偏差値72の僕らが、百点の恋に出会うまで


「さて、恭太(きょうた)くん。これで何勝何敗?」

 昨日、京阪の三条駅近くの路地裏で我を失いかけてから左京区の北白川にある下宿先までどうやって帰ってきたのか記憶がない。タクシーに乗った気もするし、ひたすら歩いた気もしている。今朝目が覚めると腕や足に擦り傷があったから、やっぱりふらふら歩いていろんなところにぶつけた説が濃厚か。

「うるさい。そんなの覚えてへん」

「それなら教えてあげるよ。今回ので0勝9敗だね」

「知ってるならいちいち聞くなよ」

「まあまあそうカッカせずに」

 親友の御手洗学(みたらいまなぶ)はまるで実験の結果でも記録しているかのように、小さなメモ帳を開いてウンウンと納得している。そのメモには何が書いてあるんだ——と何度か聞いたことがあるが、「世界のあるゆる事象について」としか答えてくれない。なんだよそれ、相変わらず言ってることの半分も分からんやつだな、とうんざりする。

「それより恭太、昨日はどんな感じだったの?」

 学が僕の下宿先の部屋に置いてある多肉植物を愛でながら聞いてきた。確か去年僕の誕生日に彼がくれたプレゼント。当時片想いをしていた女の子にフラれ傷心していた僕を慰めるつもりだったらしい。しかし多肉植物は好きな女の子の代わりにはならんのだよ。

「聞かなくても大体分からへん?」

「分からないよ。他人に何かを伝えるには、言葉にしないと案外伝わらないものなんだ」

「くっそ面倒なやつめ……」

 京都大学に通う四回生の彼は、いつもネチネチと正論をぶつけてくる。彼は哲学オタクなのだが、なぜか文学部ではなく農学部に所属している。あ、そういえば入試の時に国語の配点が高いから文系は無理だって言ってたっけ。無駄に言葉をぶつけるのが好きなくせに、国語は苦手なんて変わったやつだ。

 彼はおかしい。しかしこの京都大学において、「おかしい」なんて人は山ほどいるからいい加減感覚が麻痺している。だが、やっぱりおかしい。大体、毎日甚平を来て大学に来るやつがいるか? しかも休みの日まで。茶髪の髪の毛にパーマをかけているところは横浜出身のお洒落さを匂わせているが、なぜ甚平なのか。シティボーイなのか和を嗜みたいのか分からない。

 そういう僕も同大学の四回生で、多分周りからは頭のおかしな人だと思われているのだろう。「単位を取得するのが楽だ」と有名な経済学部に入学してからは相当に浮かれていた。偏差値は70超え、名前も聞こえも良い京都大学経済学部に入ってから、身体中にみなぎる自信をどう処理したらいいのか分からなくなったものだ。

「で、どうだったんだい?」

「うっ……見ての通り完敗」

「そんなことは分かってる。何をどうやらかしたらそうなったのかってことさ」

「お前さ、デリカシーって言葉知らへんの?」

「もちろん知ってるさ。しかし次回のチャンスをものにするには反省が大事だって昔から言うだろう」

「……これだから理屈人間は」

 はあ、とため息をつきながら僕は昨日の彼女とのやりとりを洗いざらい話した。
なんだかんだでこうして話をしてしまうのは、どうしようもない恋愛弱者の僕を慰めてくれるのが御手洗学ただ一人だからだ。
 
 僕の話を聞いた彼は一言、

「これだから男子校出身は」

 と美しい毒を吐いた。

「くそっ結局それかよ」

「紛れもない事実として、原因を確認したまでだよ」

 いや、今のは絶対に悪意があるような言い方だったぞ。
僕は彼の猛毒を真正面から浴びないように、自分の中高生時代に思いを馳せていた。

 神戸でも名高い中高一貫校である進学校に通っていた。難しい中学受験を乗り越え、合格した時には鼻高々で、周りの友達の親たちに褒められる度に自己肯定感は高まる一方。まだ12歳やそこらの少年にとって、初めて自分で勝ち取った栄光だ。そうなるのも仕方あるまい。
 中学に入学してからも、超特急で進む授業に振り落とされまいと必死に勉強をしてなんとか学年でも上位の成績をキープした。あまりの厳しさに勉学の道を諦めて部活に邁進する生徒も多い中、僕は勉強こそ自分の将来を支えてくれると信じて疑わなかった。いくらスポーツができたところで、その道に進めるのは限られた人間だけだ。その点勉強はいい。一流大学に進み、一流企業に就職できれば僕の人生はバラ色だ。それまで絶対に諦めないぞ!
と、気持ち悪いぐらいの優等生ぶりを発揮していた。
 その甲斐あってか、僕の成績は一度も落ちることなく高校生となり、高校に上がってからも周囲からは一目置かれる存在となったのだ。
 何もかもが心地よい。先生からの褒め言葉も、周りの人間からの羨望のまなざしも。何にも代えがたい宝石の光だった。
 こうして中高時代を天馬のように駆け抜けていた僕だったが、ある時ふと自分と周囲の人間の違いに気づかされるようになった。

「なあ、知ってるか? 二組の有吉、彼女できたんやって」

「有吉が彼女?」

「そう。分からへんよなぁ、あんなやつが先に青春を掴むなんて」

「セイシュン……」

 青春。
 頭の中で漢字変換するのにちょっとだけ時間がかかった。
 僕に有吉の話を告げたその男の子は、僕のクラスメイトだった。正直そこまで頭は良くないのだが、交友関係だけは広くあらゆる人間の近況を把握していた。
 彼の話によると、有吉だけじゃなくてクラスの半分ほどの連中が彼女持ちだという。男子校なのに一体どこで……と聞いてみると、文化祭や他校と部活動の練習をする際に知り合って仲良くなっているそうだ。

「へ、へえ……」

 中学に入ってから勉強のことしか考えていなかった僕は、これまで自分より下に見ていた人間に、人生というレースにおいて置いてきぼりをくらっていることを突き付けられた気分だった。
それまで「彼女が欲しい」なんて感覚に陥ったこともない。好きな人ができたことすらなかった。でも、周りのやつらが「彼女」と楽しそうにしているのを見て初めて、僕は恋人のいない自分が惨めに思えてきたのだ。
だが、部活動に所属していなかった僕は他校の女子と交流する機会に恵まれることもなく、文化祭で女の子に話しかける勇気もなく。「彼女」という存在に憧れを抱きつつも、これまでの勉強一筋の高校生活を変えることができなかった。
そのうち「有名大学に入ればなんとかなる」という幻想に取り憑かれ、むしろ勉強だけに心血を注ぐことになった。

 だって、女の子って賢い人が好きって聞くし。
 ほら、昔から男は「三高」って言うだろう?
 高学歴・高身長・高収入!
 まあ、「高身長」の部分は当てはまらなくてもうどうしようもないが、それ以外はこれから掴み取れるはずだ、と本気で信じていた。
 というかいつの時代の価値観だよと今こそ当時の自分を馬鹿馬鹿しく思うが、この時は真剣だった。それ以外に、自分の境遇を慰める術をもっていなかったから。
そういうわけで、僕は中高時代一度も「青春」らしいことを体感する間もなく、無事に第一志望だった京都大学経済学部に合格したのだった。


「で、やっぱり男子校だったのが原因だろう」

「ん……いや、それ以上に僕の心の問題やったって」

「ああ、なるほど。その方が納得できるね。他の男子校出身者に失礼だから」

「くう」

 そう。べつに6年間男子校に通っていたことが恋愛弱者である最たる原因ではない。確かに機会が少ないという点ではそうだろうが、それでも恋人がいるやつはたくさんいた。
 一番の原因は、僕が諦めたこと——否、大学進学後の人生にすべてを賭けたことだ。

「原因が分かったところで勝敗は変わらんのとちゃう?」

「そうさ。でも言っただろう。反省をして次に活かすのが大事だって。君が女の子に見向きもされない原因さえ分かれば改善の余地がある」

「その言い方、あまりにもひどすぎんねん」

「まあそう怒りなさんな。カッカしすぎると女の子は逃げていく」

「……誰のせいやねん」

 僕は、涼しい顔をしてそっぽを向く学を絞め殺したろうかと一瞬血迷う。

「とにかく、次の作戦だな」

「はあ、またですか」

「善は急げだよ、恭太くん。考えてもみな、君はいま大学四回生。しかも就職活動が無事に終わり、残る単位もあと二単位だけ。経済学部は卒業論文だってないんだろう? それに内定をもらっているのは大手商社。ほら、条件だけ見ればかなりのハイスペック男、優良物件! 顔と性格は置いておくとして」

 途中まで誉め殺しにきたのかと思えば、最後にしっかりと毒をまく学。

 正直、大学生活で一度も恋人ができないなんて思ってもみなかった。まだ大学生活は終わっていないが、普通やる気さえあれば一回生や二回生で一度くらい彼女ができるものではないのか!? と学に詰め寄ったことがあるが、「甘い」の一言で片付けられた。「君が思うほど女子(おなご)の心は容易くないのだよ」と厳しめのご指導・ご鞭撻を頂戴したのだ。

 かく言う学は現在恋人がいない。というか、彼は自分の恋愛に興味がないらしく、そもそも恋人を欲しいとも思っていないようだ。試しに一度、なぜ恋人がほしくないのか聞いたら、「わいは女子に罠を仕掛けられた」「わいが愛でるのは先人たちのありがたい言葉だけさ」とまた訳のわからないことをのたまう。ちなみに学ぶは自分のことを「わい」と呼ぶ。正直かなりイタい。某SNSに毒されている。

