初めて会った日のことを思い出す。時計台の前のクスノキの下で眠りこけていた西條さんを、僕は風邪を引くからという理由で起こした。彼女は突然知らない男に声をかけられてびっくりした様子で目をパチクリさせていた。僕は真奈と一緒だったから、単に無防備に目を閉じる彼女の身を案じただけだ。決して下心なんてなかった。けれどもし、あの時僕が真奈と付き合っておらずフリーの身であったなら、あれは間違いなく運命の出会いだったと思うだろう。この世に運命なんて存在しないのに。
運命じゃない。僕は僕の手で彼女のことを助けるんや。
彼女がいるかもしれない場所に向かって、僕は一目散に走った。途中、なにかプラスでヒントになるようなことはないかと、スマホでYouTuber時代の彼女のことを検索した。
カナカナちゃんねる
西條奏
動画
いくつかのワードを入れて検索をかける。
すると、カナカナちゃんねるについてまとめた記事がずらりと表示された。カナカナちゃんねるは京大生女子がアイドルを目指すというコンセプトで歌やトーク動画をアップしていたようだ。チャンネル自体は半年ほど前に閉鎖されていて今は見ることができない。しかし、いまだにファンも多く、活動再開を願う声も少なくない——。
「これって」
いくつもの記事を読み漁る中で、僕はそこに表示されたとある人物名と、その人物についてまとめた文章に目が釘付けになった。
「嘘やろ……」
そこには僕の知らない、目を疑う驚愕の事実が並んでいた。
「華苗、あのさ、相談があるんだけど……」
大学受験が終わり、春の暖かな陽気が日本全体を覆っていた。姉妹で憧れだった京都大学に合格し浮かれまくっていた私は、二人で京都で暮らすことを楽しみに、本屋で京都の観光雑誌を眺めていた。姉の奏が私の肩をポンポンと叩き、深刻な表情をしていた。
「なに?」
奏は姉だけれど双子なので、自分の分身みたいなものだ。一卵性で顔はそっくり。ずっと前に亡くなってしまった母親も私たちをよく間違えていた。一緒に暮らしている父でさえ、いまだに私たちを呼び間違えるから、もう間違いを訂正すらしないこともある。とにかく私たちはよく似ていた。
奏と私が違うところといえば、私の前髪の生え際のところに小さなほくろがあることだ。奏の額にはほくろがないので、前髪をあげればすぐに区別はつく。でもそのことを知っているのは家族と、二人の親友のつばきだけだった。
「私、大学では失敗したくなくて」
意を決したように、奏は両手をぎゅっと握りながら私にそう告げた。奏は楽観的な私とは正反対で、真面目で控えめな性格をしていた。馬鹿をやって怒られるのはいつも私だし、真面目で偉いねと褒められるのは決まって奏のほう。私は、「いいなーお姉ちゃんは褒められてばかりで!」と小さい頃よく拗ねていたが、今なら分かる。あっけらかんとして小さなことは気にしない私のことを、奏は羨んでいたんだろう。唇を噛みこちらをぎゅっと見つめるその瞳には大きな決意が滲んでいた。
「ねえ、大学生になったら二人で何か始めない?」
「始めるって、サークルとかボランティアとかバイトとか?」
「それもいいけれど……ううん、二人だけでできること」
奏はいつになく熱心に、私を説得しにかかってきた。要するに大学デビューを果たすのに新しいことに挑戦しようというのだ。といっても、彼女の中に何をしたいかという具体的なプランはないらしく、ぶつぶつと何か言いながら悩んでいるようだった。
「じゃあ、YouTubeは?」
二人でできることと聞いてぱっと思いついたことを、私はそのまま口にした。YouTubeという単語を聞いた奏の顔に驚きが浮かぶ。そりゃそうか。動画編集なんかやったことないし、見知らぬ誰かに自分たちのことを発信するなんてかなり勇気がいる。奏にとってはハードルが高いだろう。というか私だって、YouTubeなんて未知の世界すぎる。
