追憶のきみとあの日の涙

 とうとう、この日が来た。
 出発の日だ。
 今となっては、過ぎた日はあっという間だったと思えるけれど、やはりとても長かった。
 K大受験を決意したのは、夏休み直前。
 その時は、正直受けるだけ受けて、どうするかはその時考えれば良いやくらいに考えていたのだけど、時が経つにつれて私の意志はどんどん固まっていった。
 冬の予備校も必死だったし、家での受験勉強だって頑張ってきたから、合格できたことを本当に、心から喜んだ。

 なのにーーーー

 私の心は、全然晴れない。
 もやもやとした得体のしれない不安で覆いつくされている。

 家族と離れて暮らすのも、一人で飛行機に乗るのも、これから始まる大学生活も、何もかもが初めてなんだからそれも仕方ない、と自分の中で折りを付けた。

「本当に、空港まで送っていかなくて大丈夫?」

 自室で最後の荷物チェックを終えた頃、母がドアから顔を覗かせた。

「うん、大丈夫。駅もすぐそこだし、荷物もこれだけだしね」
「そう…。お父さんの休みの日にすれば私たちも一緒に高知まで行ったのに…、何もわざわざ平日を選んで行くことないじゃない」

 ぶつぶつと言いながら、母は部屋に入ると勉強机の椅子に腰を下ろす。
 父には申し訳ないけど、母はただ単に娘の門出にかこつけて高知旅行を楽しみたいだけなのも私はちゃんとわかっているのでスルーだ。

「ごめんって」
「かすみも意地っ張りよねぇ…誰に似たんだか」

 多分、母はなぜ今日なのか、その理由に気づいている。それでもあえて口にしないのは、母なりの優しさだと捉えておいた。

「お母さん」
「なぁに」
「いろいろと心配かけて、ごめんね」

 目を丸くする母に、私は続ける。

「心配してくれて、ありがとう」
「ちょっとやだ…、不意打ちやめてよ」
「も~、涙もろいんだから」

 テーブルの上のボックスティッシュを差し出してあげると、母は一枚とって涙を拭いてついでに鼻もかむ。

「まぁ、あれよ、子どもの心配するのが親の仕事だから」

 ずずっと鼻をすすりながらそう言って、母は立ち上がると部屋から出ていった。
 閉じたドアの向こうから届いた「忘れ物ないようにね」という母の声に返事を返してから、私も立ち上がって部屋を見渡す。
 不思議なことに、見慣れた自分の部屋に既に懐かしさを感じていた。
 物心ついた頃からずっと暮らした部屋だから、たくさんの思い出や思い入れがあって、しばらく見納めになるのかと思うと、それらがハイライトとなって脳内を駆け巡った。
 そして、その大多数を占めるのは、凌との時間。
 私の18年間という月日の多くを一緒に過ごした凌は、やっぱりもう家族で、私の人生の一部だ。
 切り離すことなど、無かったことになどできるはずもないと、また思い知らされる。
 私は、それらを振り切るように、スーツケースを握りしめて部屋を後にした。


 駅まで見送ると言う母の申し出を断り、私はひとりで家を出た。
 高校3年間、凌と一緒に歩いた道を進み、見慣れた景色を眺めながら歩けば、またしても走馬灯のようにこれまでの事が浮かんでは消えていく。

 あぁ、本当にお別れなんだ。

 じんわりと、胸の奥から色々な気持ちがこみ上げて広がった。
 寂しさ、不安、恐怖、そして、これまで私に関わってくれた人達への感謝。
 離れてしまうのが、怖い。
 想像していたよりも、ずっと。
 たくさんの大切が詰まったこの街から離れるのは、怖い。
 あれほど、遠く離れることを願ったのに。

 気づけば、駅前の大通りにまで来ていて、私は思わず立ち止まった。
 この目の前の地下通路を潜り抜ければ駅にたどり着いてしまう。
 よし、と意を決して歩を進めた私は目を疑った。

「…な、んで…」

 なんで、いるの。

 ここにいるはずのない人の姿がそこにあって、心臓が止まるかと思うくらいびっくりした。
 地下通路の階段の途中、壁に背をもたれさせた凌は、私に気づくと「よう」と片手をあげてみせた。
 さらに信じられないことに、その顔には、笑みが浮かんでいる。

 驚きと混乱で足が棒のように固まって動けなかった。いつまでたっても降りてこない私にしびれを切らしたのか、凌は階段を一段飛ばしにささっと昇って私の目の前までやってきた。

「10時半の急行だろ?」
「え」
「それ、貸せよ」と、私の手からスーツケースを奪い、そして空いた手を掴むようにつないで、私を引っ張った。

「待って!」

 理解できない私は思い切り凌の手を振り払う。

「旅行は?!」

 体中の息を吐き出すようにして声を振り絞った。

 昨日から一泊二日のスノーボード旅行のはずで、帰ってくるのは今日の夜中のはず。
 私が今日を選んだのは、凌に会いたくなかったから。
 だからわざわざお父さんも仕事の平日を選んだの。
 なのに、なんでいるの。