「それで、今度はどんな作戦でしょうか」

「ふふ、聞いて驚くが良い。次はなんと、わいの親友! のさらに親友の親友……であるところの女の子だ。女子大で服飾を学んでいるらしい。その子と引き合わせてあげるよ」

「ほう。ちなみに会ったことは?」

「ない」

「やろうな」

 胸を張ってフフン、と鼻を鳴らす彼の、その自信満々な笑みを見ていると、なぜかいつも今度こそうまくいくという気がしてしまうから不思議だ。
 実際、彼から紹介された女の子はこれで三人目になるが、これまでの二人もそこそこ可愛らしくていい子ではあった。僕がヘマをして取り逃がしてしまっただけで。

「親友の親友の親友……の話によると、その子は最近付き合っていた彼氏にフラれたばかりらしい。新しい恋をして上書きしたいと思っているそうだよ。きっと傷ついているだろうから、その傷を君が癒しにいく。颯爽と現れた超ハイスペックな君に彼女の心は揺らぐこと間違いなし!」

「……それ、気になる女の子を落とす時によく使う手法やと思うけど、そんな簡単にいくもん?」

「大丈夫だって。なんてったって、その子の元彼の顔が、君に似ているそうなんだ。わいも写真を見せてもらって確認したよ」

「おお……!」

 元彼の顔が僕に似ているなんて、なんという偶然にして幸運なんだろう。
 この時の僕は、顔がタイプ=すぐに恋に落ちるという単純な方程式が頭に浮かんでいた。あとで思い返してみると、まるで恋愛下手なのを思い知ってちょっと悲しくなった。

「その話、のった」

「承知つかまつる」

 まったく、自分の単純思考に呆れざるを得ない。一体僕はどうやって複雑な統計学や経済学の授業を潜り抜けてきたんだろうか。しかしそれぐらい僕は恋に飢えていたし、なんとしてでも大学生のうちに恋人をつくってバラ色の大学生活を満喫したかった。
 学の奴隷になっていることは否めないが、彼も僕のためにわざわざ恋人をつくる機会を与えてくれているのだから、悪い気はしない。もし今度の作戦がうまくいったら美味しい串カツでも奢ってやろう。
まあ、彼は面白がってるだけかもしれないけどね。

◆◇◆

 「彼女」と初めて会うことになったのは、学から彼女の話を聞いて5日後の10月7日金曜日のことだった。
 少し肌寒いがまだまだ初夏ぐらいの気温だったので、半袖の黒いシャツを着ていくことに。自宅の鏡の前で自分の顔を見ると、かれこれ二ヶ月ほど切っていなかった髪の毛がボサッと伸びていた。いけない、美容室に行くのを忘れていた……。なんとかワックスで髪の毛を撫でつけ、自分史上最高にイケてる(と思い込んでいる)ブランドものの黒縁メガネを装着する。決してお洒落とは言えないかもしれないが、第一印象で「生理的にムリ!」となる可能性はできるだけ避けたつもりだ。

「いいか、恭太。『服装なんて適当でいい』と豪語できるのはイケメンのみだ。選ばれし戦士でない限り、蔑ろにしたらダメだよ。大事なのはお洒落さよりも清潔感。隣で並んで歩いても不快に思わない男こそ、女の子ウケがいい」

 以前学から受けたアドバイスを思い出す。彼は僕のことを普段は呼び捨てにし、時々「恭太くん」と「君付け」で呼ぶ。どういう使い分けかは分からない。彼の気分次第だろう。
 しかし服装が大事だという彼の意見にはかなり肯ける。何せ、京大には「イカ京」と揶揄される男たちが存在するのだ。チェックのシャツをズボンの内側にしっかりと入れ、おじさん臭い革のベルトなんかをしているやつのことだ。「いかにも京大生」というその出立は、方々の女子から「ダサい」と有名だった。
「さすがにそんな模範解答みたいな京大生はいないだろう……」と呆れながら大学構内を歩いているとびっくり仰天。本当に、いるのだ。チェックのシャツ以外にも、毎日同じ半袖のTシャツに半パンを履いている男や、破れかけた洋服を着続ける男など、程度の差こそあれ「これは」と数秒間目を奪われる服装をしている人間がいる。
それが彼らにとってのファッションなら他人が口を挟むことはない。人の趣味はそれぞれだからな。

 しかし、女の子と会うとなれば話は別だ。
 多かれ少なかれ、彼女たちは僕らの服装をジャッジする。無意識レベルで「あり」か「なし」かを分別する。服装を重視するタイプの女子かどうかにもよるが、ここで「なし」になればその後どう挽回したところで希望はないに等しいだろう。

 とにもかくにも、これまでの勝負で負け続けてきた僕にも服装では絶対に失敗しない自信があった。最初は僕だって「イカ京」と呼ばれても仕方がないほどのダサい格好をしていたのだ。学の言う反省を繰り返したことで、服装には迷わないようになった。まあ、そういう彼は甚平を私服としているからこれまたわけが分からないが。

「ふう」

 服装、髪型共になんとか直視してもらえるレベルにはもっていくことができた。
 時間を見ると、待ち合わせの14時まで1時間ある。待ち合わせ場所は京都随一の繁華街、四条河原町にあるとあるパフェ屋さんだ。女の子は甘いものに目がない、という帰納法的見解から、学が提案してくれたのだ。先方もパフェ屋さんでOKとのこと。やっぱりこれまでの闘いは無駄じゃなかった!

「そろそろ行くか」

 13時20分を過ぎた頃、僕は自宅から最寄り駅である京阪出町柳駅まで自転車を漕いだ。そのまま自転車で四条まで行けないこともないが、待ち合わせの際に汗だくになっているのだけは避けたかった。出町柳駅に自転車を置き、そこからは電車に揺られた。
祇園四条駅まではものの数分で到着した。鴨川を渡り、目的地へと急ぐ。待ち合わせ場所である店の前に着いたとき、時刻は1時52分だった。見たところによると学の親友(以下省略)らしき女の子はまだ来ていない。よし、完璧な時間だ。

 10分ほど待つと、白いブラウスに黒のショートパンツを履いた女の子がきょろきょろと辺りを見回しながら歩いてくるのが見えた。ショートパンツとロングブーツの間から覗く肌が麗しい……じゃなくて、彼女が待ち合わせしている子なのかどうか、確かめなければ!

「あのぅ……」

 初めて会う人に話しかけるこの瞬間が一番緊張するっ。
 なんとなく学から彼女に関する外見の特徴は聞いていたが、万が一違った場合はただのナンパ野郎になってしまうじゃないか。

「もしかして、安藤恭太さん?」

「は、はいい!」

 幸いにも彼女は学から紹介してもらった女の子で間違いなかった。

「私、江坂真奈(えさかまな)です。よろしくお願いします」

「よ、よろしく」

 江坂さんはぺこりと頭を下げて小さく微笑んだ。か、かわいい。特別美人というタイプではないが、自分に向けてくれる笑顔を見るとほっこり癒される気分だ。

「お店、入りません?」

「そうやね」

 パフェ屋さんに入ろうと振り返った彼女の髪の毛からフワーっと香る金木犀の香りが鼻腔をくすぐる。なんて、なんて言い匂いなんだ。僕は未だかつてこれほど可憐な香りのする女の子に出会ったことがない。

「ここ、初めてなんですよね」

「僕も初めてだよ」

「ふふ、でも一回来てみたかったから嬉しい」

「それは良かった」

 会ったばかりだというのにリラックスして自然な会話ができる彼女と、ガチガチに緊張している僕。この時点で自分の恋愛偏差値の低さを露呈してしまっている。だめだ、これではよくない! 今までと同じルートを辿ってしまう!

 脳内に現れた学が腕組みをしていた手をほどき、僕の額をツンと抑える。「いいかい、恭太くん。会話の主導権は女の子じゃなくて自分で握るんだ。それこそが最初のデートに必要な要素だ。ただし、あまり話すぎるのもよくない。相手の話を聞くときはしっかり目を見て聞く。分かったかい?」

 え、えっと、会話の主導権は自分で握ること。でも喋り過ぎず、話を聞くときはしっかりと目を見て聞くこと。……て、要求が多過ぎやしませんか?
 グッドラック! と吠えて、脳内学はどこぞの魔神かのようにぽわわんと消えていった。おい、ちょっと待ってくれ。言いたいことだけ言って僕を一人ぼっちにしないでくれええええ!

