言ったあとで、「また」があるのかどうか分からないやと思い至る。いや、十中八九彼とはもうこれっきりだろう。四回生にもなって新しい交友関係を広げようとも思わないし。

 彼は私に背を向けて、後方へと歩いて行った。その姿はまるでさすらい者のようだ。四回生になってから、「こんな人もいたんだな」と思うことが増えた。大学生になったばかりの頃は、自分とは違う地域から京都にやって来た人たちに溢れる大学が新鮮で、常に新しい刺激を浴びていた。新しい友達、新しい土地、新しい生活。その分不安も大きくて、一人でも多く友達をつくりたくて周囲の人に必死に話しかけていたっけ。その頃は周りの人も同じように友達づくりに夢中だったから、浮くこともなかった。それが今では大学構内で一人で物思いにふけっているなんて。

「やっぱり一人は寂しい……」

 こんなところで独りごちたところで、余計に虚しくなる。大学では華の女子大生を満喫するオシャレ女子たちや初めて髪の毛を染めて浮かれている男の子たちが華やいでいるというのに。
 私は何の気なしにポケットからスマホを取り出して最近使っていたマッチングアプリを開いた。もう癖で無意識にそうしてしまう自分がいてげんなりする。しかし、アプリを開けば女に飢えた虎たちが溢れるほどいて、心が慰められた。
 様々な男性の顔をフリックしていく中でふと、とある男性のプロフィールに目が止まった。

『上っ面だけのやり取りは苦手です。真面目に恋愛できる人を探しています。』

「この人……」

 ツンツンの黒髪に黒いジャケットを羽織った男の子。年齢は二十四歳と書かれている。外見はまあまあ格好良い方で、首元にうっすらとあざがあるのが特徴的だった。

 どうしてこの人のプロフィールに目が留まったのか。それは、「上っ面だけのやり取りは苦手です」という言葉が、やけに胸にずっしりと響いたからだ。そうだ、私も。表面的な言葉で適当に会話をするのが苦手だ。生産性がないのにダラダラと続ける異性とのメッセージのやりとりも、京大女子だと分かった途端、一歩引いた視線を送ってくる人との会話も。

 私だって、真面目に恋がしたいだけなのに。
 YouTuberだった頃の私は、目の前のことに一生懸命で、素敵な恋だってすぐにできると思っていた。それがいま、誰かのプロフィールに書かれた言葉に、こんなにも感傷的な気分にさせられているなんて。

 キラキラ輝いていた私はもう存在しない。
 だって、私は——。

「あの人、カナカナちゃんねるの人じゃない!?」

「うわ、本当だー! 京大生って本当なんだ」

「ね、写真撮ってもらお〜」

 後ろから高い声が聞こえて私ははっと振り返った。紺色のブレザーを着た高校生たちが私のもとに駆け寄ってくる。京大には大学見学に来る中高生が珍しくない。この子たちもきっと見学に来たんだ。
 彼女たちは私という目標に向かって一直線に走ってきた。まずい、このままでは一緒に写真を撮る羽目になってしまう。いやそれ以上に、チャンネルを辞めた私が、本当の私が根暗女子だと知ったら幻滅させてしまう。
 いろんなことが一度に頭の中でぐるぐる浮かんだ。咄嗟の出来事に心が下した決断は、「今すぐこの場から逃げろ」だった。

「ご、ごめんなさいっ」

 なぜ謝らなくてはならないのかも分からないまま、私は彼女たちの脇をすり抜けて、正門とは反対側の構内で入り口まで走った。

「待ってください!」

 女子高生たちは持ち前の体力を活かして追いかけてくる。こちらが嫌がっていると知ってもなお、目的を達成しようとする心意気に若さを感じる。と、感心してる場合ではない。このままでは追いつかれる——。
 絶体絶命かと思われたとき、構内に捨て置かれていた自転車に、鍵がついているものがあるのを発見した。周囲を見回して人が見ていないことを確認すると自転車にさっと跨る。いくら捨てられた自転車とはいえ、他人の自転車を勝手に使うのにはいささか気が引けた。しかし、そもそも大学に自転車を捨てる人も良くない! と自分に言い聞かせ、なんとなく罪悪感は相殺される。

