3月。
 暦の上では春だというのに、まだ寒さの残る冷たい風が時折体を滑るように吹き抜けていた。
 校庭では、制服の左胸にコサージュを付けた卒業生が、桜の木の下で写真を撮ったり涙したりと最後の別れを惜しんでいる。
 私は、それを教室のバルコニーからぼんやりと眺めていた。

 私の左胸に、コサージュはない。
 式が終わった後、在校生は担任が戻るまで教室で待機を言い渡されていた。

「先輩たち、卒業しちゃうんだねー」

 隣にいた他クラスの女子がしんみりと言う。みんなやることがなくて、涙する卒業生を物見遊山に来たのだろう、いつの間にかバルコニーは2年生で溢れていた。

「だねー、今度はあたしらが3年生になるんだよ、早くない?」
「やばみー」
「うっわ、あの人だかりすご」
「あれは立花先輩でしょ。見なくてもわかるわ」
「えぐいね。…って、葛城さんいるじゃん。立花先輩と写真撮らなくて良かったの?」

 隣で喋ってたグループの一人が私に気づいて話しかけてきた。1年の時に同クラだった子だ。確か名前は浅川さん。

「あーうん、まぁ」
「えー、桜の木の下で撮れば良かったのにぃ。思い出になるじゃん」
「ちょっと真美、大きなお世話。葛城さんは別にこれからだって会えるからいいんだよ」

 どっちも大きなお世話だよ。
 人のことは放っておいて欲しい。

「別れたんだ、私たち」

 相手にするのも面倒くさくなった私は、それだけ言ってその場を離れた。

「えっ!」
「うっそ、知らなかった」
「なんで?てか、いつ?」
「えっ、じゃぁ立花先輩今フリーなの?」

 周りで聞いていた女子たちの騒ぐ声から逃げるように、教室へと戻る。

 本当は、まだ見ていたかった。
 伊織先輩の姿を。
 最後に、この目に焼き付けておきたかった。
 友達と楽しそうに笑ってるしあわせそうな彼の姿を。

『もう、一緒にいられない』

 そう別れを告げた時の、伊織先輩の顔がまぶたに焼き付いて、私を離してくれない。





「俺たち付き合うことにしたから」

 高1の秋。
 私がバイトするコンビニのレジ前に現れた彼氏の知樹が言った。
 隣に他クラスの女子を連れて。
 その彼女は、知樹と手をつないだまま「葛城さん、ごめんね」と、言葉とは似ても似つかない顔で言ったのだった。

「え…」

 どうして?
 だって、付き合ってるのは、私たちだよね?

「お前さ、顔は可愛いから付き合い始めたけど、はっきり言って何考えてんのかわかんねぇや。今だってお前全然普通じゃん」

 普通って、なに?
 全然普通じゃないよ。

 そう言い返そうとして、やめた。
 なんだか、ばかばかしくなってしまった。

 でも、他になんて返せば良いのか言葉が見つからなくて、顔を逸らしたとき、

「ちょうどよかった」

 と、後ろから声がして、振り向く。
 同じバイトの同じ高校の一つ上の立花先輩が、揚げたてのお惣菜をレジ横のケースにしまいながらこちらを見て言った。

「俺、葛城と付き合いたいと思ってたところだったから」
「へ?」

 素っ頓狂な声が出てしまった私を、立花先輩はその綺麗な顔でにっこりと笑った。

「えーっと、何くんか知らないけど、葛城と別れたなら俺がもらうわ、構わないよな?」

 そう先輩に言われて、知樹も隣の女子も開いた口がふさがらないようだった。ストレートパンチを繰り出したところに、斜め上からカウンターパンチを顔面にくらったようなもの。
 突然なにを言い出すのか、この人は。

「じゃ、そう言うことで、仕事の邪魔だから帰ってくれる?ーーー元カレさん」

 知樹の無言を肯定と取ったのか、先輩は笑顔のまま出口を指さす。

「…やっぱりお前、俺のことなんか好きじゃなかったんだな」

 知樹は、最後にそれだけ言うと背を向けてコンビニから出ていった。
 捨て台詞のように吐かれた知樹の言葉が、私の心に重くのしかかる。
 彼のことは、私なりに大切に思っていたのに伝わっていなかったのかと思うと悲しかった。けど、それと同時に「やっぱり」という想いが胸を締め付けた。