やっぱり別の案を……と考え出したところで、私は強い視線を感じた。
奏が瞬きもせずに私をじっと見つめていたからだ。自分と同じ顔をした彼女に見つめられ、私はなんとも言えない気持ちで後ずさる。
「……それだ」
「え?」
「やろう、YouTube」
「……本気?」
「うん」
控えめな奏のことだから、YouTubeなんてできるのか不安だった。自分から提案しといてなんだが、彼女には難しいのではないか。
「ま、まあでも顔出しとかしなくてもできるしねっ。何する? 顔出ししないなら例えばゲーム実況とか、購入品紹介とか。いろいろあるから考えないとねー」
とっさに思いついた案を並べたが、奏は不服そうに私の意見の上からとんでもないことを被せてきた。
「するよ、顔出し」
「……は」
でも、とすぐさま否定しそうになって慌てて口をつぐんだ。奏が、切実な表情で今にも泣きそうになっていたからだ。
「私、大学生になったら華苗みたいに明るく周囲を和ませられる人間になりたいって思ってたの。だから苦手なことにも挑戦したい」
「奏……」
奏が昔から私に劣等感のようなものを抱いているのは知っていた。だけど、私だって頭が良くて大人っぽい奏のことを羨ましいと思っているのに。
まったく、隣の芝生は青いというわけね。
しかし控えめな性格だった奏がいま、ずっと折り畳んでいた羽を自ら伸ばそうとしている。上手く飛べるか分からないけれど、挑戦しようとしているんだ。だって、空から地上の景色を眺めてみたいから。
分かる。分かるよお姉ちゃん。
だって私たちは双子なんだもの。お姉ちゃんの考えてることくらい、全部分かってるよ。
「分かった。挑戦、しよう」
「ありがとう!」
花が咲いたようにぱっと笑顔になる奏。奏が笑ってくれて、ほっとしている自分がいた。
そうだ。私はずっとこうして奏に笑っていてほしい。
大人になっても二人で笑って生きていきたい。
たとえお互い誰かと結婚して子供ができても。
私たちは生まれた瞬間からつながっているんだ。
かくして私と奏は大学生になると同時にYouTuberとしての活動を始めた。「在学中にアイドルを目指す京大女子」というコンセプトだ。べつに、本気でアイドルを目指すわけではないのだが、こうやって大きなことを言った方が視聴者も増えると思ったのだ。
奏からコンセプトの話を聞いた時は驚いたけれど、生まれ変わろうといている彼女を止めることなんてできない。
これから京都でどんな日々が待ち受けているのだろう。
想像するだけでもう、ワクワクが止まらなかった——。
*
「……っ」
こめかみに鋭い痛みが走り、私はゆっくりとまぶたを持ち上げた。見覚えのない薄暗い景色を見ても、ここがどこだか分からない。
「何よ、これ!」
私は椅子に座らされ、両手を後ろに縛られていた。両足首にも紐が巻かれている。
やったのがユカイだということは分かる。しかし、どうして今日会ったばかりの人に拘束されているのか、私をどうするつもりなのかさっぱり見当もつかない。
想像のつかない恐怖に、身体が震えた。大丈夫、落ち着け……見たところ彼は近くにいない。今なら逃げられる……。
深く息を吐いて、両手をばたばたと動かしてみる。しかし、ロープのようなものでガチガチに縛られた両手はまったく外れる気配がない。
「どうしてこんなことに……」
自分の身に起きていることが現実だとは信じられずに、目を閉じた。これは夢だ。さっきまで私は夢を見ていたじゃないか——。
それにしても、リアルな夢だった。華苗がそばにいた頃の夢だ。でも、私は私でなく、華苗だった。