「あの、どうかしました……?」

「え、あ……!」

 しまった。今の悲鳴、しっかりと口から漏れてしまっていたじゃないか!
 くそう、初っ端からなんたる失態を……。
 後悔してももう遅い。きっと彼女の目に僕は相当やばいやつに映っているだろう。
 がっくりと肩を落として落ち込んでいると、あろうことか正面からはふふっと優しい笑い声が響いた。

「安藤くんって面白いんですね。私、京大生の知り合いってほとんどいないから新鮮で。なんだかパントマイムを見てる感じで、得した気分です」

「ま、まじで……?」

「はい」

 くううう! なんていい子なんだ。僕は今日、とんでもなくいい子と出会ってしまったんじゃないだろうか? ああ、神様仏様学様。これまで地道に善行を積み重ねてきた効果がようやく現れ始めたんだな。

「そう言ってもらえるなんて思ってもみなかったよ。そういえば江坂さんは、何回生なんやっけ?」

「四回生です」

「おお、それなら同い年やし、タメ口でええよ」

「うん、そうする」

 僕は水を得た魚のように自然と彼女との会話を進めることができた。
 彼女は北海道出身で、こっちの大学にどうしても通いたいということで京都にやって来たそうだ。今ではすっかり京都の生活にハマっていて、お香を買ったり鴨川を散歩したりするのが好きらしい。僕は激しく同感しながら彼女の話の一つ一つに大袈裟なくらいの相槌を打った。

「わ、美味しそう!」

「すごい。ボリュームもありそうやね」

 運ばれて来たパフェを前にして、彼女の目は一層輝きを見せた。なんて純粋で可愛らしいんだろう、と心の中で悶絶しつつ表面上はまんざらでもないと真顔をキープ。

「いただきます」

 きちんと手を合わせてからスプーンを持つところに、育ちの良さが窺える。僕も彼女に倣って上品にパフェを食べようと努めた。
 僕が頼んだ「濃厚いちごクリームデラックスパフェ」は桃色に染まったクリームがふんだんに盛り付けられており、いかにも女子が好きそうな見た目をしている。味は、クリームの方が甘くて、いちごの酸味がほどよく溶け合い、口当たりが良かった。
 
「安藤くん、口の端にクリームついてる」

「え、え、ああ、ごめん」

「謝らなくていいのに」

 彼女が僕の口をハンカチで拭ってくれるのを二秒ほど待ったがその様子はないらしい。渋々自分で口をふいた。
 それにしても。
 第一印象だが彼女は普通に良い子で、可愛らしくて、非の打ち所なんてないような気がする。それなのになぜ、彼女の元彼は彼女を振ったんだろうか。

「あの……込みいったこと聞いても良い?」

「ん、何かな」

 スプーンですくったアイスクリームを口に含ませながら、彼女は首を傾げた。

「学から聞いてんけど、元彼とのこと。最近別れたって本当?」

 こんな質問は嫌がられるかと思ったが、意外にも彼女は「その話ね」とあっさり答えてくれた。

「本当だよ。1ヶ月前に終わっちゃったの」

「そっか。それは辛いよね」

「うん、別れる時もまだ好きだったから」

「ちなみに、理由とかは言われたの?」

「理由……うん、なんか“冷めちゃった”んだって」

 先ほどとは打って変わってしょんぼりとした声色の彼女が、母親とはぐれてしまった子猫のようにか弱く見える。守ってあげなくちゃ、という男の本能に火がつきかけた。

「それはひどいね。僕がそいつだったら絶対にそんなこと言わへんのに」

「安藤くんは優しいんだね。まあよくある話だよ。そんなに深刻なことでもない」

 彼女はそう言うが、潤んだ瞳が元彼への心残りを語っていた。
 こういう時、学ならどうするんだろう。
 というか、恋愛に興味のない彼の言動を想像したところで意味があるとは思えんな。よし、僕は僕なりに彼女の心を溶かすんだ!

「江坂さんさえ良ければだけど、またこんなふうにご飯行かへん? ほら、一人より二人の方が気が紛れることもあるし」

 おお、僕にしてはかなり気の利いた台詞が出た、と我ながら驚く。
 江坂さんは目を丸くして、何度か瞬きをした。ふっと口元を綻ばせると、思いの外艶やかな唇が印象的に映った。

「安藤くんが良ければぜひ」

 その言葉を、僕は何年も待ち続けていた気がする。
 思えばここに来るまでに幾度となく失敗を重ねてきた。その度に学からくどくどと喝を入れられ、よく知らない哲学者の一説を説かれ、最後は「愛は正義だ。頑張りたまえ」と偉そうに締め括られてきた。その歴史がいま、もしかすると塗り替えられようとしているのかもしれない。
 なんて、妄想もいいところだ。
 うまくいっていると思わせて幸福感が最高潮に高まったところで、音信不通になった女の子だって何人もいる。ここで気を緩めたら負けだ。

「ありがとう。また気が向いたら話聞かせて。いつでも空いてるから。あ、ゼミがある時以外は」

「うん」

 いつでも空いてる、なんて言うと安い男っぽく聞こえるため、空いていない時もある、ということを演出するのを僕は忘れなかった。

 その日は雑談をして初対面の彼女と打ち解けることができ、別れ際も「またね」とお互いに笑顔で手を振った。これは、もしかしたら本当にうまくいくのでは?
 いやいや、現実はそんなに甘くないぞ。
 気を抜くな、安藤恭太!
 自分で自分の頬をぱんと叩くと、道ゆく人々が一歩後退りした。

 うわあ……この人、もしかしてヤバイ人? 

 さっきから口元にミートソースつけまくりだし、スプーンとフォークがぶつかってカチャカチャうるさいし、最近見たホラー映画の話なんか一時間もしてるっ。私、ホラー苦手なんだけど……いや、それより良い加減こっちの相槌が「うん」と「ええ」しかないのに気づいてよ〜。

「あのさ、ちょっと思ったんだけど」

「な、なんでしょう⁉︎」

西條(さいじょう)さんって、もしかして超真面目な子?」

「……」

 耳にピアス、首にシルバーのネックレスをつけた茶髪のその男の子は、私の顔にぐっと自分の顔を近づけてニッと片方の唇を上げて笑った。
 ち、近い。初対面の人との距離感バグってる? こっちは半径50センチ以内近づかれるのが嫌なんだけど……。パーソナルスペースって言葉知らないのかなぁ。

「さっきからきちんとお箸置いてよく噛んでるし、自分のハンカチでソースが飛ばないように首元隠してるし、つまらない話にも相槌打ってくれてるし」

 つまらない話っていう自覚があったんかい。
 ……いや、問題はそこではない。
 いちいち私のこと細かく観察してる割にはこちらのペースに合わせようとはしてくれないのよね……。そこまで私に魅力がないってこと?

「すみません。日頃の癖で」

「いやいや、謝らなくて良いでしょ。てかそういうところが真面目だよね」

「はあ」

 今日初めて会ったばかりの人に「そういうところが」なんて言われるのは心外だ。そもそも、他人の性格を勝手に決めつけてくる時点でどうなのよ。
 しかし目の前の男はそんな複雑な私の心境も知らずに、大口を開けてボロネーゼを口に放り込んだ。やっぱり口元にソースがつきまくっている。

「西條さん、どこ大の人だっけ?」

「国公立の大学ですが……」

「へぇ、てことは府立大学とか?」

「……いえ、京都大学です」

「ええ⁉︎」

 彼がフォークに巻きつけていたパスタがほろほろとほどけていく。そんなに驚かなくてもいいのに。
 初対面の人に対して自分が通っている大学について触れると大体彼のような反応をされる。いちいち大袈裟にびっくりされるから、できるだけ大学名なんて言いたくない。でも、嘘をついたりわざわざ隠したりするのもかえって不自然だから、聞かれれば素直に答えるようにはしている。
 しかし何回経験しても慣れない反応よね……。私は心の中でため息をついて水を口に含んだ。

「そっかー、そうなんだー……。賢いんだね」

「そんなことないです。たまたま入試の日に運が良かったっていうか」

「いやいや、運じゃないでしょ。ほえ〜俺の界隈には京大生なんていないからびっくりしちゃったよ。しかも女の子で」

「それはどうもありがとう」

 ああ、やっぱり。
 大学名を聞いてから彼が若干引き気味になったのが分かる。その証拠に、先ほどまでテーブルに両肘をついて前のめりに顔を寄せていた彼が、今や両手をきちんと膝の上に乗せて上体を逸らしている。

 これまで幾度となく同じような場面に出くわして来た。美容室のお兄さん、街中でナンパしてくる男性、ボランティア活動で一緒になった目上の人たち。数え切れないほど同じ質問をされ、同じ反応を返される。相手方に悪気は一切ないのだろうけれど、「すごい」と言われてから一線を引かれるこの感じがたまらなく嫌だった。
 まあでも、私もマッチングアプリで出会った目の前の彼のことを決して「イイ」とは思わなかったんだし、おあいこだわ。

「それにしてもさ、なんで西條さんみたいな子がマッチングアプリなんて使ってるの?」

「どういう意味?」

「だって、京大生でしょ。男なら大学にもいるだろうし。それに、こういうの興味ないと思ってた」

 ん、ん、ん?
 今何か、聞き捨てならない言葉を聞いたような。
「男なら大学にいる」——これは確かに間違っていない。実際、京大は男性七割、女性三割ぐらいだと聞いている。学部によってはもっと偏っているところもあるくらいだ。
 男子が多いならすぐに恋人ができるだろう——この見解はかなり危うい。なぜなら、京大生男子はインカレッジサークル(他大学の人も所属できるサークル)にて女子大の女の子を捕まえる傾向にある。キラキラとした目で慕ってくれる女子大の子は、京大男子にとっては「ちょうど良く」、庇護欲がくすぐられるのだろう。
 もちろん、京大生同士でカップルになる例だってある。でも、私は4年間で一度もその一例にはなれていない。それもこれも、初対面の男性の前では彼の言う通りつい「真面目な」部分ばかり出してしまうせいだろう。きっと、つまらない女だと思われるのだ。

 ふう、と一息ついてから私は再び水を飲んだ。目の前に喋るべき相手がいるのに、脳内でこうも思考を巡らせてしまう。彼の方はとっくにボロネーゼを食べ終わり、未練がましくお皿についたミートソースをスプーンですくおうとしていた。

