「ーーーかすみ」

 凌の、私の名を呼ぶ声が好き。

「かすみ」

 そう、この声。少しかすれた、低い声。

「起きないなら、キスするぞ」
「…」

 目を開ければ、見慣れた顔が私を見下ろしていた。

「そこは、起きてても寝たふりするところだろ」
「…寝込みを襲うご趣味があったとは知らなかったわ」

 軽口に軽口で返せば、凌は「んな趣味ねーよ」と言ってベッドに座った。
 何度母に凌を通す前に声をかけてと言っても聞いてくれたためしがない。
 もはや息子同然の扱いだから仕方がないと私があきらめるしかなかった。

「こんな時間に寝たら夜寝れなくなるぞ」

 言われて時計を仰ぎ見る。夜の10時過ぎだった。
 そうだ、私は寝ないで凌の帰りを待っていたのに、机に突っ伏していつの間にか寝てしまったらしい。

「もしかして、今帰ってきたの?」

 座っていた椅子ごと凌の方へ向き直り、胡坐をかいた。
 いつものスウェットを着た凌の髪は半乾きだと一目でわかる。
 お風呂に入ってから来たのだろう。
 私の質問に、彼は気まずそうに頷く。

 あぁ、こんな顔をさせたいわけじゃないのに。

「楽しかった?」
「八代が合格決まって、皆で祝ってやった」
「え、絶対浪人決定って言われてた八代くんが?うそー!良かったねぇ!八代くんも皆に祝ってもらえて喜んだでしょう」

 模試の判定もいつもC以上を取ったためしがないのに、頑なに志望校を変えなかったつわものの八代君。
 その理由は、八代君の一つセンパイの彼女がそこの大学に居るからというなんとも健気なもの。
 私も凌からその話を聞いて知って以来ひそかに応援していたのだった。

「嬉しくて泣いてたわ、あいつ」

 そういう凌もとても嬉しそうな顔をしていて、わたしまで顔がほころぶ。

 凌の、こういうところ、ホント好きだなぁ。

 友達のことを自分のことのように喜んだり悲しんだりできるところは、彼の周りにいつも友達が絶えない一番の理由ではないだろうか。

「お前さ、最近なんか変じゃね?」

 にこにこして話を聞いていた私に、彼はストレートに言葉を放った。
 ドキリとする。
 でも、それを悟られまいと、私は笑顔をキープした。

「もしかして、試験ミスった?」

 バクバクと音を立てる胸の鼓動に叩かれながら、私は間を取る。こういう時、下手に口を開くと自爆してしまうから。すると、凌は「あれだろ」と話し出した。

「自己採点ギリギリだったんだろ?それでここ最近ずっと不安そうな顔してるんだろ」

 凌が単細胞で助かった。
 内心でほっと一息ついて、私は「バレた?」と返した。まぁ、あながち的外れでもないから、話に乗っておく。

「凌は大丈夫だったんでしょ」
「まぁ、力は出し切った」
「ホント、頑張ってたもんね」

 家から通えてそこそこの私立のS大学、というちょうどいい大学がうちの高校の卒業生の約3分の1の進学先で、凌も私もそこを第一志望校としてこれまで受験勉強に励んできた。別に、一緒のところにしようねと約束したわけではないが、進路希望調査を取り始めたころは、そこしか思い浮かばなかっただけのこと。

 でもそれも、今となっては表向きの話。
 私は、夏休み明けに志望大学を変えている。凌には内緒で。
 地元でもなければ、県内でもない、ここから遠く離れた高知県のK大学。選んだ理由はそれなりにいくつかあるけれど、決定的なものは、その距離にある。

 凌と、もうこれ以上一緒に居られない。
 凌のことを、嫌いになりたくない。
 もう、離れたい。
 それだけ。

 「別れよう」の言葉が言えない私には、こうするしか道はなくて。
 唯一事情を知る沙和子には不器用すぎると言われた。
 そして、残酷だ、とも。

 3年の春、今の成績ではS大は難しいと言われていた凌は、予備校に通って頑張って成績をあげていった。
 それこそ、友達と遊ぶのも控えて勉強していたのを私はそばで見てきたから、目の前でやり切ったと言う彼を見て、心から嬉しい。

 私はといえば、担任からS大ではもったいないと言われていて、もっとランクが上の大学を勧められていた。
 その中の一つに高知のK大があったのだ。
 なんでも、担任の恩師が私が興味のある学部の教授をしているから、視野に入れても良いんじゃないかと言うことだった。
 そして私は、無事に受かれば4月から家を出て高知県へ行くのだ。

 遠く、凌から離れて、私は私の道を行く。
 私の裏切りなんて、きっと、すぐに忘れる。
 忘れていいから。
 お願い、忘れて。

 浅はかにもほどがある私の願いは、いつしか凌ではなく自分への呪文となっていた。

「もう帰るの?」

 唐突に立ち上がった凌を見上げる。
 あまりに短い滞在に、思わず引き留めるような物言いをしてしまったなと、気まずくなった。
 そんな私を見逃さない凌は「なに、寂しいの?」と口の端を持ち上げる。

