もう、ここの屋敷の者達は、皆寝静まったかしら。
私はぼんやりとした目つきで、窓から差し込む月を眺めながら耳をすませる。耳から聞こえる音は爽やかな風に揺れる、庭の木々の音。りぃんりぃんと心を和ませる様に鳴き、美しい調べを届けてくれている秋の虫達の声。
聞こえるのは、美しい自然の音だけ。人間の声は聞こえないわね。
私はよしと小さく頷いてから、巾着袋に仕舞い込んでいた笛を取り出し、開いている押し入れの中によいしょと入り込む。体を縮込ませながら、薄暗い押し入れの中をもぞもぞと動き、扉を正面にする様に向きを変えた。その時、服や裸足にざらざらと荒れた木のささくれが刺さり、チクチクとした小さな痛みを感じる。けれど、それに構わず私は奥の方に背を付けて、膝を抱え込むようにして体勢を整えた。
そして月明かりが少しだけ差し込む様に、ほんの僅かな隙間を空けて扉を閉じ、いつもの様に口元に笛を添える。
ふうと息を吐いてから、ゆっくりと息を笛の中に送り込んだ。ぴぃと小さくも美しい音が鳴ると、私は滑らかに指を滑らせていく。
曲目はいつも決まって、影姫だ。小さく奏でられる影姫は、本当に惨めな曲に感じる。昔は自分が一から考えて作った曲で、悲しみの中に思いを込められたと気に入っていたのに。今はそんな思いも感じず、暗然として、余計に自分を惨めにさせる曲だと思っている。
そんな風に思っていても。決まって影姫を吹いてしまうのは、きっと誰かに・・・。
目に熱い物が一気にせり上がってくると、縁に溜まり込み、視界がゆらゆらと歪んだ。吐き出している息も小さく揺れてしまい、音もふるふるっと揺れ動く。
その時だった。
差し込む月明かりに影が差しかかり、押し入れの中が完璧な暗闇に変わる。暗くて見えないかもと思うが、体は覚えているものでそのまま滑らかに指は動いてくれた。
月ですらも、私に影に溶け込めって言っているのね。ううん、違うわ。月も分かっているのよね、私なんか存在する価値に値しないって。そうなのよ、私は影に溶け込めば良い存在なのよ。
じわじわと歪んだ視界を細め、自嘲気味な笑みを浮かべながら笛を吹いていると。
突然、音も無く押し入れの扉が勝手に開いた。滑らかに笛の上を動いていた指がピタリと止まったばかりか、ヒュッと涙が引っ込み、歪んでいた視界が一気に明朗になる。
そして明朗になった視界に映る、黒を基調とした異国の服。ちらと視線を上げて見ると、そこには眉目秀麗と言う言葉すらも、軽々と凌駕する程の顔立ちをした人が立っていた。月光を背負い立つ姿には、神々しい後光を纏っている様だと感じてしまう。
そんな神々しい彼は、切れ長の瞳で私を見下ろした。あまりにも綺麗で、鋭い目に射抜かれ、私はヒュッと息を飲み、慌てて俯いた。
だ、誰?この殿方は、誰?ど、どうして私の部屋に居るの?は、入ってくる音なんて聞こえなかったのに。ど、どうして居るの?纏う衣が異国の物だし。た、確か、海を渡った明国?と言う所の物よね。小十郎様が昔くださった物に、似た様な衣があったわ。
う、ううん。今はそんな事どうでも良いの。今はそんな人が、ここに居るのは何故と言う事を気にしなくちゃ。どうして?どうしてこんな方がこんな私の部屋に?醜い化け物の部屋に、こんな麗しい方が居るのは何故?
焦りと恐怖が交互にやって来て、私は笛をギュッと握りしめながら顫動し始める。
「安心せよ、取って食おうと言う訳ではない。我は主の笛の音に釣られただけぞ」
低く心地の良い声音で、安心させる様な奥ゆかしい声質に、私の小さな震えが止まる。顔の左側を隠す様にしながら、小さく顔を上げて「え?」と零すと。その男の人はスッとかがみ込み、押し入れの中に居る私と目線を合わせた。
前髪がぱつりと眉の所で切り揃えられ、横髪も耳元の長さから右斜めに上がる様に切り揃えられている。後ろで一本に縛られている髪が、サラッと畳の上を滑り、そこで後ろ髪もあるのかと気がついた。
「何故、そんな所に居る?倭国の者は、そこに座るのが主流と言うものなのか?」
端正な顔をきょとんとさせながら、首を傾げられ、真剣に尋ねられる。私はその言葉に「い、いいえ」と口ごもり、首を横に小さく振った。
「はて、では何故そんな所におるのだ?その様な所では狭く、笛を吹くに適した所ではなかろう?」
「わ、私の笛の音はお聴かせする様な物でもありませぬから。私の様な者には、ここが適しているのでございまする」
俯きながら弱々しく答えると、「そうか?」と再び目の前からきょとんとした声が聞こえる。
「主の笛の腕前はかなりのものぞ。この我を虜にしたのだから、自信を持つが良い。お主程の腕前は、なかなか居らぬだろうて」
「は、はぁ。かたじけのうございまする」
久しぶりの褒め言葉だからか。その言葉をどう受け取ったら良いのか、全く分からなくて。私は少し呆気にとられながら、軽く頭を下げる。
「うむ。ではそこから出てきて、我の前で一曲吹いてもらえぬか?我はそれほど主の笛を気に入ってなぁ」