どうして華苗になっている夢を見たんだろうか。華苗から見た私は真面目で勇気がなくて、華苗とはまるっきり違っていた。ううん、自分自身、長年華苗のことを羨ましいと思っていたのだから夢で同じことを思っていてもおかしくないのだ。
あまりにリアルな夢すぎて、まるで自分が本当に華苗ではないかと錯覚してしまうほどだった。
夢のことを考えていると次第に視界がはっきりとしてきた。薄暗い中、自分が建物の中にいることが分かる。目の前にはホワイトボードがあり、ホワイトボードのある壁の横に扉があった。私はそこから入ったんだろう。初めは教室かと思ったものの、教室にしては狭いように感じる。何よりホワイトボードと直角に位置する壁にも扉があるところを見ると、扉の向こうにもっと大きな部屋があるのではないかと思い至った。
だとすればここはラウンジのようなところか。
ラウンジ、と言えば大学を思い浮かべる。大学って本当に至るところにラウンジがあって、テーブルと椅子が並べられているものだ。学生たちがそこで議論したり休憩したり、いろんな使い方をする。私もラウンジには何度もお世話になった。
「一体どこなのよ……」
もう、早く解放してほしい。
何の目的があるのか知らないけれど、なぜこんなところに私を閉じ込めるの? 私が何をしたっていうの?
いま、一体何時なんだろう。もしかして日付は変わっているんだろうか。思えばとてもお腹が空いている。ユカイと待ち合わせをしたのが夕方の5時だった。そこから何も食べていない。お腹が空いているということは間違いなく数時間は経過しているのだろう。
建物の中であるはずなのに、窓がない。外から光が差し込む隙間がないため、もし外が明るくても分からない。夜なのか朝なのか、私に与えられた情報は少なすぎた。
少ない情報の中でどうやって脱出すべきか、頭をフル回転させる。その間にも両手をグイグイと動かして紐を緩めようとするが、ダメだ。
空腹と恐怖のせいか体力はすぐに奪われて動けなくなる。
もうやだ。お願い助けて。誰か、助けてよ——。
「奏ちゃん、お目覚めかな?」
椅子の上で項垂れているとホワイトボードの横の扉がすっと開き、聞き覚えのある声がした。
「……ユカイさん」
「おお、意識もはっきりしているみたいだね。自分の置かれてる状況が分かったのかな?」
ユカイはその名の通り、さも愉快そうに嫌な笑顔を浮かべた。この人は誰? デート中の、爽やかで優しそうな彼とはまったく別人だ。まるでピエロのように、不気味な笑みだった。
パチンと音がしたかと思うと、ラウンジの明かりがついた。白昼色の光が眩しくて思わず目を瞑る。恐る恐るまぶたを持ち上げると、周りには雑多にテーブルや椅子が置かれていて、やはりここがラウンジであると理解した。しかしどうしてか既視感がある。ここは、私がかつて来たことのある場所……?
「ここから、出してくれませんか?」
意味がないと知りつつも、そう言わずにはいられなかった。お腹は空いたし体力だって減っている。暖房がついていない部屋はキンと冷える。底冷えのする京都の冬は室内でも唇が紫色に変色してしまうほど寒かった。
「ふふ、そう易々と解放するわけないだろう? 頭のいい君なら分かるはずだけど」
「どうしてそんなこと」
私はマッチングアプリのプロフィールに「大学四回生」と確かに書いているが、どこにも「京都大学の」なんて書いていない。「頭がいい」というのは単なる推測だろうか。
「知っているよ。君は、京都大学文学部四回生の西條奏さんだろう?」
彼がさらりと私の個人情報を口にした。デート中に口を滑らせてしまったかと振り返ってみたものの、まだ彼とは小一時間程度しか一緒に過ごしていないし、自分が何者かなんて教えなかった。そういうのはある程度打ち解けてから話すものだ。それがマッチングアプリで出会った時の大原則だと私は思っている。
それなのに、どうして彼は私の正体を知っているの?