「やめた」
「どうして…」

 視線が合わさる。数段下に立つ凌と目線が同じだった。
 優しく私を見つめる凌。
 どうして、笑ってるの。
 どうして、ここに居るの。
 言いたいことはたくさんあるのに、口が動かない。
 あんなに楽しみにしていた旅行をキャンセルしてここにいるということは、私が旅立つことを凌は知っているのだろう。その事実が全てを物語っていた。
 なんで今日旅立つことを知っているのか、それも気にはなったけどそんなことはもはやどうでもいい。
 最後の最後まで凌に残酷なことをしてしまったということに変わりはないのだから。

「ほら、行くぞ」

 また、手を引っ張られた。
 今度はしっかりと握られて振りほどけなくて、私はそのまま凌の後ろをついていく。
 手が、あたたかい。
 凌の手、こんなに大きかったかな。ついこの間つないだはずなのに、私の手をすっぽりと覆ってしまう凌の手にそんなことを思う。

 あぁ、もう、こうして手をつなぐことも出来ないのか。

 俯いた拍子、重力に逆らえない涙がまつ毛を通ってぽたりと落ちていった。

 泣いちゃ、ダメだ。

 泣く資格なんて私にはない。
 残りの涙を振り落とす様にぎゅっと目を閉じた。


 改札口で別れるのかと思っていたのに、凌はICカードで自分も改札を通りすぎていく。そして電子掲示板を見上げると、羽田空港行きの急行が停まる5番線のホームに進み空いているベンチに二人で腰掛けた。
 言葉を交わすことなく時間だけが過ぎていった。
 その間も、ホーム内には電車の到着を知らせるアナウンスや警笛、行き交う人の声がひっきりなしに響いて二人を囲む。
 私の乗る電車の到着を知らせるアナウンスが鳴ったとき、つないだ手に力が込められた。
 痛いほどに、ぎゅうっと握りしめられて、まるで私の心まで掴まれているようで胸が苦しい。

 どうして、ずっと握っててくれなかったの。
 どうして、今になって離してくれないの。

 ずっと、一人で泣いてたんだよ。
 凌との幸せな日々を思い出して、これまで気持ちをなんとかつないできたの。
 それでもツラくて、我慢できなくなって、凌とのことを忘れたくて涙を流してきた。
 涙に思い出を詰め込んで、全部流せてしまえたらどんなに楽だろうってずっと思ってた。

 なのに、どうして今さら…
 どうして、どうしてーーーー

「ーーー空港まで送ってくから」
「えっ…こ、ここまでで大丈夫…」

 何のために、今日という日を選んだと思ってるの。
 凌に知られたくなかったからだよ。
 それに、これ以上凌に迷惑は掛けられない。

「ーーーい……て、…から」
「え?なに?」

 凌の声が、通過する列車の走行音にかき消される。
 聞き逃さないように、と私は彼の横顔へと顔を向けた。

「見送りくらい、させて…頼むから…っ」

 絞りだされた声が、私に突き刺さる。見上げた視線の先、見たこともない表情の凌を見た瞬間、まるで全身をナイフで切りつけられたかのような痛みに襲われた。

 凌が、泣いているーーーー

 目を覆った手の隙間を縫って零れ落ちた涙が、凌の頬を濡らしていた。その横顔は酷く苦しさにゆがんでいる。
 初めて見る凌の涙に、私は絶句する。

 なんにも、わかってなかった。
 覚悟したつもりでいたけど、足りない。全然足りない。
 自分のせいで傷つく凌を見たくなかった。
 自分がどれほど卑怯で卑劣で最低な人間かを、思い知らされるのが嫌だから、居なくなるまでこのことは知られたくなかった。今日も会いたくなかった。

 最低だ、私。
 どこまでも、身勝手な自分に、嫌気がさす。
 ごめんなさい。
 泣かないで。

 あぁーーーー

 凌に、かける言葉がみつからない。









 珍しい人物からメッセージが届いたのは、卒業式の翌日の午後だった。
 つまり、俺が旅行に行く前日だ。

「こっちこっち」

 約束のファミレスに着くと、奥の席から手を振る千野の姿を捉えて案内の店員に断りを入れて席に向かう。

「悪い、遅くなった」
「ううん、こっちこそ急に呼び出してごめん」

 備え付けのボタンで呼び出した店員にドリンクバーを注文して、飲み物を取ってから席に座る。私服姿の千野は、見慣れなくてなんだかしっくりこない。

「親友の彼氏を呼び出すとは、ナニゴトですか千野さん。もしかして、愛の告白?」
「冗談はやめて」
「悪い…」

 かすみの話だと思うだけで、どうにかなりそうで、ふざけずにはいられなかった。

「どうせ、かすみのことだろ。ーーー俺、知ってるから…」
「えっ、なにを…?」
「かすみが、K大に行くこと。あと、…」

 そこまで言って、口をきつく結ぶ。
 言葉にするのが、怖かった。
 言葉にしたら、それが現実になってしまいそうで、それを認めてしまうのが、怖い。
 正直、かすみがもうすぐいなくなるということに、気持ちが追いついていない。
 どうにかしなきゃ、と思いながら、どうにもできない現実に俺は押しつぶされて結局今日まで何もできなかった。