「お騒がせして、すみませんでした…、それと、助けてくれてありがとうございました」
「ねぇ、ホントに付き合わない?俺たち」
「…えっ?」

 いやいやいや、天下の立花伊織となんて畏れ多くて付き合えるわけないじゃん!
 さっきから何を言ってるの、この人。
 振られた女を捕まえるほど困らないでしょうに。
 このバイトの面接の時にですら、オーナーに『彼氏はいるの?』と聞かれた。なんでそんなこと答えなきゃいけないのか、と少し不快に思い黙り込む私にオーナーは『あ、ごめん、いや実はさ、立花くん目当てで来る子が多くて困ってるんだよね。別に葛城さんのことを疑ってるわけじゃないんだけど…、これまで何人ももめて辞めてってさ…』と心底困っている様子だったほどだ。
 それくらい、立花先輩はモテるのだから。

「いや、俺も実はこの間振られたばっかでさぁ、寂しいんだよね」
「立花先輩が振られるとか、想像できないんですけど」

 甘いルックスを持つ彼はその人当たりの良さも相まって学校のアイドルと化していた。
 うちの学校の生徒で、立花伊織を知らない人なんていないんじゃないだろうか。
 彼が歩けば女子の悲鳴が飛び交うのだ。

 そんな先輩を振る人がいるならぜひともお目にかかりたいものだ。

「まぁ、色々あるんだよ。で、どう葛城、俺こう見えて彼女には尽くすタイプだよ」

 レジのカウンターに片手をついて、覗き込む甘いフェイス。見つめられて胸がドクンと鳴る。

「で、でも…」
「でも、なに?」
「私…、好きっていう気持ちが…よく…」
「わからない?」
「…はい」

 さっき知樹に言われて、私は何も言い返せなかった。中学の時も付き合った相手から同じようなことを言われて振られてしまったこともある。
 もともと喜怒哀楽があまり表に出るほうではなく、親からももう少し愛想よくしたら、と言われている。
 そのせいもあってか、相手に私の気持ちが伝わらないかもしれない。

 誰かを好きになるって、どういうことなんだろう。
 どうしたら、好きになるんだろう。

 と、漠然とした疑問が頭に浮かぶだけで、結局また同じことを繰り返してしまった。

 振られたばかりで頭の整理が追いつかないでいる私を、まじまじと見る先輩は相変わらずかっこいい。
 一緒に働いたこの数か月、先輩にときめいたことは星の数ほど。
 けれど、学校で疲れた後の立花先輩の笑顔が自分にむけられるだけで、目の保養だしお腹いっぱい。見ているだけで満足だった。
 そう、それはきっと、今流行ってる「推し」への気持ちと似ているかもしれない。
 だって、思わず両手を合わせて拝んでしまいそうになるから。

 だから、そんな尊い立花先輩から付き合おうなんて言われて、混乱しないはずがない。
 先輩は、そんな私を知ってか知らずか、ふっと笑ってカウンターに腰をもたれさせた。
 幸いにも、お客さんは一人も居なくて、店内にはおなじみのテーマソングが流れているだけだ。

「奇遇だね、実は俺もなんだ」
「え」

 驚く私に彼は言った。

「俺も、ちゃんと誰かを好きになったこと、ないんだよ」



・・
・・・…


 あの時、伊織先輩は笑っていた。
 でも、その笑顔の奥に不安気に揺れる何かを見た気がした私は、「付き合ってみようよ」と言う彼の提案を受け入れたのだった。

 それからというもの、登下校も極力一緒、お昼も一緒、すれ違えば立ち話、バイト先も同じと、学校でも外でも関係を隠さなかった私たちはもはや公認となり、私は「あの立花伊織の彼女」という肩書を得ることになる。

 正直興味本位で付き合い始めた私たちだったけれど、伊織先輩との付き合いは、私の想像を超えてとても楽しくて心地よいものとなり、順調に時を重ねていき、気づけば学年が変わっていた。