背中に嫌な汗が伝うのを感じた。
「どうして知っているのかって顔をしているね。僕は『カナカナちゃんねる』のファンなんだ、プロフィールにも書いた通り。君は『カナカナちゃんねる』の奏ちゃんだろ」
そうか……。彼は、あのチャンネルのファンなのだ。私が「カナカナちゃんねる」の人間だと気づかない方がおかしい。
「……あなたが私のことを知っていたというのは分かりました。でも、それとこれとは話が別です。どうしてこんなことするんですか?」
「冷静だね。さすがは京大生だ。褒めてあげよう!」
パチパチパチ、と高笑いをしながら馬鹿にしたように手を叩くユカイ。デート中の爽やかな彼はもうどこかへ消えてしまっている。その変わりようが不気味すぎて鳥肌が立った。
「茶化さないでください!」
「おお、怖いなあ〜。いいよ、教えてあげる」
そう言うと彼はポケットからスマホを取り出し、再び部屋の電気を消した。私の後ろでカチャカチャと何か機械を操作する音がしたかと思うと、ホワイトボードにパッと青白い光が灯り、映像が流れ出した。どうやらスマホに保存した動画を流しているようだ。
映像は、彼が教室で勉強をしているところから始まった。
見たところ学校ではなく、塾の教室のようだ。半袖の私服姿の若者たちがひしめき合って机に向かっている。これは、予備校だろうか? 予備校に行ったことがない私には分からないが、生徒たちの見た目からして浪人生たちが勉強しているのではないかと推測した。
「この人……」
席についてカリカリとペンを動かす生徒の中で、一番机に齧り付いて猛勉強をしている人物に目がいった。
「僕だよ」
「……」
浪人生のユカイの顔が、今とは全然違って見える。切れ長の目と一重まぶた。鼻も低く、目の前にいるユカイとは似ても似つかない。本当に同一人物かと疑うほどだった。
映像は切り替わり、生徒たちの服装が長袖に変わる。それからまた半袖になり、長袖になる。最初はその映像の意味が分からなかった。しかし、予備校の講師が一度目の映像と二度目の映像で同じ単元を説明しているところを見てピンと来る。1年、2年……と年月が巡っているのだ。
ユカイの周りにいた生徒たちは顔ぶれが変わっているが、ユカイだけはずっと予備校の教室にいた。まるで、彼のいる空間だけ時が止まってしまったみたいに。
「ユカイさんって、もしかして何年も浪人してたんですか……?」
「ご名答」
何がおかしいのか、ふふふふふと声にならない笑みを浮かべ、私を見つめるユカイ。私はとっさに目を逸らす。
「僕はね、6年間浪人生のままなんだ」
「6年……」
聞いたことがない年数だ。確かに私の周りにも一浪や二浪して大学に合格した人はたくさんいるし、ユカイが浪人していたこと自体に驚きはしない。
しかし、6年も浪人生活を送ったという人は見たことがなかったのでその生活を想像するとゾッとした。
「ユカイさんは、一体どこの大学を受験していたんです……?」
「よくぞ聞いてくれたね。それはほかでもない、君が今通っている大学だよ!」
「……」
京大に受かるために6年間も……?