「あと…?」

 千野が、おずおずと促す。

「…俺と、別れようとしてること」

 かろうじて絞りだした俺の言葉を最後まで聞いた千野は、「そう…」とだけ呟いて下を向いた。何かを考えているような、そんな顔をしている。
 俺は、千野の反応から、俺の考えが見当外れではないということを思い知らされ、その現実をどうにか咀嚼しようと必死だった。
 でも、その現実を受け止めようとすればするほど、どんよりとした真っ黒い何かが俺の中を埋め尽くしていって、思わず瞑目する。
 どす黒い感情に支配されてしまいそうだった。

「K大のこと、いつ知ったの…?」
「S大の合格発表の日。学校に報告しにいった時、たまたま担任が話してるの聞いた」

 あの日、いつものメンバーでS大で合格を確認した後、そのまま学校に向かった俺は、樹たちを先に行かせてトイレに寄った。
 用を済ませて廊下に出たとき、「榎本」と聞こえて足がとまった。突き当りの角の向こうから先生が話しながらこちらに歩いてきているようで、俺はなんとなくハンカチで手を拭きながらその場にとどまる。

『…ですかぁ、榎本はK大に決まりましたかぁ。頑張りましたね』
『はい、本当によく頑張ってました』
『しかし、高知県は遠いですね』
『そうですね…、勧めた私からはもう頑張れとしか…、お、有岡じゃないか…、どうしたんだそんなところに突っ立って』

 思考が、停止していた。
 榎本って、俺らの学年にかすみ以外にもう一人いるんだっけ…?
 いや、俺の記憶が正しければ、いない。

 担任の声で我に返った俺は、一緒に樹たちが待ってるであろう職員室に行って合格の報告を済ませた。
 担任や周りの先生からのお祝いの言葉も全然耳に入ってこなくて、俺はずっとぼうっとしていたと思う。
 正直、記憶が曖昧だったけれど、打ち上げに行くと言っていた樹たちに謝って先に帰ってきたのだ。
 それでも、ずっと前からかすみと二人S大に受かったらお祝いにかすみの好きなペペのミルフィーユを買って一緒に食べようと決めていたから、俺はケーキ屋に寄ってからかすみの家へと向かった。
 学校を出るときには、かすみに会って確かめないと、と頭の中で漠然と考えていたけれど、帰る途中から至極冷静に状況を分析している自分がいた。

 担任が言っていた榎本は間違いなくかすみの事で、高知県のK大に受かったというのも事実なんだろう。

 今確かなのは、かすみが隠していたのはこのことだったんだ、という事実だけ。

 何をどうするのかは会ってから決めよう、と考えて俺はかすみの家で帰りを待った。
 そして、帰ってきたかすみと話をしてみて、漠然とぼややけていた俺の予想はクリアなものになった。

『美味しい!ミルフィーユはやっぱりペペが一番!』

 俺の隣で笑うかすみの笑顔は、風が吹けば崩れ落ちそうなほどにもろくて。

『ありがとう、凌』

 そのありがとうは、何への感謝なのか。

『大学、楽しみだね』

 どの大学のことを言っているのか。
 かすみの口から出る言葉の真意を知るのが怖くて、ただ受け止めるだけで何一つ本人に確かめることなんて出来なかった。

 いつから俺たちは、お互いに「言えない」ことが出来てしまったんだろう。
 一緒にいたくて一緒にいたのに、どこで間違えたんだろう。
 今なら、まだ間に合うのだろうか。
 もう一度、初めからに戻れたら、なんてそんな都合の良い話があるわけないのに、願わずにはいられない。


ーーーカシャン

 カップとソーサーがぶつかる音で、我に返る。
 千野は、コーヒーカップから視線を俺へと向けた。

「ーーー本当は、口止めされてるんだけど…」

 まだ、迷いがあるのか、千野は少しの間、口を閉ざし、そして続ける。
 
「やっぱり、こんな別れ方、よくないと思って」

 俺のかすかな希望が千野の一言で砕け散った。
 本当は、かすみは俺と別れる気はなくて、ただ単に言い出せないだけなんじゃないか…どうか、そうであってほしいと願う自分がいた。
 それは本当に、本当にかすかな一縷の望みだった。
 0%に近い可能性を、奇跡を捨てきれずに、かすみが打ち明けてくれるのを今まで待っていた。
 でも、それも途絶えてしまった。

 今度は、どうして千野が俺を呼んだのか、全てを知るかすみの親友が何を伝えたいのか聞かなくてはと必死で耳を傾ける。
 かすみを失くさないためにも。
 だけど、千野が放った言葉は、俺の想像をことごとく裏切るものだった。


「明日から、旅行なんでしょ。…かすみはね、明後日には飛行機乗って高知に行っちゃうんだよーーーー」




 みっともなく、流れた涙を手で拭って立ち上がると、つないだままの手を強引に引っ張りながら停車した急行電車に乗り込んだ。
 平日の10時台ということもあり、列車内は空いていて俺とかすみは並んで座ることができた。

 ずっと、考えていた。
 俺の何がいけなかったんだろう、って。

 でも、多分、それがはっきりわからないから、こうなったんだ。
 
 千野から、かすみが今日出発すると聞いた時、頭が真っ白になった。
 いくらなんでも出発する時には一言あるだろう、何かしら説明してくれるだろうとなんの根拠もないのになぜだか思い込んでいたのだ。
 まさか、かすみが俺に何も言わずに行ってしまうとは頭にもなくて、気持ちが追いつかなかった。
 まるで俺の心までも置いてけぼりにされてしまったみたいに。