 あまりに順調過ぎて、私たちはお互いにお互いの気持ちを確かめることなく、「好き」という言葉なしでここまで来てしまった。

 そして、私はいつからか、そのことに耐えられなくなってしまったのだ。

 少しずつ少しずつ、時間をかけて積もった雪のように、私の伊織先輩への想いはどんどん募り、気づけばそこに埋もれるように身をゆだねていた。
 今さら、先輩の気持ちを確かめる勇気なんて私にはなくて。
 受験シーズンへと突入した先輩との間にできた溝は少しずつ少しずつ、けれど確実に広がっていった。

 受験勉強に専念して欲しいと言ったのは、私なのに。既読がついてもなかなか返ってこない返事に不安になる。そして、自分で決めたことすら貫けない情けない自分でさえ許せなくて苦しかった。

 それと同時に、大学生活へと想いを馳せる伊織先輩のその未来(あす)に私の存在はきっと邪魔になる、と思うようになっていた。

 あの時、人を好きになったことがないと言った彼。

ーーー今は?…今でも、それは変わらない?

 先輩の答えが怖くて、聞けない。
 もし、これまでの先輩との日々を否定されたら、私はきっと立ち直れない。

 だから、いつの間にか慣れてしまった二人を変えることも、未来に目を輝かせる先輩と向き合うことも、私には出来そうになかった。

 通知を知らせるバイブレーション。

『桜、綺麗だよ』

 制服のポケットから取り出したスマホの待ち受け画面には、伊織先輩の名前とメッセージ。開けば校庭の桜の木の写真が送られてきた。
 別れを告げてからも、メッセージのやり取りが続いていた。どうしても、無視もブロックもできずに断ち切れない関係。少しでもつながっていたいと心の奥底で願う自分がそうさせていた。

『ご卒業おめでとうございます』

 短く返せばすぐに既読になり、私が画面を閉じる前に返信がきた。

『ありがとう。紗江と一緒に見たかった』

 別れてから早くなる返信に、昔の先輩を思い出して胸が痛い。

 先輩の言葉から逃げるようにアプリを閉じて、あの日の、幸せしか知らなかった私たちを断ち切るようにスマホをポケットにしまった。
 先輩とのあの日を全部ポケットにしまってしまおう。
 そして、幸せだった日々は夢の中でもう一度。

 もう、先輩とは、会えない。
 もう、傷つきたくない。
 もう、涙を流したくないから。

 だから、

『もう、一緒にいられない』

 と告げた別れの言葉。

 先輩のこと、嫌いになんてなってない。
 それどころか、好きという気持ちは膨らむ一方なんだよ。
 先輩への想いだけじゃ、我慢できなくなった私が悪いの。

 臆病な私をゆるして、伊織先輩。

 ごめんね、わがままで。
 私に「好き」という気持ちを教えてくれて、ありがとう。

 ばいばい、私の好きな人。


****


 葛城だけだった。
 俺のこと見てきゃーきゃー言わないのは。
 好きでこんな顔で生まれてきたわけじゃないのに、行く先々でジロジロと見られるのがたまらなく不快だった。
 高1の終わりから始めたバイト先に俺より後に入ってきたのが同じ高校で一つ下の葛城紗江(かつらぎさえ)。始めはめんどくさいことにならなきゃいいけど、なんて警戒したけど俺の単なる自意識過剰で終わる。
 彼氏がいるとはオーナーから聞いていたけど、本当に俺に興味がないようで真面目に仕事をたんたんとこなすその姿には関心すら覚えたほど。
 一緒に仕事をして、話していくうちに葛城は感情表現があまり得意じゃないことに気づいた。客にも最低限の愛想をやっとこさという感じだった葛城だけど、数か月経つ頃には俺は葛城の感情の起伏を捉えることが出来るようになっていて、それを観察するのがバイト中の密かな楽しみと化していた。

「葛城、はじっこぐらし好きだろ?」

 客のピークが過ぎてひと段落していた頃、俺は葛城に話しかける。というか、葛城から俺に話しかけてくることは、質問や業務連絡以外まずない。
 だから、客が居なくて二人手持無沙汰の時なんかは俺が話さなければ沈黙がずっと続く。そんな沈黙も、葛城となら苦じゃないから不思議だ。