いや、馬鹿にしているわけではない。それだけ長い時間をかけてでも受験し続けた彼を、むしろすごいと思う。私だったら2年が限界だろう。
「僕はね、両親に会ったことがないんだ。孤児だった。でも会わなくたって分かる。僕の両親はきっととんでもなく頭が悪いんだろうね」
「そんなこと……」
ない、と言い切りたい。頭の良さなんて、親の遺伝だけで決まるものではない。だけど、今それを私が言ったところで彼には何も響かない。むしろ逆効果だ。
「ははっ。君はいいよねえ! 君は、君たちは、京大生や東大生はみな! 恵まれた頭脳を持って生まれてきたんだ。僕はね、成功者が大っ嫌いなんだ。成功者、君みたいに顔がよくて頭もよくて、YouTubeでも成功しているような人たちがね! だからそんな君たちに、絶望を味わってもらう!」
ガン、と彼が私の座っている椅子を蹴る。その勢いにひぃっと思わず悲鳴が漏れた。
次の瞬間、予備校の映像が切り替わり、画面が真っ暗になる。いや、正確には月明かりだけが映像に写しだされていた。
『え、誰? え?』
『きゃあっ』
『何すんのよ! あんた誰?』
画像の中で、女の子の悲鳴が何度も聞こえてきた。まるで昨日突然ユカイに襲われた私のように。月明かりの下、女の子が振り返ったとたん、画像が暗転しガサガサとしたノイズがした。
『僕は君を、いや君たちを許さない——』
『きゃああああ』
機械音のような不気味な声にすさまじい悲鳴がして、私は思わず目を塞いだ。本当は耳も塞ぎたかったけれど、手が縛りつけられているので無理だった。後ろにいるユカイは物音も立てずにじっと息を潜めている。彼の動く気配がまったくないことに、さらに言いようもない恐怖を覚えた。
映像は何度も切り替わり、その度に違う女の子の声がした。
これは全部、ユカイがしてきたことなの?
どうして私にこんな映像を見せるの——いや、考えなくても分かる。彼は自分が女の子たちを襲う映像を見せることで、私をジリジリと追い詰めるつもりなのだ。お前もこうなるぞ、と彼が語っている。
信じられない。彼がこんなに多くの女の子たちを襲い、その様子を映像に残していること。そしてその映像を今流していること。
常人のすることじゃない……この人は、異常だ。
恐怖で涙がこぼれそうなのをぐっと堪える。私が泣き叫んだりしないことに不満を覚えたのか、彼はもう一度私の椅子を蹴って、次の動画を流し始めた。
今度は先ほどの映像とは違い、昼間の映像だということに驚いた。しかもこの風景、見覚えがある。
そこに映し出されているのは紛れもなく鴨川だった。
カメラは川沿いの道を歩くとある人物の後ろ姿を捉えてから止まった。
『君、もしかして奏ちゃん?』
『え、ええ』
『やっぱり! 君とずっとやりとりしていたユカイです』
『ああ、ユカイさん?』
一瞬、映像の中で何が起こっているのかわからなかった。
昨日(なのか今日なのか分からないが)の夕方に出町柳駅でユカイと待ち合わせをしていた自分の映像かと思ったが、場所が違う。明るさも夕方ではなく、昼間のようだ。それなのに画面には私が映っている。いや、でも私には身に覚えがない。ということは、映っているのは華苗? だけどユカイは「奏ちゃん」と呼び掛けた。華苗は私に内緒で「奏」という名でマッチングアプリを使っていたということ……?
「これ、どういうことなの……」
「……」
私の疑問に彼は答えない。そのまま映像を流し続けた。
『奏ちゃん、もし今日空いてたら遊びに行かない?』
『うーん、今日はちょっと……』
戸惑う華苗の顔がアップになる。
お洒落をしてきたのか、いつも前に垂らしている前髪を横に流し普段より大人っぽい。
その顔を見て衝撃的なことに気がついた。
華苗の前髪の生え際にあるはずのほくろが、ない。
私と華苗を唯一見分けることのできる目印とも言えるほくろ。普段は前髪に隠れているので、知っている人は家族と親友であるつばきだけ。
そのほくろがない……?
「どう、して」
意味が分からない。ほくろが突然消えるなんてことはあるまいし、私は自分の目を疑った。頭の中で考えを巡らすも、ぐわんぐわんと頭痛がしてそれ以上考えられなくなった。
「どうして、ないの」
呟いても答えが返って来ることはない。
その間に映像が切り替わり、今の私とまったく同じ状況の画が画面いっぱいに映し出される。
『なにすんのよ……っ』
『君は、カナカナちゃんねるの奏ちゃんだよね?』
『だったらなに? ここはどこなの? 早く出してよ』
『いいや、出さないよ。だって僕は、君のことが憎たらしいから』
『!?』
鈍い金属音と、「奏」の悲鳴が聞こえた。
やめて。
やめてやめてやめて。
それ以上流さないで……!