 それにしても。
 さきほど彼が放った言葉が頭から離れない。
「こういうの興味ないと思ってた」。「こういうの」とは恋愛のことなのか、はたまたマッチングアプリのことなのか。多分両方とも含まれているんだろう。
 なぜ、頭の良し悪しで恋愛への興味の有無が変わってしまうと思ったのか。京大女子はみな生涯独身を貫きます! 女一人で生きていきます! と言うとでも? そこまでの思考を彼が持ち合わせていないのは明らかだけど、偏見で軽い発言をするのが気に食わない……。

「……興味ぐらいありますよ」

「そう。わざわざアプリ使うくらいだもんね。興味なかったら使わないよね」

「……」

 そうです、その通りです! だからこれ以上無意味な質問はやめてください!
 と、強く言いたいところだけど、残念ながら私にはそこまでの勇気がない。せいぜい彼の目を睨みつけて——もとい、見つめて こっくりと肯くことしかできなかった。

 ああ、メセージでやりとりしてる時はまともな人だと思ったんだけどなぁ。
 これまでマッチングした人の中には、明らかにサクラだったり身体の関係を求めてきたりする人がいた。その度に吐きそうになりながら、それでも恋人が欲しい私はアプリを使い続けてきた。
 身の回りでは男友達や恋仲になりそうな男性がいない。出会いを求めて積極的に何かの団体に所属しに行くようなバイタリティもないけれど、恋人は欲しい。

 これでも、私にだって恋人がいた時期はあった。高校3年生から大学1年生の秋まで、同級生とお付き合いしていたのだ。でも、お互い他府県の大学に進学したことで遠距離恋愛になり、連絡頻度や会う回数が明らかに減っていった。それでも恋人のことを好きだった私は、めげずにLINEで何度もメッセージを送ったんだけれど。それが重荷になったのか、ある日ぱったりと返信がこなくなり、挙げ句の果てに彼が浮気をしていることが発覚。泣きながらお別れの電話をした。

 思い返せばよくある若者の恋愛って感じだ。当事者からすればこの世の終わり、もう二度と恋愛なんかしないと、これまたありふれた決意をしたはずなのに、少し時間が経てば新しい恋がしたいと必死になっていた。

 どうしたら男の子と出会いがあるのか——と思案した結果、今のご時世、マッチングアプリなるものがあるということを知った。最初はやはりアプリを使うことに抵抗があった。どこの誰とも知らない人と「初めまして」で会うのは怖いし、真面目に恋愛したいと思っている男性がどれくらいいるのか正直疑問だった。でも、何かしら行動を起こさなければ恋人なんてできるはずがない。このまま一人暮らしの自宅と大学を行ったり来たりする生活でいいのか? と自分を問い詰めた結果、ものは試しと思ってアプリを使うことに決めたのだ。

 マッチングアプリと一言に言っても、種類も豊富でどのアプリを使えば良いのか正直分からなかった。調べてみると、マッチングアプリにも真面目度がいろいろあるらしく、遊び目的、恋愛目的、結婚目的、とジャンルが分かれているらしかった。

 本気で恋愛をしたかった私は、アプリのレビューを見て、そこそこ真面目な恋愛目的のマッチングアプリをダウンロードした。女性も男性も無料で登録できるらしいが、あまりに不真面目な人とマッチングしてしまった際には「通報」システムもある。それなら大丈夫か、と恐る恐るではあるがプロフィールを書き込んで登録をした。

【初めまして。京都市内の大学四回生です。恋人が欲しくて登録しました。趣味は読書、映画、一人カラオケです。よろしくお願いします】
 
 超無難な挨拶文と、そこそこ上手く撮れた顔写真を載せて少し待つと、ピコンという通知音と共に複数の男性が私を「ライク」してくれたことが分かった。
 この「ライク」というのがアプリの最大の特徴らしい。次々に現れる異性のプロフィールに対して、気に入ったら「ライク」のボタンを押す。気に入らなければフリックして次の人のプロフィールを表示させることができる。一日の「ライク」の上限は20件と決まっているので、適当に「ライク」を押しまくることはできない。「ライク」をもらった側は、「ライク」をくれた人のプロフィールを見て、良いと思えば「ライク」を返す。そうして初めて「マッチング」となり、個別でメッセージができるようになるという仕組みだ。

 初めてマッチングアプリを使った私は、プロフィールを登録してすぐに「ライク」が届いたことに驚きを隠せなかった。しかも一件だけではない。何人もの男性たちが私に興味を持ってくれていた。人生でこんなに一度に多くの男性から関心を寄せられることなどなかったので、頭がついていかない。こんな自分に「ライク」を押してくれた人なのでできるだけ全員に応えたいところだが、いざ相手のプロフィールを見ると、この人だ! という人はあまりいなかった。

 チャラそう、趣味が壊滅的に合わない、筋肉アピールがいけすかない、など不満をあげればキリがなかった。
 そんな中、かろうじてこの人は合うかも、と思ったのが今目の前に座っている「リュウ」という男の子だった。私はアプリでも本名を名乗っているが、彼は下の名前だけで登録していたから、今もリュウという名前しか知らない。
 彼のプロフィールはとてもシンプルで、「趣味はサッカー。気軽によろしく」——たったこれだけだった。そのあまりに簡素な文面に潔さを感じ、この人なら私みたいな真面目腐った人間でも受け入れてくれるかもしれないと淡い期待を抱いたのだ。
 だけど、どうやら考えが甘かったようだ。

「食後のコーヒーをお持ちしました」

 じっとして会話のない私たちの間を、店員さんが無理やり割り込むようにしてコーヒーを持って来てくれた。心なしか、眉間に力が入っていたことに気づく。どうやら無意識のうちに彼を睨んでいたみたいだ。
 当の彼は私の視線に気づいていないのか、お冷やグラスを何度も口に運んでいた。もう氷しか残っていないのに。
 私は湯気の立つコーヒーをじっと見つめた。そこに映る自分の顔は怖い顔をしている。今日、彼と会う前には鏡の前で髪の毛を巻いたり、いつもよりも鮮やかなリップをしたりしておめかしをしていたのに。眉間にシワの寄った自分の顔を見ていると、目の前の男が不便に思えてくるほどだ。

「これ、飲んだら帰ろうか」

 つまらなさそうな声色で彼はそう言い放った。おうおう、もう私にはご用がないってことか。上等です、こちらもあなたにもう用はありません。
 と心では強がっているが、本音は少し悲しかった。彼からお暇を告げられなくても、彼と恋人関係になる可能性はほとんどないのだけれど、初めて会った人につまらない人間の烙印を押されたのが堪える。

「ええ、そうね」

 マッチングした男の中では圧倒的にまともだと思った。実際、相手が私じゃなければ彼だってもっと楽しそうにしていただろう。互いの本音を勘ぐったりせず、表面的な会話だけで盛り上がることもできたはずだ。

 はあ……。結局、私は男の子と楽しくデートすることができないのかなあ。

 半分くらいになったコーヒーに映る自分を眺めていると、彼がテーブルに肘を置いた衝撃でその姿がぐにゃりと歪んで見えた。

「それで、諦めちゃったわけだ」

「諦めたんじゃないよ、私には合わなかったの」

「ふーん」

 秋の爽やかな風が吹く月曜日の午後、大学構内にあるカフェで友人の三輪(みわ)つばきと昨日の「リュウ」とのデートのことを話していた。彼女とは高校時代からの付き合いで、大学でも一緒にいることが多い。同じ文学部で彼女は心理学専攻、私は社会学専攻だ。肩のところで揺れる外ハネの髪型がよく似合う、頼りがいのあるお姉さん的存在。優柔不断でなんでもくよくよと悩みがちな私とは正反対の性格だった。

「カナは彼氏が欲しいんだよね?」

「うん」

 つばきは私のことを「カナ」と呼ぶ。奏だから「カナ」。つばきの影響なのか、他の友達からもそう呼ばれることが多い。

「それでマッチングアプリなんか使い出したのね」

「ダメかな」

「いや、ダメってことはないよ。最近はアプリだって出会い探しには主流になってきるしね。あたしの周りの友達もたくさん使ってるよ」

「やっぱり!?」

「周りの友達」というワードにピンと反応してしまう私。彼女の言う「友達」とは大学の友達に違いない。

「どうしたの急に」

「だって昨日の男がさ、『京大生なのにマッチングアプリを使うなんておかしい』って言ってたからさぁ……」

 正しくは「だって、京大生でしょ。男なら大学にもいるだろうし。それに、こういうの興味ないと思ってた」だったのだが、この辺はもう脳内で悪い方向へと勝手に変換されてしまっている。

「へえ、ド偏見野郎じゃん」

「そうなの! 偏見なの。そういう偏った考え方の人とは仲良くなれないと思って」

 もう一度大きくため息をつく。
 京大に入ってから、いろんな意味で色眼鏡で見られたり今回のように偏見で自分という人間を判断されたりすることが増えた。相手からすればポジティブな考えのもとそう判断しているのだろうが、四角い枠の中に閉じ込められる側からすればいい迷惑だ。

「まあそうだろうね。あたしでもそんなこと言われたらやだもん」

「だよね。つばきはいいなあ。神谷(かみや)くん、同じ大学だからこんな悩みないよね」

「まあねえ。実際楽だよ。変に気を遣うこともないし、育ってきた環境も似てるし話が合うっていうか」

 つばきは所属している国際交流サークルにて、薬学部の男の子——神谷真斗(かみやまさと)と出会い交際をしている。私も一度だけ会ったことがある。見た目はチャラそうだが、話をしているとやっぱり頭の回転が速いんだなと思わせられることが多い。つばき曰く、そのギャップが良いそうだ。分かる気はする。