 俺に急に話を振られて「え」とこちらを振り返る葛城。その表情は普段とほとんど変わらないけど、『なんで知ってんの』といった顔。

「だって、はじっこぐらしの商品並べてるときしあわせそう」
「うそ…、私そんなに顔に出てましたか」

 顔をさする葛城にたまらず吹き出す。

「いや、多分俺にしかわからないんじゃない」
「…それどういう意味ですか」
「そのまんまの意味」

 余計わからないって顔で、今度は黙り込んだ葛城に「はい、これあげる」と、制服のポケットに潜ませておいたはじっこぐらしの食玩の小箱を差し出した。

「これ…」
「この前のシリーズの売れ残り。割引シール貼る時に見つけて買っておいたんだ」
「あ、お金、払います」
「いらないって。俺が勝手に買ったやつだし。もらってよ」
「あ、ありがとうございます」

 やっと受け取った葛城。ほんの少し嬉しそうに微笑んだ葛城の横顔に手が伸びそうになって、ぐっと抑えた。
 いつからか、葛城に触れたいと思っている自分の存在に気づいた。
 こんな外見だから、極力女子に自分から近づいたり触ったりすることは避けていたし別に触れたいと思ったこともなかった俺だけど、葛城だけはふとした時に触れたいと思うようになっていた。
 そんな時だった。

「俺たち付き合うことにしたから」

 バイト中に突然現れた葛城の彼氏と思われる男子高校生。その隣には腕を絡めて醜く笑う女子。
 どうやら、他に彼女を作ったから別れようと言うことらしい。
 そいつは、突然のことにショックを受ける葛城にたたみかけるように言った。

「お前さ、顔は可愛いから付き合い始めたけど、はっきり言って何考えてんのかわかんねぇや。今だって全然普通じゃん」

 お前、バカじゃねぇの。
 全然平気なんかじゃねぇよ、葛城は。心底傷ついた顔してるじゃんか。そんなこともわかんないのかよ。

 そう罵ってやりたいのと、泣きそうな葛城を抱きしめたいのをぐっと堪えながら、俺はそいつを追い払って、気づけば葛城に交際を申し込んでいた。

 振られたというのも嘘。
 寂しい振りをして、君につけこむため。

 誰かを好きになったことがないっていうのも、嘘。
 自分だけが、と君に負い目を感じさせないため。 

 俺は確かにこの時気づいていたんだ。
 葛城へのこの想いが「好き」というものだ、と。



 付き合い始めの頃こそ先輩後輩でバイト仲間という感じが抜けきらなくてよそよそしかったけど、少しずつ彼氏彼女という関係に慣れてきた。呼び方も立花先輩から伊織先輩になり、俺も紗江と名前で呼ぶようになり、俺たちは出来る限りの時間を二人で過ごしていた。

 だけど、学年が変わって受験モードに突入してから、俺たちの関係に変化が訪れる。バイトも辞めて塾に通いだしたことで、紗江との時間がほぼ学校だけとなってしまったのだ。休みの日で塾のない日に会おうと言っても、『受験勉強を優先して欲しい』と紗江はバイトを頻繁に入れていたためなかなか会えない。

 俺は紗江が気を使うのは性格上仕方のないことだとわかっていたから、途中からはもう腹を括って受験を優先させた。
 さらに秋を過ぎた頃から、3年生の登校日も減り、ますます二人の時間が減っていったけれど、今はきっと我慢の時なんだ、と言い聞かせて受験に集中した。
 一発で合格して、さっさと受験を終わらせよう、と。そうするのが紗江との時間を増やす最短の道だと。

ーーーなのに、

「もう、一緒にいられない」

 第一志望の大学の合格発表の日、紗江は俺にそう言ったのだった。まるで俺が合格するのを待っていたかのように。
 コンビニのバイト終わりを狙って会いに行って、紗江を家に送ろうと手をつないで歩いていたときだ。
 さっき、俺の顔を見て合格おめでとうと言ってくれたのに。
 思わず立ち止まり、紗江を見た。驚いた俺と目が合った次の瞬間には、逸らされる視線。俯いた紗江を覗き込もうとすれば、一歩下がって距離を取られる。ただでさえ暗い夜道、紗江の顔が全然見えない。