「あ」

 自転車で颯爽と走り去る私の後ろ姿を見て、さすがの女子高生たちも諦めたようだ。後ろを振り返ると、「あーあ」と肩を落としている姿が目に入る。少し申し訳ないと感じるものの、捕まらなくて良かったという安堵がどっと押し寄せてきた。
 安心して全身の力が抜けていく。構内出口から百万遍と呼ばれる交差点に出る。交差点の四隅に鎮座した串カツ屋さんやコンビニ、薬局は京大生の御用達の店ばかりだ。道路自体広く、人通りも車通りも多い。
 拾った自転車に乗ったまま、自宅まで帰ろうと信号を渡ろうとしたときだった。

「危ないっ」

 誰かが叫ぶ声が聞こえて、「え?」と声の方を見る。視界の隅に、バイクに乗った男性が現れ私の目の前を横切った。
 あまりに突然のことだったので、うまくハンドルを切ることができずにその場でガシャンと倒れ込む。身体のどこか分からないが、嫌な衝撃が突き抜けた。

「大丈夫!?」

 聞き覚えのある声が頭上から降ってきた。身体が重くいうことを聞かないので、頭を声の方に向けることもできない。次第に身体の感覚が戻ってきて、ようやくその人が誰なのか確認することができた。

「さっきの……」

「喋らんでええ。自転車どけるからちょっと待ってや」

 クスノキ前で眠りこける私に話しかけてきた例の男の子が、私の身体の上に覆いかぶさっている自転車を起こしてくれた。そうか、この自転車のせいでなんだか身体が重たく感じたのだ。それにしても、予想よりもずいぶんと早く再会の時が訪れてしまった。かなり恥ずかしい再会だ……。
 自転車の重みから解放されると、思ったよりも怪我が重症じゃないことに気づいてほっとした。手首や膝など地面に打ち付けた部分に擦り傷ができている程度だ。頭を打たなくて良かった。

「ありがとうございます」

「いやー、びっくりした! 心臓止まるかと思ったわ」

「すみません……」

「謝ることやないけど。悪いのはバイクの方やし。でもちゃんと周りは確認せなあかんで」

「急いでいたのでつい」

「何でそんなに急いでたん? 見たところボロボロやし、自分のじゃないんやろ?」

「はい、大学に捨ててあった自転車をかっさらっちゃいました。高校生に追いかけられて」

「高校生? 何でまた」

 私は、おそらく私が元人気YouTuberだと知らない彼に正体を伝えるべきか迷った。今現在活動をしているわけではないし、わざわざ自慢げに言うことでもないな。

「うーん、なんか、大学進学に向けてインタビューをしたかったらしくて」

「そうなん? それぐらいやったら答えたればええやん」

「いや、私そういうの苦手で。『これだけ勉強頑張ったから試験に受かりましたー』みたいな話をするの、吐き気がする」

「ほー……。なるほど、そういう人もおるわな」

 咄嗟に考えた作り話を、彼は信じてくれたらしい。実際、一回生の時に高校生にインタビューをされた経験があったから、あながち嘘でもない。

「まあとにかく、自転車に乗る時は要注意やな」

「気をつけます」

 それに関してはぐうの音も出ない。もう少しで大惨事になっていたかと思うと身震いした。

「そういえば、名前聞いてへんかったな」

「私も聞いてないです」

「あれ、そうやっけ? 僕は安藤恭太」

「西條奏といいます。文学部の四回生です」

「四回生やったんか。じゃあ同級生やね」

「はい。よろしくお願いします」

 卒業を控えた四回生の秋に、同じ四回生と「よろしく」することがあるなんて思ってもみなかった。

「じゃあ、私はこれで——」

「いやいや待って。その怪我、何とかした方がええよ」

「え、でもこれくらい自分で手当てしますよ」

「まあまあそう言わずに。良かったら一緒にこーへん?」

「行くってどこに?」

「僕の友達の家。ここから近いし、たぶんお茶ぐらい出してくれると思うよ」

「でも悪いし」

「ええやん。傷だらけの女の子を一人放っておくわけにはいかへんよ」

「はあ」

 安藤恭太は私の方へ手を差し出してきた。さすがにその手を握るのは憚られたので、大人しく彼に従うことにする。いろんなことが一度に起こりすぎて、断る理由を考えるのが億劫だった。それに野生の勘だけど、この人は悪い人じゃない気がする。
 クスノキ前でぼうっとしていた時には考えられなかった急展開。身体がくたくたで、確かに彼の言う通りこのまま一人で家に帰っても動けそうにないと感じた。