「カナも手っ取り早く大学内で探しちゃいなよ」

「全然手っ取り早くないよ。四回生にもなって大学内で相手を見つけるのは至難の技なんだよ」

「んー、言われてみれば確かにそうかも」

 つばきは肯きながらコーヒーを飲んだ。入学したての頃ならまだしも、もうすぐ卒業する身である私が今更新しい交友関係を築くのは至難の技だ。サークルや部活に入ることもできないし、卒業に必要な単位はほとんど取り終わっているため、授業中に隣の席の人と運命の恋に落ちることもない(これはそもそも期待すらしていない)。

「社会人になってからに賭けるしかないのかなぁ」

「社会人ね……」

 つばきはそこで、なぜか少しだけ目を伏せた。あれ、どうしたんだろう? 普段なら「社会人になってからだと余計に出会いなんて少なくなるよ!」と吠えるところなんだけれど。
 あ、そうか。社会人になったらつばきは神谷くんと離れ離れになるんだっけ。

「やっぱり寂しい?」

「え?」

「ほら、神谷くんって東京でしょ。つばきは東京戻らないんだっけ?」

「え、うん。今のところは関西(こっち)に残るつもり」

 私もつばきも元々東京出身で大学に入ってから京都にやってきた。就職となれば東京に戻っても良さそうなものだが、つばきは関西本社の会社に就職する予定だから、異動がない限りは関西勤務とのこと。

「そっか〜。それじゃあ遠距離になっちゃうんだね。大丈夫?」

「はは、大丈夫大丈夫。あいつには浮気する甲斐性なんてないし」 

 笑いながらそう言う彼女の表情に、やっぱり少しだけ翳りが見える。面と向かって言葉にはしないけれど、やはり寂しいのだろう。そりゃそうだ。恋人と離れ離れになるのは悲しい。私は、高校時代に付き合っていた彼のことを思い出した。東京の大学に進学した彼。久しぶりに帰省した日、彼は私の知らない女の子と手を繋いで歩いていた。決定的な瞬間を見てしまった私は、絶望に打ちひしがれながら実家の自分の部屋に引きこもり一日中泣いた。泣き腫らしたあと、彼にお別れの電話をしたのだ。離れてからまだ一年も経っていないのに。高校を卒業する時には「絶対に奏だけを好きでいる」なんてクサい台詞で私を励ましてくれたくせに。不覚にもその言葉を信じ、大学に入ってから男性からの誘いを一切断り続けた私の純粋な気持ちを返して欲しい。
と、遠距離恋愛で散々辛酸を舐めた私は、これから遠距離恋愛を始めようとしているつばきに深く同情してしまった。

「それよりさ、カナは横浜だよね……?」

「うん」

「あたし的にはそっちの方が寂しいかも」

「つばき……」

 私は来年から横浜に本社を構える不動産会社に就職することが決まっている。つばきとは大学を卒業すれば今みたいに会えなくなる。そのことを思うと私も鼻の奥がツンとした。

「YouTubeはもういいの?」

 不意打ちだった。彼女は飲みかけのコーヒーを尻目に私の反応をしっかりと窺っている。今日の本題はこれだと言わんばかりの慎重な問いかけだった。
 カフェでお茶をしている他の学生たちの話し声や、厨房でカチャカチャと食器を洗う音が急に聞こえなくなる。けれど遠くで鳴いている鳥の声はしんみりと耳に響いた。

「……YouTubeはもうやめたから」

「そっか」

 それきり、彼女も私も口を開かなくなった。
 YouTubeというワードはパンドラの箱そのものだ。わざわざ彼女が箱の蓋を開けようとしたことが、私にはちょっとだけ不可解に思えた。

「ふふふ、んふふふふ」

「……恭太、ツッコミ待ちなのかい?」

「ホホホホ」

 先週、学の紹介により江坂真奈と出会ってからちょうど一週間、よく晴れた金曜日の午後に僕は大学内の「ラウンジ」で学と落ち合っていた。「ラウンジ」にはテーブルと椅子が雑多に並べられており、誰もが自由に利用することができる。

 今日、学をラウンジに呼び出したのは外でもない。江坂真奈とのデートの様子を報告するためだ。ちなみに、彼から相手を紹介された時にはいつも報告会をするようにしている。せめてもの礼儀というやつだ。

 一回目のデートで撃沈していた今までの僕にとって、この「報告会」は憂鬱なものだった。せっかく学が作戦を立ててくれたのに……という申し訳なさが三割、今度こそはと息巻いて戦場へ出たのに傷だらけで何も得ることなく戻ってきたことへの後悔が七割、というのがいつものパターン。
 しかし今日に限ってはまったく違う心持ちだった。
 なんてったって、先週のデートが上手くいったのだ。僕の希望的観測によれば、彼女は僕のことを決して「気持ち悪い」とは思ってない……と思う。それだけでもかなりの前進だが、今回は「また今度ご飯にでも」という誘いに彼女が乗ってくれたという功績がある。
 しかも、別れ際には彼女と連絡先を交換するところまで漕ぎ着けたのだ! 圧倒的成長。紹介した学だってまさかここまでトントン拍子に事が上手くいくとは思っていなかっただろう。

「それで、どんなデートだったんだい」

「聞きたい?」

「……聞きたい、と言って欲しいんだろう」

「待ってました!」

 僕は江坂真奈とのデートについて、学に洗いざらい報告した。話しながら、頬がにやけるのが分かり、その度に目の前で話を聞く学がしかめっ面をした。彼は今の僕のことを気持ち悪いと思っているのかもしれないが、そんなことさえまったく気にならなかった。ただ一人、江坂真奈が僕のことを気持ち悪いと思っていないという事実だけで、空を飛べる心地がする。僕は生まれ変わったんだ。これまでの非モテ陰キャ京大生じゃないぞ! 高校時代、憧れていた賢くてモテモテの京大生になれる日も遠くない。

「賢くてモテモテの京大生、はまだ遠いと思うけれどね」

「あれ、聞こえててん?」

「心の声が漏れてるんだよ」

 いけない、いけない。
 ひどい妄想を学に聞かれるのはまだしも、周りの人たちにまで聞かれたらもうお婿にいけない。あれ、よく見ればさっきまで隣の席に座っていたグループが遠くの席に移動しているような。

「とにかく、君が彼女と初デートで上手くいったということはよく分かったよ。まあ君にしてはかなり頑張った方じゃないか。えらいえらい」

「それほどでもぉ」

 あああ、気持ち悪いっ。側から見た今の僕はかなりの変人。いつもなら学の方が圧倒的に変人のはずなのに、立場が逆転してしまっている。

「で、今はどういう状況なのかい? 彼女と今後のデートの約束はできた?」

「それが、聞いて驚くが良い。今週の日曜日にまたデートをすることになったのさ!」

「おおお、恭太が輝いて見える……」

 学が大袈裟に身体をのけぞらせる。かなりの茶番劇だが、脳内が舞い上がっている僕たちにとってはどうってことない。今や遠くからチラチラとこちらを見ている他の学生なんぞ、まったく気にならなかった。

「ちなみにデートはどこに行くんだい?」

「清水寺」

 あまりにも王道すぎるその目的地に、学は目を丸くして驚いていた。僕だって初めての本格的なデートで清水寺に行くとは思っていなかった。でも彼女が行きたいというのだから仕方がない。こう見えて清水寺には詳しいし。

「そういえば恭太って、無意味なほど何回も清水寺に行ってなかったかい?」

「……無意味なほど、とは失礼な。いつデートをしてもいいように清水寺は調べ尽くしてある」

 なんだかんだで王道デートコースについては100回ほど履修済み。まったく僕って人は。どこまで完璧なんだ。

「余裕かまして凡ミスしないようにくれぐれも気をつけたまえ」

「言われるまでもあらへんわ」

 学はジト目で僕を見た。女の子とデートをする予定のある僕が突然優位に立ったような物言いをするもんだから仕方あるまい。もし逆の立場だったら悔し涙と共に一発地面に拳を叩きつけていたことだろう。その点、彼は僕よりも大人かもしれない。

 ピコン、と僕のスマホが鳴った。LINEの通知音だ。確認するまでもなく誰からの連絡か見当がついたので自然と頬が緩む。ここ最近ずっと彼女との連絡が途切れていない。会話が終わりそうになると、すかさず別の話題を振るようにするという努力の賜物だ。

「江坂くんからか」

「せやろうね」

「見なくて良いのかい?」

「あんまりすぐに返信したら暇人だと思われるやろ」

「君ってそういうところ、やけに気にするよね」

「それもこれも、女の子の心を掴むためさ」

 そう。僕はこれまでありとあらゆる作戦で女の子の気を引こうとしてきた。いわゆる駆け引きというやつだ。残念ながらことごとく失敗に終わっているが、やっていることは間違いないはず。押しまくっても引きまくってもダメ。押し引きの塩梅を見極めるのにはデータが必要だが、幸いにも「当たって砕けた」回数に関しては誰よりも多い自信がある。

「あ、もう4限目が始まる時間か。僕はそろそろ行くよ」

「あれ、今日授業なんて取ってた?」

「いや。『京都創造論』っていうぱんきょーの授業に出るんだ」

「もしかしてそれって」

「すべてデートのためさ」

「はあ」

 一般教養、略して「ぱんきょー」の単位なんて一、二回生の間にすべて取り終えている。しかし、『京都創造論』という京都の土地に関する授業が今後のデートの役に立ちそうだからと出るようにしているのだ。ははは、我ながらなんて勉強熱心なんだ。