「は?なに…それ、どういう意味」
「…ごめんなさい…」

 謝られたって、わけわかんないんだよ。

「俺と別れる、ってこと…?」

 口にすら出したくない言葉に、紗江はこくりと頷いた。

「うそだろ…」

 まさか、別れを告げられるなんて、想像もしていなかった俺は、目の前が真っ白になる。軽い立ち眩みに視界がぐわんとゆがむ。

「え…な、なんで?俺、何かした…?もしかして、他に好きなやつでもできた?」

 寂しい思いをさせていたのは事実だから。

「違う…伊織先輩は何もしてないし、そんな人もいない」
「じゃぁ、なんで…っ」
「ごめんなさい…」
「ごめんなさいじゃわかんないって!」

 俺の声にびくっと肩を震わせる紗江を見てハッとした俺は慌てて「ごめん」と謝る。違う、紗江を責めてるんじゃない。こうなってしまったことに、苛立ちを覚えていた。なんで、こうなるまで気づけなかったんだ俺は、と。受験だからと、紗江も理解してくれていると高を括っていた自分を責めた。

「…終わりに…しよ…。…もう、無理なの。…耐えられないの…」

 決定打を打たれた気分だった。

「無理って、耐えられないって、なに。…俺のこと嫌いになった?」
「違う…そうじゃない」
「じゃぁなんで…」

 首を横に振り、もう無理だと拒絶する紗江の姿を目の当たりにして、それ以上言葉が出なかった。言いたい事はいっぱいあるのに、聞く勇気がなく沈黙が二人を包み込む。

 沈黙を破ったのは、紗江。
 紗江は「もう、ここで大丈夫だから」とつないでいた俺の手を解くと踵を返して俺に背を向ける。

「紗江!」

 黒い制服姿の紗江が、闇に溶けるように遠ざかる中、呼び止める俺の声もむなしく夜の空に吸い込まれていった。





「…終わりに…しよ…。…もう、無理なの。…耐えられないの…」

 私の口から放たれた終わりを告げる言葉に、伊織先輩はそれ以上何も言わなかった。

 つながれたままだった手をもう片方の手で解く。先輩の手は力なく元の場所に戻る。

 それが、先輩の答えだと理解した途端、胸が締め付けられ、激しい痛みに襲われる。

 これで、良かったんだ。
 そう、もともとなんとなくで付き合い始めた私たちだから。
 優しい伊織先輩は、目の前でこっぴどく振られた私をただ放っておけなかっただけ。
 先輩もたまたま彼女に振られたばかりで寂しかっただけ。

 そこに、「好き」という気持ちなんかなかった。
 バイトも辞めて、高校も卒業するこのタイミングならお互い気まずくならないでしょ。

 もう、充分、しあわせをもらったから。
 先輩の未来に、私なんか必要ないから。
 私なんかよりもっと先輩にふさわしい相手がいるから。
 次に誰かと付き合う時は、私みたいな我慢ばっかりため込んで一人思い詰めちゃうような人にしないで。先輩とちゃんと向き合える人にして。

 そんな願いを一人胸に込めて、踵を返す。

「紗江!」

 暗闇を切り裂くような伊織先輩の声を背中に受けながら、私は涙でぐちゃぐちゃの顔を拭うこともせずにその場から逃げた。



・・
・・・…


 3年生になりバイトも辞めて塾に通い始めた私は、伊織先輩が歩んだ道をなぞるようにして受験生としての時を過ごしていた。気が付けば夏休みが終わり季節は秋へ色を変えていた。

 伊織先輩は、一人暮らしを始めて新しいバイト先も見つけ、登山サークルに入ったらしい。あれからも途切れることのないメッセージ。時折送られてくる山頂からの絶景の写真に映る先輩の顔からは、大学生活の充実ぶりが伺えた。

 勉強机には、伊織先輩からもらったはじっこぐらしのマスコット達が見守るように鎮座していた。一番最初にくれたのは、まだ付き合っていない時。あの時、突然はじっこぐらしが好きなことを言い当てられて心底驚いたのを、今でもよく覚えている。