 それでも何とか、樹に旅行のキャンセルを頼んで、心の準備ができないまま、今日を迎えた俺は、電車に乗った今もかすみにかける言葉を必死に探していた。

 そんなに、俺と別れたいのか?
 わざわざ旅行の日を狙うほど俺に会いたくなかったってことかよ。
 別れたいって、一言、たったひとこと言えばいいだけの話じゃないのかよ。
 一番理解できなかったのは、別れたいなら、どうしてあの日俺に抱かれたのかということ。
 かすみの白い肌に印をつけた後、ベッドの上で必死に我慢する俺をよそに見上げてくるうるんだ瞳。「誘ってんの?」と聞けば無言で俺の胸に飛び込んできたかすみ。
 人がやっとの思いで理性をつないでいたっていうのに…。
 たまらずかすみのパジャマの下に忍ばせた手に、滑らかな肌は吸い付くように俺を離さなかった。

 かすみは、何を考えているんだろうか。
 俺に嘘をついてまで高知県の大学を選択したのに、どうして、俺の腕の中で俺を求めて俺に抱かれているんだろう、と。
 考えても、わからなかった。

 わからなかったけど、そんなことは、どうでも良いと思えるほど俺自身もかすみを欲していた。腕の中で恥ずかしがるかすみの全部を目に焼き付けておきたかった。
 だって、もしかしたら、これが最後になるかもしれないから。
 その焦燥が、俺を急き立てた。

 全部、俺がいけなかったんだ。

 千野が別れ際、俺に言った言葉を思い出す。

『香澄は、まだ有岡くんのこと好きなんだよ。好きだけど、離れる選択をしたの。そのツラさ、わかってあげてほしい。ツラいのは、有岡くんだけじゃないんだよ』

 わかってる。
 つらいのは、かすみだって、わかってる。

 遠い県外の大学を選んだのも、別れを告げずに黙って居なくなろうとしたのも、かすみをここまで追い詰めたのは、全部俺のせいだ。
 かすみがくれる優しさに甘えて、かすみが苦しんでいることに気づいてあげられなかった。

 家族も友達も全部切り離して、一人旅立つその不安や恐怖がどれほどのものか。
 そんな選択を、俺がかすみにさせてしまったんだと思うと、いたたまれない。

 そしてそれと同時に、かすみを失うことを恐れている自分がいる。
 この土壇場にきて、ビビってる。
 情けないほど。

 だから、かすみの手を離せなかった。

 揺れる電車の中、俺の頭を占める言葉はただ一つ。

 いかないでくれーーーー

 けれど、俺の願いは決して言葉にはならない。



 お互い無言のまま、電車は無情にも空港の駅に到着してしまう。
 終点のため、全員が下りるのを待って俺も立ち上がった。
 右手にはスーツケース、左手にはかすみの手を掴み、俺はすれ違う人たちを避けながら進んだ。

 時間は刻一刻と迫っている。
 俺の知らない間にカウントダウンはもう始まっていて、飛行機の離陸時間まで残すところ2時間を切っていた。

 まだ、信じられない。
 俺たちが終わるなんて。
 今、こうして俺の手にはかすみがいるのに、あと2時間後にはかすみは空の上で俺から遠く離れてしまうなんて、信じられない。
 かすみとの別れが、もうすぐそこまで迫っているという事実だけが目の前に迫っていた。
 その事実が、俺に重くのしかかり、心の中は何色もぐちゃぐちゃに混ぜた絵具を塗りたくったような気分だった。

「…とりあえず、先にチェックインする?」

 俺の提案に、うん、と頷いてかすみは一人チェックインカウンターへと向かった。
 離れた手のぬくもりがどんどん冷めて、急に心細くなり早くも手を離したことを後悔した。

 ーーーーもう、俺はかすみの手を二度と握れないのだろうか。

 胸が、痛い。
 ことあるごとに突きつけられる現実に傷つき、同時に後悔が襲い掛かる。
 どうしてもっと早く気づけなかったのか、かすみの変化に気づいてやれなかったのか、悔やんでも悔やみきれない。
 これまで生きてきた18年間で、取り返しのつかないことなんてそうそうなかったし、あっても大したことじゃなかったんだ。

 ずっと、続くと思って疑いもしなかったんだ。
 なのに、俺たちの「終わり」がこんな形でやってくるなんて。

 失くしてから気づくことばかりで、大切なことを忘れていた。
 かすみがK大に行くと知ってから、何度も見返した二人の写真。スマホにたまったままの、思い出。
 付き合いたての頃は、水族館や遊園地とか二人で出かけた先での思い出ばかりだったのが、時間が経つにつれて代わり映えのない家の中や駅ビルのファミレスばかりになって枚数もどんどん減っていった。
 スクロールすればするほど、そこにはかすみより樹たちとの写真が幅を利かせて、かすみとの写真を探すほうが難しくなる。

 あぁそうか、かすみとのしあわせを壊したのは、俺自身だったんだ、とまざまざと思い知った。
 こうなったのも、ずっと一緒だから、いつでも会えるから、当たり前だと決めつけて、大切にしなかった自分の思いやりのなさが招いた結果なんだ。
 思い返せばわかることも、こうなった今になってやっと気づく自分が情けなくてどうしようもない。