「君の不純な動機には呆れるけど、恋人をつくるという情熱だけは尊敬するよ」

「ありがとう、心の友よ」

 
 4限の開始時間が間近になるにつれラウンジから学生たちがはけていく。僕も彼らと共に『京都創造論』の講義を受けるため、教室へと向かった。さて、今後のデートの作戦を立てることにしよう。

 来るデート当日の日曜日。彼女と初めて会ってからちょうど一週間が経った。自分でもまさかこんなに早く次のデートに漕ぎ着けると思っていなかったので、夢の中にいる気分だ。

「天気最高」

 一人暮らしの狭い部屋でカーテンを開けると、雲一つない青空が広がっている。どこからかほんのりと漂う金木犀の香りが、甘いデートを想像させて気分が高揚した。歯を磨いた後、鏡の前で寝癖のついた髪の毛をワックスで整える。ボサボサだった黒髪が徐々にまとまっていく。いつもの眼鏡を外して、勝負用のブランドものに付け替えた。知る人ぞ知るハイブランドの眼鏡は去年の誕生日に自分へのプレゼントとして購入したものだ。
 僕はハイテンションのまま、今日の午後の天気でも確認しようとテレビをつける。

『……連日世間を騒がせております、YouTuber連続誘拐事件についてですが、昨夜四度目の犯行となる——』

「うわ、縁起わるっ」

 誘拐、などという物騒なワードが耳に入ってきて思わず電源を切った。この素晴らしい一日の始まりに憂鬱なニュースなど聞きたくないっ。

「行ってきまーす!」

 一人暮らしなので誰も「いってらっしゃい」なんて言ってくれないのだが、この時ばかりは近所の猫が「みゃあ」と鳴いて僕を清々しく見送ってくれているような気がした。
 愛車の自転車に乗り、いつものように京阪出町柳駅まで一漕ぎした。出町柳駅は大阪と京都をつなぐ京阪電車の終着点。駅を出るとすぐに目の前にいっぱいに広がる鴨川が、開けた視界の中で晴れた空によく映える。京大の最寄駅でもあるこの駅は、観光客も多く、駅周辺は世界遺産として有名な下鴨神社に行く人や、叡山電鉄というワンマン電車に乗り換えて貴船神社に行く人など、連日賑わいを見せている。

 彼女とは祇園四条駅で待ち合わせしていた。清水寺に直行するなら市バスに乗り「清水道」で降りるのが近いのだが、せっかくのデートということで少し回り道していくことになった。

 京都の街は碁盤の目のように道が区切られているので、道が分かりやすく散歩をするにはちょうど良い。女の子と二人で歩くのにも最適な街なのだ。(と勝手に思っている)
 兎にも角にも、爆上がりしたテンションのまま祇園四条駅にたどり着いた。

「江坂さん」

「あ、安藤くん」

 江坂さんは祇園四条駅にある某コーヒーチェーン店の前に佇んでいた。チェックのスカートに真っ白のカーディガンを羽織った彼女はさながら天使そのものだ。ちゃんと僕とのデートを意識して服を選んでくれたことが分かり、それだけでもう有頂天になりそうだった。

「ほな行きますか」

「うん」

 祇園四条駅にはいくつか出口があり、僕たちは南座の位置する四条通側から外へ出た。四条通を東に一直線に進むつもりだ。そこは言わずと知れた祇園の繁華街で、様々な土産物屋さんや食事処が立ち並んでいる。京都に初めて訪れた際にはこのザ・観光地な街並みに見惚れてしまったものだ。

「こういうの、久しぶりだな」

「こういうのって?」

「なんか、観光客みたいなコースを行くの」

「言われてみれば確かにそやな。僕も一回生ぶりかも」

 なんて、彼女に合わせてちょっぴり嘘をついてみる。本当はいつ可愛い女の子とデートをしてもいいように、一人で何回も王道デートコースを練り歩いたものだ。一人が寂しくなってたまに学を連れて男二人で京都散策することもあるが、冴えない二人組で学生カップルたちに埋もれていると余計惨めな気持ちになった。

「ねえ、あれ美味しそうじゃない?」

 駅を出て少し歩くと不意に彼女がある店を指差して言った。

「お、江坂さん見る目あるね」

「知ってるの?」

「自慢じゃないけどファンなんだ。『おはぎの丹波屋』さん」

「一回生ぶりの祇園なのに覚えてるんだ、すごいね」

「……あれ、確か小学校の修学旅行でも来たような」

 僕のちっぽけな嘘に矛盾を感じたらしい彼女が鋭いツッコミを入れてきたが、まあ構うまい。
 『おはぎの丹波屋』とは、関西で展開する和菓子屋さんだ。名前の通りおはぎが売りのお店だが、お団子や豆大福なんかもある。

「あれ食べようよ。みそ団子」

「ええよ」

 どうやら彼女は先ほどから香ばしい匂いを漂わせる「みそ団子」に興味を持ったようだ。みそ団子は僕の丹波屋さんのイチオシでもあったので嬉しい。「みそ団子」はお餅に味噌だれを絡めたシンプルなお団子で、一本の串に二つお団子が刺さっている。
 僕たちは一人一本ずつ「みそ団子」を購入し、食べながら四条通りを進んだ。大きくて柔らかい餅に甘辛い味噌だれがマッチしてとても美味しい。何度か食べたことがあるが、何度食べても飽きないこの味! しかも今日は隣で口元にたれをつける彼女と一緒とくれば、美味しさは数倍だった。

「あー美味しかった」

 満足げに笑う彼女を見て僕は幸福感に満たされていた。序盤からこんなに順調でいいんだろうか。

「八坂神社の方からねねの道に入ろか」

「ふふ、詳しいんだね」

「ま、まあ伊達に三年半も京都暮らししてへんから」

「私も一緒なんだけど、道覚えるの苦手で」

 てへへ、という声が聞こえてきそうな仕草で彼女は肩をすくめた。

「大丈夫。今日は僕が案内するし」

「よろしくお願いします」

 おお、なんだこのむず痒いやりとりは。僕の人生で一度も味わったことのない甘い展開とやらか? 
 とにかく妄想が止まらない僕はにやけ顔を悟られないように少し俯きながら歩いた。

「危ないよ」

 下向き加減に歩いていたせいか前から来る人にぶつかりそうになり、とっさに彼女が僕の腕を掴んだ。

「……あ、ありがとう」

「ううん。ちゃんと前見て」

 なんと。
 僕の人生初の「女の子から腕を掴まれる」体験じゃないか。不意打ちすぎてその感触を噛み締める間もなかったのが少し悔しい。しかし、彼女の手の柔らかさがまだ余韻で残っている——。

「安藤くん、どうかした?」

「い、いや。なんでもない。それよりほら、八坂神社にもう着く」

「そうだね。神社の中から行くんだっけ?」

「ああ。途中でねねの道に出るからついてきて」

 女の子は「俺についてこい」タイプの男が好きなことが多いと学が言っていた。ここは、彼女を上手くリードして「頼れる男」を演じなければ。
 僕たちは祇園の店が立ち並ぶ四条通りの突き当たりで朱色の鳥居を構える八坂神社へと足を踏み入れた。爽やかな風の吹く十月、日曜日ということもあって神社もなかなかの混み具合だ。八坂神社の入り口では普段からからあげやはしまきを売る露店が鎮座している。「らっしゃい!」という威勢の良いお兄さんの声をBGMに、僕たちは神社の奥へと進んだ。

 しばらく歩くと右手に横道が現れる。そこがねねの道へと続いているので、僕たちは横道へと足を踏み入れた。「ねねの道」はその名の通り、北政所ねねが十九年の余生を送った地として知られる高台寺の、すぐ西側の道のことだ。美しく整備された石畳と脇から姿を覗かせる紅葉の葉が京都の風情を際立たせている。

「久しぶりだな。ここ、何回歩いても素敵な道だよね」

「あ、分かる? 実は僕もねねの道が好きで。今日祇園で待ち合わせにしたのもここを通るためなんだ」

「そういうところ、いいなあ」

 目を細めて僕の方を見つめた彼女の瞳に、僕は自分の心拍が速まるのが分かった。
 今、彼女はなんて言った?
「そういうところ、いいなあ」って。
 それって、僕のことをいいと言ってくれてるんだよな?