『いや、多分俺にしかわからないんじゃない』

 あの時には理解できなかった伊織先輩の言葉も先輩との時を重ねるうちにわかった。感情を表現するのが苦手な私の微妙な変化も見逃さないでいてくれたんだ、伊織先輩は。
 他人の感情を全てわかって推し量るのは難しいけれど、先輩は私をちゃんと見ていてくれた。

 なのに、私は先輩の手を離してしまった。

 最後まで、言えなかった「好き」という言葉が、私の胸の奥につっかえて今も居座ったまま。
 私の心は、どこにも行けない鳥かごの中。
 わかってる、確かめる勇気がなくて自ら鳥かごに閉じこもっているのは、私。
 言えなかった後悔が、私をここに縛り付けていることも。

 わかってる、わかってる、けれど…ーーー

 ーーーブー、ブー…

 メッセージの受信を知らせるスマホ。

『受験勉強おつかれ。今、バイトしてたコンビニに居るんだけど、少し会えないかな。気分転換にでも』

 待ち受けに表示されたメッセージに、心臓がドクンと跳ねる。
 別れてから半年以上経ったけど、ずっとメッセージだけのやり取りのみで会ったことは一度もない私たち。

 今さら…、今さら会って何を話せばいいの?
 先輩は、どういうつもりで会おうとしているの?

 疑問や不安が、次から次へと浮かんできたけれど、それよりも私の心が叫んでいた。

 会いたい。
 先輩に、会いたい。

 胸の奥、つっかえたままの思いが私を突き動かす。
 メッセージも開かずに、私はお財布とスマホだけを手に取り駆けだした。



「久しぶり、紗江」

 コンビニまでの道のり、決めた心。
 先輩に、好きを伝えよう。
 言えなかった言葉を、聞けなかった答えを全部。
 でも、ちゃんと言えるだろうか、伝わるだろうか。
 不安で押しつぶされそうだったのに、伊織先輩の顔を見たらそんなのどっかに吹っ飛んだ。

「来てくれるとは、思わなかった。ダメもとで言ってみるもんだね」

 半年ぶりの先輩は、髪を少し茶色に染めてすこし大人びていたけれど、それ以外は何も変わらない。

「受験勉強は、順調?」

 全然、順調じゃない。
 頭に浮かぶのは、先輩のことばかり。
 待ちわびているのは、先輩からのメッセージ。

「紗江…」
「あ…ごめんなさい…」

 涙で先輩が滲む。
 その視界の中、先輩の手がこちらに伸びかけて、そして止まる。行く先を失った手は元に戻された。
 あぁ、もう触れてもらえないんだ、と悲しくなって余計涙があふれてきた。

「ごめん、突然呼び出して」
「ちが…、伊織先輩は、悪くない」

 悪いのは、私。
 確かめる勇気がなくて自分から手放したくせに、忘れられない情けない自分。

「俺、ずっと紗江に嘘ついてた」
「嘘…?」
「うん、紗江に付き合ってって言った時、振られたって言ったけど、振ったのは俺。それと、ちゃんと誰かを好きになったことないって言ったけど、あれも嘘」
「え…ちょっと待って…」

 どういうこと…?
 考える間もなく、先輩はつづけた。

「あの時にはもう、ちゃんと好きになってたんだ、紗江のこと」

 目の前で、先輩はとても綺麗に笑った。コンビニの明かりがバックライトのように先輩を照らしてキラキラと眩しい。

「それだけ、言いたかった。…今日は来てくれてありがとうな」

 先輩の口から紡ぎだされた『好き』という言葉が、ふわふわと意味を伴って浸透していく。

 ずっと、確かめたかったこと。
 怖くて聞けなかったこと。

 私が、心の底から求めていた言葉。

 ちゃんと、確かめなくては。
 自分の言葉で、聞かなくては。

「…今は?」
「え?ごめん、聞こえなかった、もう一回言って」
「今は?…今でも、その気持ちは…変わらない?」


 恐る恐る、けれどはっきりと聞いた私は、気づいた時には先輩の腕の中に閉じ込められていた。




 



「あの日言えなかった言葉はいつかの君に届くだろうか」

【完】