それ以上、私に真実を見せないでっ。
ガタガタという震えが止まらない。私は泣きながら顔を伏せた。嫌だ。見たくない。「奏」が襲われるところを、見たくない……。
必死に目を閉じて、「奏」の悲鳴が聞こえないように祈った。
お願い、もうこんなことしないで。私が何をしたっていうの? どうしてこんなの見せられなきゃならないの? どうして「奏」を襲ったの?
頭の中にうずまく疑問は、ついに私の口から発せられることなく恐怖と共に消えていった。
「さて」
決定的な瞬間は流れないまま映像が止まりユカイが口を開く。「奏」がどうなったのかもはや聞くまでもなかった。全身が汗でびしょ濡れになり、荒い呼吸が止まらない。
「自分の未来がどうなるか分かっただろう?」
「……っ」
あまりの恐怖にもう声すら出ない。バクバクと脈打つ心臓がうるさい。
「僕はね、びっくりしたんだよ。初めて君の顔を目にしたとき、あまりにもあの時の『奏ちゃん』とそっくりだったから」
ああ、だからユカイは待ち合わせで私の顔を見た時に目を丸くしていたのだ。私と華苗は瓜二つだから、驚くのも仕方ないだろう。
「僕は『カナカナちゃんねる』を知ってたからね。二人をYouTubeで見ていたから似てるのは知っていたけど、いざ目の前にしてみると本当におんなじなんだなあって」
彼の言葉に、私は一瞬時が止まったような感覚に襲われた。
彼は今、なんて言った?
確か、「二人をYouTubeで見ていたから」——って。
私は、自分が何か大事なことを忘れているのではないかと疑い始める。
YouTubeは大学デビューで私がやりたいと言い出したことで始めたのだ。
だけど、私、一人じゃなかった。
「私は、華苗と……」
いつかの書店で華苗とYouTubeをやろうと語ったことを思い出す。
あれは、私だったの?
私が、YouTubeをやりたいと言ったんだっけ……。
それとも、華苗が?
分からない。頭がまたぐらぐらと揺れて痛い。華苗とのことを思い出そうとするとモヤがかかったようになる、いつもの現象だ。
「ああ……うう」
分からない。分からないよ。怖い。誰か助けて。
助けて、安藤くん!
なぜか彼の名前が思い浮かび、気づいたら心の底でそう叫んでいた。
錯乱状態に陥った私を見届けて、ユカイは決定的な言葉を口にする。
「ようやく自分を取り戻してきたかい? 西條華苗さん」
ガツン、と頭を鈍器で殴られたような衝撃を覚える。
私、私は……西條、華苗……?
頭で分かっていることと心で感じていたことが食い違い、混乱して吐き気がこみ上げる。私は華苗。奏じゃない。私はいつから、自分のことを「奏」だと思うようになったんだろう……?
「奏……」
口にしてみれば、昔自分が同じように奏のことを呼んでいた感覚が戻って来た。そうだ、私は華苗。それなのに、自分が「奏」だと思い込んで生きてきた。「奏」が行方不明になってからずっと——。
思い返せば奏として生きてきたこの半年間の記憶が走馬灯のように蘇って来た。奏として目にした風景や友人たちと交わした言葉がデータ化されて私の脳内にインストールされていくような感覚に、身体が震えた。
「僕は知ってたよ。でも君が自分を奏だと思い込んでるようだったから、話を合わせていたんだ。さて、自分の正体を思い出したところで申し訳ないが、残念ながらもう時間だ」
ユカイが、ロープのようなものを持って私に近づいて来る。あれで私の首を締める気……?