 うひょー! そんなこと言われたのは初めてだ。自分の良いところなんて就活の時に散々聞かれたけど、いつも「何度勝負に負けてもめげない精神力」と答えてきた。なぜって、学が普段から「君はどれだけ女の子にこっぴどい振られ方をしても折れないね。まるで時計台の前のクスノキばりに野太い精神力だ」と言われていたから。ちなみに「時計台」というのは、京大構内の真ん中にどーんと構える時計付きの建物のこと。その時計台の前で大きなクスノキが僕たち学生を見守っている。
 果たしてそれが褒め言葉なのかどうかはさておき、自分の良いところを他人に、それも女の子に褒めてもらうなんて僕の中では超一大ビックニュースだ。

「いろいろ考えてくれてありがとうね」

「ど、どういたしましてえぇぇ」

 ああ、キモイ。
 今の自分を客観的に見たらものすんごくキモチワルイ。
 だけど、隣を歩く彼女はふふっと可憐に笑ってくれて、それがまた楽しそうで。
 彼女の笑顔が見られれば、第三者に自分がどれだけ気持ち悪く映っていようがどうでもよかった。

「二年坂が見えてきたね」

「本当だ。ようやく清水って感じやね」

 高台寺を通り過ぎ、清水寺へと続く二年坂が見えてきた。ここもまた石畳の情緒あふれる道が続く。レトロなお土産屋や雑貨屋も多い。途中、八坂の塔が顔を覗かせるこの道は京都でも有数の撮影スポットになっている。
 すれ違う人はカップルと思われる男女が多かった。美しい着物を纏った女子グループたちが華やいでいる。僕は、彼らのように江坂さんと二人で遠慮のない距離感で歩く未来を妄想してみた。今は彼女との間にぎこちない距離感がある。ああ、早くこの三十センチの隙間を埋めたい……。

「入りたい店があったら言ってな」

「うん、ありがとう」

 それから僕たちは気になった雑貨屋に入ったり、八ツ橋味のシュークリームを頬張ったりしながら清水寺までたどり着いた。
 朱色の仁王門をくぐり、拝観チケットを購入して境内に入る。日曜日ということもあって、境内は多くの人で賑わっていた。お線香の匂いを全身で嗅ぎながら、雄大な景色の広がる舞台へと進む。

「わあ、やっぱりいい眺め!」

「こうして見ると圧巻やな」

 もうn回目になる清水の舞台も、女の子と来た今日は違った景色に見える。まだ完全に紅葉はしていないけれど、色づき始めた木々を眺めると、僕たちの恋も始まったばかりだと実感させられた。いや、彼女が僕をどう思っているかは分からないけれど。

「清水寺ってさ、人生に疲れたら来たくならへん?」

「ふふ、面白いこと言うんだね」

「そう? なんかこの景色の雄大さが」

「自分がちっぽけな存在だって思わせてくれるから?」

「おお、それ今言おうと思ってた」

「でしょう。安藤くんが考えそうだなーって」

 なんと! 僕の思考をここまで理解してくれるなんて。まだ出会って二回目のデートなのに。彼女はどれだけ僕にぴったりな存在なんだ。

「不思議なんやけど、江坂さんと話とると自然体でおれるわ」

「それは嬉しい。私も安藤くんになら何でも話せちゃいそう」

 ぬおおお、それはもう僕のことを好きだって言ってるのと同じではないのか!? いや、待て早まるな。ここで展開を急ぎすぎて振られる、なんて経験はもう懲り懲りだ。「急がば回れだよ、恭太くん」と目を光らせて諭してくる学の顔が浮かぶ。女の子とそういう関係になるのに焦りは禁物。女子の気持ちと男子の気持ちがヒートアップするスピードには時差があるのだ。有頂天になってはいけない。

 とはいえ、彼女はかなり僕に気持ちが向いているのではないか? だって、ここまで楽しそうに僕と会話してくれた女の子は他にいないし、会話のキャッチボールも上手くいっている。

 これは、今日中に勝負が決まるかもしれない——いや、決めにいっても良い気がする。

 決して急いではいけないが、ここぞというタイミングでもたもたするのもご法度。「こんなにアピールしてるのになぜ来てくれないの」と思わせたらアウトだ。まったく、女心は複雑すぎる。

「そろそろ行こうか。お腹空いてへん?」

「うん。景色、堪能できたしね」

 時間的にはまだ夕方なのだけれど、これからまた歩かないといけないので早めに清水から下ることにした。
 それより、今日勝負に出ると決めた僕の心臓がはち切れそうで、動いてないと爆発してしまいそうだった。
 帰りは清水坂を下り、清水道のバス停まで出た。長い坂を下り終えると彼女が伸びをし、「楽しかったー」と一言。つられて僕も楽しかった、と呟いた。君が隣にいるから、というクサいセリフはぎりぎり口にせずに呑み込んで。

「どうする、ご飯食べて帰る?」

「うん、そうしよ。この辺によく行くお店があるの」

 出町柳駅周辺を生活区域にしている僕にとって、五条周辺はあまり馴染みがなかった。けれど、彼女の方は割と精通しているよ
うで、路地裏の小さな居酒屋に案内してくれた。お店を決めるのは男の役割だと思っていたが、女の子に決めてもらうのもナシじゃないな。好みの店かどうか気にする必要もないし。学、僕は今日一歩新たな真理にたどり着いたぞ!
 江坂さんは五条通の方に向かって小さな路地を進んだ。こんなところにお店なんてあるんだろうかとちょっと疑いながらついていくと、果たして目的の店が現れた。思ったよりもこじんまりとしているが、「知る人ぞ知る隠れ家」感があって好感が持てた。店の前で懐かしい香りがするなと思っていると、店の名前が「キンモクセイ」だった。初めて江坂さんに会ったとき、彼女が金木犀の香水を纏っていたのを思い出す。

「ここ。秘密基地みたいでいいでしょ」

「ああ。最高だ」

 まだ店の中に入ったわけでもないのに、僕はキランと歯を光らせて(たぶん、光っていた)答えた。はにかんだ彼女の顔を見て心の中でガッツポーズ。

「いらっしゃい」

 お店の戸を開けると店主と思われる中年のおじさんが顔を覗かせた。

「こんばんは」

「お嬢ちゃん、久しぶりだね」

「ご無沙汰してます」

「あれ、今日はいつもの連れじゃないのかい?」

「あ、はい。今日は違うんです」

「そうかい。そこ座りな」

「ありがとうございます」

 店主とは顔馴染みらしい彼女が常連客の風格で椅子に腰掛けた。僕もさっと正面の席に座る。それにしても店主、「いつもの連れ」って、もしかして彼女の元彼のこと? 普通そういうのは気を遣って聞かないでおくだろう……とちょっと凹む。
 彼女も、元彼との思い出の店に僕を連れてくるのか——と若干切なかったが、まあ店に罪はないしな。小さなことでウジウジ悩むのはやめよう。
「キンモクセイ」は京都のおばんざいを中心とした料理を扱う居酒屋だった。京料理、と聞くと何だか高くて上等なものに思えるが、ここは学生にも優しい価格で料理を提供しているようだった。
 生湯葉や生麩の田楽、西京焼きなど気になるメニューを注文していく。ビールが苦手らしい彼女はももの果実酒を頼んでいた。果肉がたっぷり入っていて美味しいそうだ。

「ここの料理、優しい味がして好きなの」

「そうなんや。確かにマイルド。心も和むね」

「ふふ、でしょう。安藤くんが好きそうだなって思って」

「それはありがとう」

 元彼との思い出の店も、「あなたが好きそうだから」なんて言われてしまえばもう関係なかった。僕は、彼女が放つ一つ一つの言葉に感心し、喜怒哀楽してしまう。いや、ほとんどが喜、喜、喜。彼女はきっと男を喜ばせるのが得意なのだ。
 それから僕たちは大学での日々やお互いの友達の話、就職の話などをして盛り上がった。なんでもない話なのに、いちいち大げさにリアクションしてくれる彼女はもはや聖母マリア。特別美人というわけでもないが、こんな子は男によく好かれそうだと思わせられる。放って置いたらきっとすぐに次の彼氏候補が現れるだろう——そう予感した。

「ちょっと、飲みすぎたかなー」

 お店に入ってから二時間、彼女は三杯お酒を飲んだがそこまで酔っているようには見えない。対する僕は四杯。まあまあアルコールが回っている。
 しかし、今日は酩酊するわけにはいかない。気をしっかりもたなくては。
 彼女が店主に「お会計お願いします」と伝える。二人で合計六千四百六十円。財布を出そうとする彼女を制して僕は一万円札を店主に渡した。

「そんな、悪いよ」

「ええよ。美味しいお店教えてくれたお礼」

「……ありがとう。ごちそうさまです」

 花が咲いたように笑う彼女。僕に向かって丁寧に頭を下げている。その一つ一つの仕草が、僕にはもう特別なものに見えて仕方なかった。
 店を出ると、辺りはすっかり暗くなっており、街頭が石畳の道を照らしていた。狭い路地に、僕と彼女だけが取り残されたかのように存在している。街頭がなければ今にも幽霊が出てきそうだ。でも、恐怖や孤独感はまったくない。彼女が隣にいるだけでここは楽園だった。

「駅まで一緒に行こう」

「うん」

 僕も彼女も京阪電車で家に帰るため、二人で「清水五条」まで歩いた。暗い道で、あと数センチで触れ合うか触れ合わないかの距離を保ちながら。今日は、今日だけは酔っ払ってみっともない姿を晒すわけにはいかない。
 清水五条駅が見えてくると、僕の心臓は一気にけたたましく鳴りだした。実際に音が聞こえたわけではないが、激しく脈打つ心臓が痛いくらいだ。

「ここまでだね。今日は楽しかった。ご飯もご馳走してくれてありがとうね」

 僕たちは反対方向の電車に乗るので、駅でお別れだった。
 爽やかな笑顔で手を振り去って行こうとする彼女。ああ、ダメだ。このままでは彼女が行ってしまう。この気持ちを次回のデートまで持ち越すなんて耐えられない。そもそも、次回のデートがあるかどうかなんて保証はどこにもないのだ。

「待って」

 気がつけば僕は彼女の手を掴んでいた。
 咄嗟の出来事に、彼女が目を丸くする。僕も自分の行動に自分で驚いていた。ヤバイ、もう後には引けない。道路を走る車のエンジン音がだんだんと聞こえなくなる。向こうから犬の散歩をしている人が歩いてきた。あの人が来る前に、この気持ちを伝えよう!