 いくら、幸せだったあの日々を、思い出をなぞるように二人で出かけても、もうあの日の二人には戻れないのに。

『また、行こうな』

 叶うことのない約束をする俺に、『いつか行きたいね』なんて曖昧な言葉で返すかすみが恨めしいのに、嫌いになんてなれない。
 もしかして、かすかな希望があるのだろうか、と期待せずずにはいられなかった。

 かすみの手が離れて寂しさを覚えた手を、上着のポケットに突っ込んだ。何か柔らかいものが、手に当たる。二本の真新しいミサンガだった。

 切れたら願いが叶うと言われているミサンガだけど、昔二人で結んだ俺のミサンガは今にも切れそうで心もとなくて、まるで俺たちの関係に思えてならなかった。
 だから、もう一つ新たな願いを、今度は二人同じ願いを込めて結ぼうと、かすみに内緒で買ったものだ。前と同じ、駅ビルのアクセサリー店で。
 ずっと、渡せずに今日まで来てしまった。

 今にも切れそうなミサンガに込めた願いは、

 ーーーずっとかすみといられますように。

 あの日から今も気持ちは変わらない。

 もしも…
 もしも、かすみが俺と同じ気持ちなら、とポケットに忍ばせたのだった。

 でも、それも、もう…きっと…。

 もう戻れない、かすみとのあの日々。
 もしも戻れるなら、なんでもするのに。

 でも、きっとかすみは、そんなことは望んでないんだろう。
 だって、かすみはもう決断したから。

「おまたせ…」

 さっきの人混みが嘘のようにはけて少しの待ち時間で戻ってきたかすみと展望デッキへと向かい、空いているベンチを見つけて座る。人はまばらで、小さな子ども連れ家族がちらほらいて飛んでいく飛行機を指さして見上げていた。

 冷たい風が俺の頬を撫でて、青い空がよどんだ心を抉る。
 乾いた日差しは、まるで俺のすべてを見透かすように降り注いでいた。

「いつから…?」
「ん?」

 風の音が二人の邪魔をする。

「いつから、知ってたの…」

 そう聞かれて、一瞬悩んだ。
 でも、嘘をつくのは性に合わないから、正直に応える。千野に話したのと同じように説明すると、かすみが息を呑むのがわかった。
 どう思ったのかまでは推し量れない。そんな力量があれば、端からこんなことにはなっていなかっただろう。

 かすみが高知県に行くと知った日から1週間、俺はなんにも手がつかなくて、樹たちと遊んでても全然楽しめなかった。

 かすみがいなくなる。

 その事実を飲み込むまで、1週間。
 いや、飲み込むことなんて、受け入れることなんて、とてもじゃないけど出来なかった。

 正直、最初はかすみに怒りを感じた。なんで、俺をだますようなことするんだって。
 でも、その選択をした理由があるはずで、どうして言わないのか、俺のことが嫌いになったのか。
 理由はいくつか考えられたけど、もともと物事を深く考えられない質の俺は、途中から考えても仕方ないなってあきらめに似た思考に至った。


 だって、かすみの進む道の先に、俺はいないからーーーー


 これまで抱いていた違和感とかすみの涙、壊れそうな笑顔、言えない本心。
 パズルのピースが一つひとつ音を立ててハマっていくかのように、つながってしまった。


 なら…自分は、かすみの選んだ道を尊重するべきなんじゃないか。
 幼馴染として、家族として、かすみの未来を応援してやろう、それが、俺がかすみにできるせめてもの餞(はなむけ)かもしれない。

 強がり以外のなにものでもなかったけど、もう、自分に残された最善の選択肢はそれしかなかった。

 もちろん、ずっと、かすみの気が変わらないだろうかと願っていた。

 けど、それは叶うことのない願いだということもわかっていたから。

「お前って、昔から一度決めたら突き進むタイプだからなぁ」

 だったら、もう、突き放されない限りは、かすみと一緒にいたいっていう自分の気持ちに素直になって開き直った。

 ひたすらに。
 ただ、ひたすらに、かすみとの時間を求めていた。
 いなくなるとわかった途端に、惜しむなんて。
 かすみとの時間を無駄にしていたことに、こうなるまで気づかなかった。

 昔は何よりも大切にしていたかすみとの時間。
 無理やりにでも作ってたのに、気づけば慣れておざなりになって、いつでも会えるからと後回しにしていた。
 誰にも取られたくなくて、一緒にいたくて一緒にいたのに。
 かすみが俺のそばにいる「当たり前」を失った。


「ーーーどうして、怒らないの…」

 消え入りそうな声でかすみが言った。
 何かにおびえているような声だ。もしかして、俺に罵られるとでも思ってびくついているのだろうか。

「なにを」

 なんて、聞かなくてもわかってるのに、あえて聞き返す俺に、「黙ってたこと」とかすみが短く答える。

「俺に怒る資格、ないだろ」

 極力ゆっくりとした口調を意識して、続ける。
 そうじゃないと、思いの丈を全部かすみにぶつけてしまいそうだから。
 そんなことをすれば、かすみをもっと傷つけてしまいかねない。