彼の計画が分かり、再びガタガタと身体が震えだす。大声で叫んで助けを呼びたいけれど、身体が言うことを聞かない。
「さあ、もう終わりにしよう。イッツ、ショータイムだ」
ジリジリとにじり寄る彼の気配に、私は思わず目を瞑った。手も足も動かせないこの状況で、私はもう祈るしかなかった。
「命乞いもなしか。はは、いい度胸だ。さようなら、『カナカナちゃんねる』の華苗ちゃん」
*
「ねえ、YouTubeするのはいいけどさ、チャンネル名はどうするの?」
私は書店で京都の観光本を買ったあと、立ち寄った喫茶店で奏に聞いた。
「うーん、そうねえ」
YouTubeを始めると言ったものの、その場の勢いで決めてしまった私たちは、これからのYouTube活動について細かいことを何も決めていなかった。
ひとまず、「在学中にアイドルを目指す京大女子」というコンセプトはなんとなく決めたものの、肝心のチャンネル名や具体的な動画の内容についてはまだだった。
チャンネル名は視聴者から親しみを込めて呼んでもらえるような分かりやすいものでなければならない。奏に言われて始めたことなのに、なんだか私の方が真剣にあれこれ悩んでいる気がしておかしかった。
「じゃあ、『カナカナちゃんねる』は?」
「カナカナ?」
「そう。奏の『カナ』に華苗の『カナ』。ね、分かりやすくていいでしょう?」
奏が頬を染めながらその名を口にした。
何かどこかで聞いたような名前であるような気がしなくもないが、呼びやすさはピカイチな気がする。
「分かった。いいよ、『カナカナちゃんねる』で」
「ありがとう!」
正直、私からすれば呼びやすく分かりやすい名前であれば何でも良かった。
控えめで奥手だった奏が自分の意思で人前に出ようと決意し、新しいことを始める、というだけで嬉しいのだ。そんな奏が考えた名前なら私も愛着が持てるし、奏が楽しそうにしているのを見ると元気が出た。
「『カナカナちゃんねる』、うん、いい名前だね」
「目標チャンネル登録者数は……1万人くらい?」
「え、もっとでしょ。夢は大きく、10万人!」
「10万……そっか、そうだね。ひえええ、緊張する〜」
まだ始まってもないのに未来のチャンネル登録者数の多さに怯えている奏が可愛い。
「登録者数なんか多い方がいいに決まってんだから、頑張ろう!」
「うん、ありがとうね。華苗」
奏が笑ってくれると、つられて私も笑ってしまう。側から見れば、まるで合わせ鏡のような私たち。だけど、性格はまるで違う。私は賢い奏に憧れ、奏は楽観的な私を羨んでいる。
どれだけ似ていても、私たちはまったく別の人間だ。
お互いに嫉妬したって、お互いの人生を代わることはできない。
YouTubeを始めて3年が経ち、『カナカナちゃんねる』は時のYouTuberとして若い女性を中心に人気に火がついた。チャンネル登録者数は10万人どころか50万人にのぼった。「知性と美貌を兼ね備えた大学生」が中高生たちの憧れの的になっていったらしい。自分で言うのもなんだが、私も奏も有名になるにつれ美容やファッションにも力を入れるようになり、さらなる美しさを手に入れた。もう奏はかつて引っ込み思案だった女の子ではない。たくさんの観客の前で自分を表現できるキラキラ女子になっていた。私は、一番近くで美しく変わっていく奏を見ているのが史上最強の喜びになった。
ねえ、奏。
もしあなたが今生きていたら、自分の人生を胸を張って生きてと伝えていたと思う。私が望んでも手に入れることのできなかった、奏の内面の美しさや優しさに、惹かれている人はたくさんいたんだよって。
だから落ち込まないで、前を見て進んでほしい。
いつまでも、大切な人と、私と一緒に。