私はぼんやりとした目つきで、窓から差し込む月を眺めながら耳をすませる。耳から聞こえる音は爽やかな風に揺れる、庭の木々の音。りぃんりぃんと心を和ませる様に鳴き、美しい調べを届けてくれている秋の虫達の声。
聞こえるのは、美しい自然の音だけ。人間の声は聞こえないわね。
私はよしと小さく頷いてから、巾着袋に仕舞い込んでいた笛を取り出し、開いている押し入れの中によいしょと入り込む。体を縮込ませながら、薄暗い押し入れの中をもぞもぞと動き、扉を正面にする様に向きを変えた。その時、服や裸足にざらざらと荒れた木のささくれが刺さり、チクチクとした小さな痛みを感じる。けれど、それに構わず私は奥の方に背を付けて、膝を抱え込むようにして体勢を整えた。
そして月明かりが少しだけ差し込む様に、ほんの僅かな隙間を空けて扉を閉じ、いつもの様に口元に笛を添える。
ふうと息を吐いてから、ゆっくりと息を笛の中に送り込んだ。ぴぃと小さくも美しい音が鳴ると、私は滑らかに指を滑らせていく。
曲目はいつも決まって、影姫だ。小さく奏でられる影姫は、本当に惨めな曲に感じる。昔は自分が一から考えて作った曲で、悲しみの中に思いを込められたと気に入っていたのに。今はそんな思いも感じず、暗然として、余計に自分を惨めにさせる曲だと思っている。
そんな風に思っていても。決まって影姫を吹いてしまうのは、きっと誰かに・・・。
目に熱い物が一気にせり上がってくると、縁に溜まり込み、視界がゆらゆらと歪んだ。吐き出している息も小さく揺れてしまい、音もふるふるっと揺れ動く。
その時だった。
差し込む月明かりに影が差しかかり、押し入れの中が完璧な暗闇に変わる。暗くて見えないかもと思うが、体は覚えているものでそのまま滑らかに指は動いてくれた。
月ですらも、私に影に溶け込めって言っているのね。ううん、違うわ。月も分かっているのよね、私なんか存在する価値に値しないって。そうなのよ、私は影に溶け込めば良い存在なのよ。
じわじわと歪んだ視界を細め、自嘲気味な笑みを浮かべながら笛を吹いていると。
突然、音も無く押し入れの扉が勝手に開いた。滑らかに笛の上を動いていた指がピタリと止まったばかりか、ヒュッと涙が引っ込み、歪んでいた視界が一気に明朗になる。
そして明朗になった視界に映る、黒を基調とした異国の服。ちらと視線を上げて見ると、そこには眉目秀麗と言う言葉すらも、軽々と凌駕する程の顔立ちをした人が立っていた。月光を背負い立つ姿には、神々しい後光を纏っている様だと感じてしまう。
そんな神々しい彼は、切れ長の瞳で私を見下ろした。あまりにも綺麗で、鋭い目に射抜かれ、私はヒュッと息を飲み、慌てて俯いた。
だ、誰?この殿方は、誰?ど、どうして私の部屋に居るの?は、入ってくる音なんて聞こえなかったのに。ど、どうして居るの?纏う衣が異国の物だし。た、確か、海を渡った明国?と言う所の物よね。小十郎様が昔くださった物に、似た様な衣があったわ。
う、ううん。今はそんな事どうでも良いの。今はそんな人が、ここに居るのは何故と言う事を気にしなくちゃ。どうして?どうしてこんな方がこんな私の部屋に?醜い化け物の部屋に、こんな麗しい方が居るのは何故?
焦りと恐怖が交互にやって来て、私は笛をギュッと握りしめながら顫動し始める。
「安心せよ、取って食おうと言う訳ではない。我は主の笛の音に釣られただけぞ」
低く心地の良い声音で、安心させる様な奥ゆかしい声質に、私の小さな震えが止まる。顔の左側を隠す様にしながら、小さく顔を上げて「え?」と零すと。その男の人はスッとかがみ込み、押し入れの中に居る私と目線を合わせた。
前髪がぱつりと眉の所で切り揃えられ、横髪も耳元の長さから右斜めに上がる様に切り揃えられている。後ろで一本に縛られている髪が、サラッと畳の上を滑り、そこで後ろ髪もあるのかと気がついた。
「何故、そんな所に居る?倭国の者は、そこに座るのが主流と言うものなのか?」
端正な顔をきょとんとさせながら、首を傾げられ、真剣に尋ねられる。私はその言葉に「い、いいえ」と口ごもり、首を横に小さく振った。
「はて、では何故そんな所におるのだ?その様な所では狭く、笛を吹くに適した所ではなかろう?」
「わ、私の笛の音はお聴かせする様な物でもありませぬから。私の様な者には、ここが適しているのでございまする」
俯きながら弱々しく答えると、「そうか?」と再び目の前からきょとんとした声が聞こえる。
「主の笛の腕前はかなりのものぞ。この我を虜にしたのだから、自信を持つが良い。お主程の腕前は、なかなか居らぬだろうて」
「は、はぁ。かたじけのうございまする」
久しぶりの褒め言葉だからか。その言葉をどう受け取ったら良いのか、全く分からなくて。私は少し呆気にとられながら、軽く頭を下げる。
「うむ。ではそこから出てきて、我の前で一曲吹いてもらえぬか?我はそれほど主の笛を気に入ってなぁ」