「ごめん、気づいてやれなくて…」
「やだ、やめて…謝らないで。悪いのは全部私なんだから…」
「かすみは、悪くないだろ。悪いのは俺だ」
「違うっ!…っ」

 ハッとしたように、口をつぐむかすみ。
 必死に感情を抑えようとしている。

「違くない。かすみが俺のそばにいられなくなったのは、俺のせいだろ。かすみは、なにも変わってないじゃないか。俺がかすみの優しさに甘えてかすみのこと大切にできなかったんだ。かすみがツラいのに、気づいてやれなかった俺が悪いんだ」

「ちがう…、そうじゃない」

 そう言って、かすみは両手で顔を覆ってしまった。
 肩が震えているのに気づき、思わず抱き寄せた。
 振り払われるかもしれない、と躊躇いもあったけれど、そうせずにはいられなかった。

 細い肩、いつものシャンプーの匂い、すぐ絡まる細い猫毛。
 全部、全部、いつもと変わらないかすみなのに。
 全てが、変わろうとしている。

 確かめなくてはいけないことがあった。
 卒業式の後の誰も居ない教室で俺が言えなかった言葉で、かすみが最後まで俺に言わずに旅立とうとしている言葉だ。
 それを聞いたら、全てが終わってしまう。
 でも、きっと、俺はそれをかすみの口から聞かなくてはならない。
 そう感じて、俺は口を開いた。


「なぁ、かすみ」


 声はかすれて、情けないことに、震えていた。


「…俺たち、もう終わりなの?」





 空港へと向かう電車の中、つないだ手が痛かった。
 与えられる痛みは、私が凌に与えてしまった痛みだろうか。
 それとも、裏切った私への罰だろうか。
 強く握られた手から、まるで凌の心の声が聞こえてくるようで、私の胸の痛みとシンクロするかのように突き刺さる。
 さっき見た凌の涙が、私をひどく動揺させた。

 ずっと、考えていた。
 私が黙って旅立ったら、凌はどれだけ傷つくだろう、って。

 今は幸せな日々を送っていても癒えない傷を負った優子おばさんのように、深く傷つくかもしれないって。

 裏切られたと、罵り憎むだろうか。
 その程度だったのか、と失望するだろうか。
 捨てられたと、嘆き悲しむだろうか。

 もしも、反対の立場だったら?
 気づけば凌はいなくて、おばさんから『凌は遠い大学へ行ったのよ』なんて聞かされたら…。
 
 一言、たった一言『別れよう』とどうして言えないのか、言ってくれないのか、理解に苦しむだろう。
 私だって、こうなって初めてその一言が「言えない」という状態になって、苦しんでいたのだから。

 好きだから、苦しい。
 好きなのに、一緒にいられない。
 一緒にいられないけど、こうでもしなくちゃ凌と離れられない。
 「終わり」を告げる言葉さえ、言えない。

 矛盾だらけの感情。

 そんなことがあるなんて、思いもしなかったんだよ。

 あっちとこっちから板挟みになって、私の心は身動きがとれず、狭い鳥かごの中にいるようで息苦しかった。

 揺れる電車の中、伝えたい言葉は、ただ一つ。

 ごめんなさいーーー

 今、私は凌と手をつないでいるのに、あと2時間後には一人飛行機の中。
 たとえ、後悔してもしなくても。
 たとえ、二人の心を置き去りにしても。
 その時は、刻一刻と迫っていた。

 ふと思い出す、しあわせだった二人の日々。
 あの頃の私は、「終わり」がくるなんて、疑いもしなかった。
 それを、自分から、こんな形で終わらせるなんて。
 けど、もう涙を流したくないから、終わりにするの。
 つないだ手から伝わる凌の悲しみを、忘れはしないよ。
 凌を裏切った私への戒めにするから。
 だからお願い、私の裏切りも私のことも全部忘れて。

 結局何も言えないまま、電車は空港に到着して、私たちは歩を進める。
 カウントダウンは、佳境に入っている。


 チェックインを済ませて、スカイデッキへと向かえば晴れ渡る空が二人を出迎えた。

「いつから、知ってたの…」

 空いていたベンチに座りそう訊ねると、凌は平然とS大の合格発表の日だと言った。
 その答えに私は息を呑む。

 卒業式の日、樹くんの話からもしかしたら、とは思っていたけれど…。

 そんなに前から?
 だって、あの日は…。
 記憶を手繰り寄せる必要もないほど、しっかりと思い出せる。

 私が大好きなペペのミルフィーユを買ってきてくれたよね。
 その後は、1週間音沙汰無しかと思えば、突然水族館に行こうと言い出して…、そして、私を慈しむように抱いてくれたよね。体中に付けられた赤い花びらを見るたびに思い出して体が熱くなった。
 そして、それが薄れて消えていくのが、たまらなく悲しかった。
 思い出を辿るように、出かけた先々は、なつかしさと愛しさで溢れていた。
 また行こう、って言ってくれた遊園地の帰り。
 卒業式の後の教室でのキス。

 そのすべてが、
 消せない記憶が、目に浮かぶ。

 あの時には、もう全部知っていたなんて。

 一体、どんな気持ちで、私を見ていたの…。
 どうして、問い詰めなかったの?
 どうして?