「ばかだね、もう。用があって来たんじゃないの?」
「あ、そうだった」

 ぽん、と手をたたいて、凌はこちらに近づいてくる。
 彼の用とやらに皆目見当のつかない私は首をかしげて見守るしかない。
 私の前まで来た凌は、両手で私の顔を包み込んだ。
 とても、優しく。

 お風呂上がりの彼の手は、寒さが深まる2月でもほんのりあったかくて柔らかい。
 久しぶりのスキンシップに、顔に血が集まってくるようだった。

 あ…、くる。

 至近距離で見つめる凌の顔に、さっきまでのふざけた雰囲気はなく、縮まりだした距離にようやくキスされるのだと気づく。
 そっと、けれども互いの唇が形を変えて密着するくらいにはしっかりと押し当てられた口づけに、めまいがした。

 くらりと均衡が崩れ、倒れる感覚に陥って、とっさに凌のスウェットの裾を掴む。
 それが合図となって、一度離れた唇がまた重ねられた。

 頬を包まれたままの私は、そのまま椅子の背もたれに体を押し付けるようにして凌からの口づけを受け止める。
 合間合間に漏れる吐息は、甘美な響きを伴って部屋に響いた。

 好きな人から与えられる刺激は、どこまでも甘く、そして私を悲しくさせる。

 こんなに、嬉しいのに、こんなにも悲しい。

「はい、合格できるおまじない」

 離れていく気配とぬくもりに目を開ければ、いたずらっ子みたいな顔をした凌がいて、思わず笑ってしまう。

「おまじないって、なにそれ…あはは」

 なんだ、それ。
 自分がしたかっただけでしょうに。

「俺のおまじないは効果抜群なんだからな…って…」

 目の前の彼の顔が、みるみる曇っていく。

「なんで泣くんだよ…」
「ご、ごめ…」

 笑いながら、涙が止まらない。手で拭っても拭っても、溢れる涙が頬を濡らす。
 キスをされて泣いた私を、凌はどう思うだろうか。凌の顔は涙でぼやけてその表情をうまく読み取れない。

「ごめんじゃなくて…、なんで泣いてるのか聞いてる」

 言えるわけない。
 もうすぐ、別々の道を行かなきゃならないから悲しくて、苦しいなんて。
 あなたをだまして、傷つけようとしているのが、今さら後ろめたいなんて。
 好きで好きでたまらないのに、離れなきゃいけないのが、ツラくて泣いてるなんて。
 そんなこと、言えるわけないじゃん。

「変なの…、なんで涙なんて…。受験で相当疲れてんのかもね、へへ」

 次から次へと流れ出る涙をティッシュで吹いて、鼻をチーンとかんで、愛想笑いでごまかす。

「そうだよな、ここまでずっと走りっぱなしだったもんな俺たち。かすみは特に予備校ハードだったしなぁ。ーーーじゃぁ俺は帰るわ。今は、合否のことは忘れて、ゆっくり休めよ」
「うん、そうする。…おやすみ」
「おやすみー」
「あ、凌」
「ん?」

 一瞬の躊躇いを振り払って、私は言った。

「おまじない、ありがとう」

 ーーーーうれしかった。

 言いたいことを最後までは、言えなかったけど。キスをされて泣いたのは、嫌だったからじゃないんだよということだけは伝えたかった。
 「おう」とはにかみながら部屋を後にする凌を見て、ざわついていた私の心も少し落ち着きを取り戻していく。
 ドアの閉まる音と遠ざかる足音、遠くで「あら、凌もう帰るの?おやすみー」と見送る母の声を頭の片隅で聞いてから私はベッドにダイブした。

 拒むべきだったキス。
 もう、別れを決意しているのだから、受け入れてはいけなかったのに。
 頭ではわかっていても、体が、心が、それを望んでしまった。

 ベッドの上、凌の熱がまだ残っているかのように火照る体が苦しくて自分の体を抱きしめる。

 離さないで。
 どこにも行かないで。
 ここだけにいて。
 ずっと、そばにいて。
 私のとなりにいて。

 云いたくて、云えなかった願いは、鋭いナイフとなって私に突き刺さるのだ。

 好き。
 大好き。

 掛け違えたボタンをそのままに、ここまで来てしまった私たち。
 もう、好きという気持ちだけでは、隠しきれない心の奥底にある私のエゴイズムが叫んでる。
 これ以上は、一緒にはいられない。
 私が、耐えられない。
 凌を嫌いにはなれないし、なりたくもないから、私はこの道を選んだ。
 この道しか、なかった。
 たとえ、凌を裏切り傷つけようとも、私は進むよ。
 自分を守る道を選んだ私を、凌は恨むだろうか。
 なんて残酷で卑劣なんだと、憎むだろうか。

 いっそのこと、嫌いになって。
 いっそのこと、憎んで。
 いっそのこと、忘れて。

 こみ上げる願いはこれでもかというほどに無情で、どこまでも利己主義の自分に吐き気がする。
 だから、もう、バイバイ。
 こんな最低な彼女、いないほうがマシだよ。

「ごめんね、凌…」

 私の上っ面だけの謝罪は、誰にも届くことなく静寂に吸い込まれていった。