「ぼ、僕さ、江坂さんのことが好きなんやけど」

 やっちまったああぁぁぁぁ。

 大事な場面で「ぼ、僕」なんて吃る男、彼女が好きなはずがない! それに、「好きなんやけど」って何だよ。だからどうしたいってところが肝心だろう!
 と頭では分かっているのに、それ以上言葉が出てこない。早く続きを話さなければならないのに、頭が真っ白になった。
 ああ、神様仏様学様。
 安藤恭太は、どうやらここまでのようです南無阿弥陀仏。
 心の中で天を仰ぎ両手をすり合わせた。目の前の江坂さんは瞠目したまま動かない。ああ、やっぱり。大事な場面で格好悪いところを見せてしまったから呆れてるのだ。返事は絶望的か——。
 前方から歩いてきていた男性と犬がいよいよ僕らの横を通り過ぎた。ワン、と犬が僕に向かって吠える。なんだ、僕のことが気に入らないのか。江坂さんには吠えていないところを見るとあながち間違いではなさそうだ。
 彼女はよくやく瞬きをした。すう、と息を吸う音がして口を開く。途端、耳を塞ぎたい衝動に駆られる。聞きたくない。僕は彼女からの「ごめんなさい」を聞くのが怖い。これまで何度も女の子に断られ続け、振られることには慣れている。だけど、彼女は特別だ。ここまで意気投合して僕の前ではずっと楽しそうに笑ってくれていた彼女を失うのは、どうしようもなく怖かった。

「安藤くんって」

「は、はいっ」

 何を言われるのだろう。
 ごめん。
 友達のままがいい。
 恋愛対象にはならないかな。

 想像した言葉たちが脳内で暴れ回り、僕の心臓の動きをより激しくさせた。

 逃げ出したい。さっきの告白はなしにして、「またね」って手を振ってお別れしたい。そうしたら明日にでも三回目のデートに誘う。彼女のことだから、きっとまた誘いに乗ってくれるに違いない。たとえそれが友達としての優しさでも、今ここで会えなくなるよりはずっといい——。
 その場にじっとしているのがもう限界だった。「やっぱり……」と言ってついにその場を去ろうとしたとき。

「やっぱり、面白いね」

「え!?」

 どういうことだ。「面白いって」!? 僕の告白が? 確かに大事な場面で吃ってしまう僕は他人から見れば「面白い」のかもしれない。

「心で考えてることが口に出てる。目の前のことに一生懸命って証拠だよね。私、そういう安藤くんのことが好きだよ」

「な……!」

 さっきまで考えてたことが口に出ていただとぉぉぉぉ! 
 最悪だ。あまりに最悪だ……。やっぱりもうお婿にいけない……。
 ……て、今何か大事なことを彼女は言わなかったか?

「ごめん、もう一回言ってくれる?」

「考えてること口から出てて面白いってこと?」

「違う違う。そのあとの」

「ああ。私、安藤くんのことが好きだよ」

「……」

 風の音や道路を走る車のエンジン音、ジーという虫の声がすべてなかったみたいに聞こえなくなった。僕は思わず彼女の顔を二
度見した。真っ直ぐな瞳をこちらに向けてくれる彼女はまさに天女のようだった。
 分かった、これは夢だ。
 試しに一回頬をつねってみる。

「イテテ……」

「何してるの?」

「い、いや。しっかり痛いな」

「大丈夫?」

 彼女の右手が、僕の頬に触れた。ぎょっ、という変な声が口から漏れる。彼女が「なにそれ」と笑う。「なんだろうな〜」とつられて僕も笑う。もう訳がわからない。しかし心が有頂天になっていることだけは明白だった。

「……それで、僕たち付き合うってことでええんよね?」

「うん、そういうことだと思ってたよ」

「くー! ありがとう江坂さん! これからよろしく」

 今度は喜びの声を隠すことすらできず、全力で口に出してしまった。江坂さんがにっこり微笑んでこちらこそよろしくね、と小さく頭を下げた。
 京都の宵の景色は鴨川を薄暗く染めて、昼間に見る煌く水面とは別の妖艶さを漂わせている。三年半京都に住んであまり意識したことがなかったけれど、この時間の鴨川は誰にも言えない秘密を抱えているようで好きだ、と改めて思う。
 江坂さんはそんな妖艶な鴨川を眺めていた。僕の恋人。今日から恋人になった人。意識すれば恥ずかしいし、恋人のできたことのなかった僕にとってはかなり違和感がある。でも、紛れもなく僕の彼女なんだ。
 薄闇の中で目を閉じて、これからの生活を心に思い浮かべる。そこには幾筋もの明るい光が輝いていた。
 
 月曜日の昼間、大学構内でやることのない私はぼんやりと時計台前のクスノキの椅子に腰掛けていた。大きなクスノキをぐるっと囲むようにして椅子があるので、待ち合わせの人やコーヒーを飲みながら本を読んでいる人なんかがよく座っている。
 大学四回生の私は残す単位もほとんどなく、大学に来る意味があんまりない。やることがないならバイトにでも行けばいいのかもしれないけれど、幸いなことに私は今お金にはまったくと言っていいほど困っていなかった。

『YouTubeはもういいの?』

 一週間前につばきから聞かれたことが頭の隅にこびりついている。
 私は元人気YouTuberだ。「カナカナちゃんねる」というチャンネル名で「在学中にアイドルを目指す京大女子」というコンセプトで歌やトーク動画をアップしていた。チャンネル登録者数は一番いい時で五十万人にも上り、同世代の女の子なら私の名前を知らない人はいないんじゃないかというくらい、当時は有名人になった気分だった。
 でも。

「頭がくらくらする……」

 いつも、YouTuberだった頃のことを思い出そうとすると頭痛がしてそれ以上考えていられなくなる。毎日のように動画を投稿していたはずなのに、具体的にどんな動画を上げていたのか、私はうまく思い出すことができないのだ。歌ったり視聴者と対話したりしていたことは覚えているのだが、記憶にもやがかかったようにそれ以上のことが思い出せない。
 記憶喪失、という物騒なワードが頭をよぎる。医者に行ったわけではないけれど、私はそうではないかと思っている。
 ただ、一つだけ覚えていることがあった。
 YouTubeに出ること自体、楽しくて仕方がなかったこと。普段人前で堂々と喋ることができない私が、画面の中でならキラキラ女子でいられたこと。それだけは心が覚えているのだ。

「ああ、せめて恋人でもいればなぁ……」

 YouTubeを辞めてから、私の日常は灰色だ。かといって、もう二度と動画を撮りたくはない。そんな気分になれない、というのが正直なところだ。
 しかし退屈な日々も、もし恋人がいれば、その人が楽しませてくれるに違いない。
 こうしてクスノキ前に座っているだけでも、隣に好きな人がいてくれたら。会話するだけで楽しくて、今日家に泊まりに行ってもいい? なんて甘い提案をして、きゅんとして。馬鹿みたいな妄想だけど、馬鹿みたいに幸せな気分に浸っていたい。まあ、今はその「好きな人」がいないのだけれど。
 妄想を重ねながらぼんやりと前方を見ていると、タイムリーにカップルと思われる学生二人がこちらに向かって歩いてきた。男の子の方は、失礼だが見た目からしてすぐに京大生だと確信したのだが、女の子の方は女子大の子かもしれない。トレンドのカーディガンを羽織り、高そうなブランドもののヒールを履いている。透明感のあるメイクが遠くからでも艶やかに光って見えた。特別美人とは言い難いが、ファッションもメイクも完璧に決まっている。女の子は、時折男の子の方を見て柔らかく微笑んでいた。男の子がボケて、女の子の方がツッコミ役をしているように見える。きっと、どうでもいいことを話して盛り上がっているんだろうな。そういう何気ない会話を楽しめるのもカップルの特権なのだ。

 私は自分の足元に視線を落とす。二日に一回履いている白いソックスは、片方の親指の裏の部分に穴が空いている。誰にも見られないからいいや、とそのままにしているのが悲しいところ。
 心とは裏腹に、心地の良い風が身体を吹き付ける。ゆったりとした時間の中で、私はいつの間にかまどろんでいた。

「そんなところで寝てて、風邪ひかへん?」

 ふっと、意識が戻ったとき、私の顔を覗き込むその人を見てぎょっとのけぞった。

「あなたは……」

「僕? ああ、経済学部の四回。いや、そんなこと今どうでも良くて、こんなところで眠ったら風邪ひいてまう」

「え、いや。大丈夫です。うたた寝しちゃっただけなので」

「そう? まあそれならええわ。気いつけて」

「はい」

 もさもさとした髪の毛に眼鏡をかけたその男の人は、紛れもなく先ほど私が見たカップルの片割れだった。
 彼女はどこに行ったのだろう。時計を見て二度びっくり。なんと、二時間も時間が経っている。ということは、ここでかなり眠り込んでいたということか……。この人が起こしてくれなかったら本当に風邪をひいたかもしれない。

「あの、ありがとうございます。起こしてくれなかったら、やっぱり危なかったかも」

「どういたしまして。せやろ? さっき大学に来たときから見かけててん。あ、変な意味で見てたんとちゃうで? たまたま目に入っただけやから」

「大丈夫です。それより、さっき彼女さんと一緒にいましたよね。今どこに?」

「ああ、真奈——ふふ、彼女ならバイトに向かってん。京大を見たいって言うてたからちょっと案内しただけで。て、僕らのこと見てたん?」

「私も、さっきあなたたちが歩いてるところが目に入ってきたんです」

「せやねんな。じゃあおあいこということで」

 男の子は歯を見せてニッと笑った。失礼だがちょっと並びの悪い歯が印象的だ。同じ大学四回生だが、彼を見たことはない。大学には同級生が数千人いるから仕方ないと言えばそうだ。

「じゃあ僕はこれで。このあと学——友達と会う約束しててん」

「そうなんですね。ではまた」