 私の疑問を感じ取ったのか、凌が口を開く。


「お前って、昔から一度決めたら突き進むタイプだからなぁ」


 凌は、私のひどい裏切りを、まるで「仕方がない」とでもいうように、笑った。


「ーーーどうして、怒らないの…」


 晴れ渡る青空と凌の笑顔が眩しくて、思わず俯く。
 視界には、スカイデッキのコンクリートの無機質な地面と膝に置いた震える手。

「なにを」

 とあえて訊ねる凌に「黙ってたこと」と短く答える。

「俺に怒る資格、ないだろ」

 なにそれ…。

「ごめん、気づいてやれなくて…」

 ゆっくりと流れ出る凌の言葉が、私の心を刺す。

「やだ、やめて…謝らないで。悪いのは全部私なんだから…」
「かすみは、悪くないだろ。悪いのは俺だ」

 どうして、凌が謝るの。
 悪いのは、私なのに。
 ひどい。
 ひどいよ。

 いっそのこと、私をなじって、心も体も壊してよ。
 立ち直れない程に、引き裂いてめちゃくちゃにしてよ。
 そうしてくれたら、私の心はどれほど楽か。

「違うっ!…っ」

 溢れる感情を必死に抑えて、私は口をつぐんだ。
 理不尽で身勝手な怒りで私が凌をなじってしまいそうになる。

「違わない。かすみが俺のそばにいられなくなったのは、俺のせいだろ。かすみは、なにも変わってないじゃないか。俺がかすみの優しさに甘えてかすみのこと大切にできなかったんだ。かすみがツラいのに、気づいてやれなかった俺が悪いんだ」

「ちがう…、そうじゃない」

 醜くゆがんだ顔を見られたくなくて顔を両手で覆うと、肩が引き寄せられて凌の胸に抱かれる。その優しさとぬくもりが、また痛みとなって私に襲い掛かった。

 そうじゃない…。
 確かに、寂しくてツラくて、苦しんでることに、気づいてほしかった。
 でもそれをどうにかして凌に伝えようと、わかってもらおうとしなかったのは、私なの。言葉にして伝えて突き返された時、我慢するんじゃなくて、話を流されてもちゃんとお互い納得するまで話し合うべきだった。
 なのに、そうしなかったのは、私なの。
 凌のいう通り、私は何も変わっていない。
 変わるべきだったのに、変えなかった。変われなかった。

 未来を変えたいなら、今を変えなくちゃいけない。
 明日を変えたいなら、今日を変えなくちゃいけない。
 相手を変えたいなら、自分を変えなくちゃいけない。

 わかっていたはずなのに、私は変われなかった。
 変えようと、努力しなかった。
 私は、逃げたのだ。

 変えてしまえば…、凌に『もっと一緒にいてよ、ずっとそばにいてよ』と詰め寄ったら、二人の関係が終わってしまうと恐れて、変わることを選ばなかった。
 二人の時は優しい凌と、いつでも会えるという環境に甘んじた。私は、いつでも会えるからと時間を作らなかった凌を責められる立場になんかなかった。
 そして、もっと悪いことに私は、私一人が我慢すれば凌とずっといられると信じて疑わずにきてしまったの。
 
 なんて、愚かだろう。
 そんな我慢がいつまでも続くはずないのに。どちらか一方が我慢する関係が間違ってるなんて考えなくてもわかることなのに。
 これは見て見ぬふりを決め込んだ自分自身への代償。


「なぁ、かすみ」

 絞りだされた凌の声はかすれて、震えていた。
 凌との関係を「終わり」にする勇気もなくて、こうして一人遠く旅立とうと逃げる私に、凌は何を言おうとしているのか。
 私は怖くて、おびえていた。


「ーーーーー俺たち、もう終わりなの?」


 突きつけられた解答用紙。
 白紙で提出したかった私の願いは儚く散る。
 それと同時に。凌が私たちのことをはっきりさせたくてここまで来たんだ、とわかり落胆する自分に気づいてしまった。
 引き留めてもらいたいと望んでいたとでも言うのだろうか。だとしたらはなはだおかしい。

「たぶん…終わり…なんだよな…」

 独り言のように呟かれた言葉は、「終わり」を望んでいるのかそうでないのか、区別がつかない。

「俺がかすみに告白した時のこと、覚えてるか?」

 突然何を言い出すのかと思いながらも、私は凌の腕の中でコクリと頷く。
 忘れられない思い出。
 夢の中で何度も何度も見た、凌との幸せ。
 もう3年も前のこと。
 凌も覚えててくれたの…?
 てっきり忘れてると思っていた。
 卒業式の後の誰も居ない教室でのキスは、あの日を思い出したから?
 あの時、言いかけた言葉は、私たちの関係を確かめる言葉だった?

「高校入って、俺がかすみに告白してもし振られたらどうしよう…って躊躇ってる俺に、樹が言ったんだ。たとえ振られたとして、俺とかすみはそんなんで壊れるような薄っぺらい関係なのか?って」

 あの時、震えていた凌の手。
 そうだよね、思いを伝えるって、不安だし勇気が必要だもんね。
 私も、ずっと片思いだと思っていたし、告白して振られたら気まずくなって幼馴染でもいられないかもしれないって思って怖くて言えなかったもの。
 樹くん、そんな風に言ってくれてたなんて。彼は私と凌の恋のキューピットだったんだね。こんな終わりを迎えて、樹くんにも申し訳ないことをしてしまった。

