いざ中へ突入! と意気込んだところで、近くから聞き覚えのある男の人の声が聞こえてきた。
「クリスマス〜? もちろんナナコと一緒に過ごすに決まってんじゃん」
「わあい。真斗、やっぱり私の方が好きやん」
「そんなこといちいち言わせんなよ。恥ずかしいだろ」
ほうほう、いちゃいちゃカップルの甘々トークですか——と簡単にはスルーできない。なぜなら今、関西弁の甘ったるい声で
「真斗」と男を呼ぶ声がはっきりと聞こえたからだ。
「真斗って、神谷くん……?」
「まさと」なんてよくある名前だ。他に「まさと」がいたとしてもおかしくないのだが、男の方の声が聞き覚えのあるものだったから、私は思わず息をのんだ。
文学部校舎に踏み込んだ足をいったん引き戻し、声のする方へと顔を向ける。声は文学部校舎の駐輪場の方から聞こえていた。授業時間の今、駐輪場には声の主以外誰もいない。
「ナナコの方こそ、彼氏は大丈夫なのかよ」
「私―? うん、もうすぐ別れるしええよ。あいつ、なんか最近素っ気無いし研究室に篭りきりで相手してくれへんから」
「そうか。なら決まりだな。せっかくのクリスマスだし、どっかでコース料理でも食べるか」
「やった、賛成!」
ナナコ、と呼ばれた女の子の腰に腕を回す男は満足げな表情で彼女を見ていた。
はたしてそれは予想通り、神谷真斗だ。
彼の目にはおよそナナコのことしか映っていないのだろう。ちょっとずつ私が近づいているのにこちらには目もくれない。神谷くん、どうしてつばきという彼女がありながら、堂々と他の女の子と笑っていられるの? もしかして、その子と上手くいってからつばきのことを振るつもり? それってキープって言うんじゃないの。
自分の恋人でもないのに、いや友達の恋人だからこそ、怒りで頭の中が熱くなっていく。終業のチャイムが校舎から聞こえてくる。もう研究発表には間に合わない。それならばせめて、つばきが傷つく前に神谷真斗に制裁を加えたい。
無計画で心の従うまま、彼の方に手を伸ばす。ナナコに夢中の彼は私の存在に気づかない。なんでもいい。なんでもいいから反省してほしい。胸ぐらを掴んで問い詰める? いやいや、そんなヤクザぶったことが自分にできるわけない。だけどこのまま黙って見てるだけなんて嫌だ。つばきが傷つくところを、私は見たくない。じゃあ、どうすれば——。
「何してんねん、西條さん」
伸ばしていた手を誰かに掴まれる。神谷真斗の方に向いていた意識が引き戻され、掴まれた腕の先にいる人物を捉えた。
「……安藤くん」
彼に会うのも一ヶ月ぶりだった。図書館で会話を交わしたとき、彼は恋人の真奈から他の女の子と話すのを止められていると言っていた。それなのになぜ今、彼は自分から私に声をかけてきたんだろうか。しかも手を触れるなんて、大丈夫なの?
「なんや変なことしようと思うとらん?」
「私はべつに。親友を救おうとしてるだけで」
「親友って、三輪さんのこと?」
「そう」
私の主張を聞いた彼は神谷真斗とナナコの方へと視線を向けた。私が何を言おうとしているのか悟ったのか、「なるほど」と呟いてメガネをクイッと上に持ち上げる。
「あの男の子、もしかして三輪さんの彼氏?」
「うん」
「てことは……」
京大生は得てして頭の回転が速い。状況を読み取る能力も長けていることがほとんどだ。
「もしかして浮気?」
「そうみたい」
「なるほど……」
友人の彼氏の浮気現場を目撃してしまった場合、とるべき行動は次のうちどれか。
一、浮気者は誰じゃあああと殴り込みに行く
二、見なかったことにする
三、今すぐ友人に連絡をして、おたくの彼氏、浮気してまっせと告げ口する
四、逃げる
怒りが沸沸と煮えたぎっている今の自分の精神じゃ、どの選択肢をとってもおかしくない。気持ちとしては今すぐ彼を詰りたいし、つばきに連絡したい。でも、クリスマスデートを楽しみにしているつばきが傷つくところを見たくない。見なかったことにして逃げるのもアリだが、心にモヤモヤが残ることになるだろう。
う〜ん。
私が頭を押さえて考え込んでいると、真面目系男子安藤くんは「どないするつもり」と私に問うた。そんなこと、私が聞きたい。君ならこの状況、どうするの?
「少なくとも今すぐ僕たちが出ていくのは得策じゃないと思わへん?」
「そ、そうだね」
私の頭の中のコマンドが見えているかのような口ぶりで、彼は腕を組み私の目を見つめた。罪人を裁く裁判官のような目だ。
「それとあっちの女の子、なんか見たことがあるような気がするんだよなー……」
「ナナコって呼ばれてる人?」
「ナナコ……ああ、そうや。確か一回生の時、学が僕と仲良くなる前にぱんきょーで一緒の授業を受けていたって言うてた女の子
だ! 写真を見たことがあるから彼女で間違いない。結構仲良くなったらしいけど、なんでか突然交流を辞めたって聞いたな。何かあったんとちゃう?」
「それじゃあ、御手洗くんにナナコのこと知ってるか聞くの? でもそれって何か意味ある?」
「ふふ、僕にいい考えがある!」
悪魔のような笑みを浮かべた安藤くんは、神谷真斗とナナコの方をキリっとした目で睨み付けて高らかに笑う。
彼らと安藤くんの間を、数人の学生たちが横切る。午後イチの授業が終わったらしく、周りを見回すと校舎からごちゃごちゃと学生が出てくるところだった。
たまたま安藤くんと目が合った女の子が、「ひっ」と小さく悲鳴を上げる。ナナコたちを蛇の目で睨んでいる安藤くんに恐怖したのだろう。
「西條さん、今すぐ彼らに制裁を加えるのはちょっと待ってくれへん?」
「う、うん。でも何? いい考えって」
「それは後で教えるわ。今から学の家に行くで」
「え、今から?」
「そうや。善は急げや!」
なんだかとっても楽しそうな安藤くんが、私に右手を差し出す。いつか自転車で転倒した時のことを思い出す。あの時も彼は私に手を差し伸べてくれた。私はそっと、彼の手を握る。
「って、うひゃ!」
喉の奥の方からおかしな声を上げる彼に驚いて、私は慌てて握った手をさっと引いた。どうやら自ら手を差し出したくせに、実際に手を握られてびっくりしたらしい。
「ごめんなさい」
「い、いや僕の方こそごめんやで。馴れ馴れしく手なんか出して……」