「その時、樹に言われてハッとしたんだ。俺たちなら、ダメになってもまた元の幼馴染に戻れるよな、って」

 ダメとか幼馴染とか、戻るとか、その言葉たちが耳に届いても凌の言わんとすることが理解できずに私は黙り込む。だって、今とあの日では何もかもが違う。

「俺は、戻れるよ、幼馴染に…。かすみがそれを…望むなら…」

 再び凌の口から放たれたその言葉が、今度は意味を伴い私の鼓膜を震わせる。

 そんな…、
 凌は、こんな酷い仕打ちをした私と、幼馴染でいてくれるというの…?
 恨まれて、憎まれて、嫌われても仕方がないことをしたのに。

 どう答えるべきなのかわからなかった。

 私は、本当に取り返しのないことをしてしまったから。
 この期に及んで凌の優しさに甘えるなんて、到底許されない。
 それに、今さら戻れるとも、そんな都合のいいこと思っていないよ。

「かすみ…」

 頭の上、凌の喉が喘いだ。

「俺…、戻れるけど…っ、やっぱり…戻りたくねぇよ…、っ」

 つられて喉の奥からこみ上げる衝動をぐっと押さえ込むようにまぶたをぎゅっとつむる。真っ暗闇にちかちかと閃光が散っている様を感じながら私は凌の胸に体を預けた。
 そうすれば、私を抱く腕に力が入り、しっかりと受け止められる。

「なぁ、かすみ…俺、変わるから、…だから、もう一度…かすみと」

 躊躇いがちに発せられた言葉に重なるように、優子おばさんの言葉が頭に浮かんできた。

『人は、変われるのよ、かすみ。だから、あなたも凌くんも、だいじょうぶ。離れてから見えてくることもある。これで終わりだと思う必要はない』

 きっと、おばさんのいう通りなんだろう。
 人は変われるし、離れてみて初めて気づくことももちろんある。

 でもね、おばさん。
 私…、

「ーーーもう、繰り返すのは、嫌なの」

 もう、何度も繰り返して、その度に傷ついて苦しくて、涙した。

「俺が変わる。だから同じことは繰り返さない。もう、かすみにこんな想いさせないから」

 私が苦しんで悲しんでいることに、気づいてほしい、わかって欲しい、私をちゃんと見てほしい。

 何度も、そう願った。


 でも、凌に変わって欲しかったわけじゃない。

 凌のことを誰よりもそばで見てきたから、友達思いなところも、家族思いなところも、全部ひっくるめて凌であって、私はそんな凌だから好きになったんだよ。

 だけど、

「ごめん…」

 もう、

「私が、ダメなの、ツラいの」

 その好きという想いだけじゃ、我慢を隠せなくなったの。
 我慢をため込んで、一人限界を迎えて耐えられなくなる私が変わらない限り、私たちはきっと同じことの繰り返しになる。


「俺のこと、嫌いになった…?」


 ずるい。わかってるくせに、聞くんだね。
 違う、違うよ。
 好きだから、苦しいの。嫌いになれないから、ツラいの。


「嫌いになんて、なれるわけない」


 いっそ、嫌いになれたらと思ったこと、ホントは何度もある。

 でもね、私たちは幼馴染なんだよ。
 ずっと、ずっと、子どもの頃から一緒にいて、一緒に育って、悲しいことも楽しいこともたくさんのこと、一緒に乗り越えてきたじゃない。
 だから誰よりも凌のこと、わかってる。
 いいところも、ダメなところも全部。


「なら、なんで…っ!」


 全部わかってるから、私たち、離れるべきなんだよ。
 慣れすぎちゃったんだよ、私たち。

 だから…、私は変わりたい。
 そのためにも、凌と遠く離れて自分自身とちゃんと向き合いたい。

 待ってて、なんて都合のいいことは言わない。
 本当に変われるかどうかもわからないから。

 だから、これだけは約束して。

「私のことは、忘れて。いい人見つけて」

 これから先、新しい出会いがたくさんあるから。

「でも、つぎは、私みたいな我儘ばっかため込んじゃう子はだめだよ」
「ーーー次なんて、ない」

 振り絞るようにして出された声が、鼓膜を震わせ、そして私の心を揺らす。


「俺には、かすみしかいないーーー」


 ありがとう、こんな私のことを好きになってくれて。
 ごめんね、変われなくて。
 同じ道を歩けなくて。
 しあわせだった思い出はポケットにしまって、お互い別々の道を行こう。
 歩くのがツラくなったら、そっと取り出して懐かしもう。
 私たちは、大人になるから。



 ばいばい、大好きな人。




「ーーーもう、行かなきゃ…」



 飛行機の時間が迫っていた。
 両手で凌の胸をそっと押せば、私を包んでいた腕が解けていく。
 離れるぬくもりにとてつもない寂しさを感じながら、私は立ち上がった。

 私を引き止める優しい手は、もう伸びてこない。
 凌は、俯いたまま。
 少し伸びた前髪に隠されて、表情は見えないけれど、うなだれる姿に胸が締め付けられた。


「見送り、ありがとう」


 ーーー来てくれてうれしかった。


 やっぱり、言いたい事を全部は言えない私。

 いつの間にか、
 言えないことが増えて。
 言いたくないことも増えた。

 変わるのも、変わらないのも、選ぶのはいつだって自分。
 私が選んだ道の先に、凌は、いない。


「元気でね」


 俯いたままの凌に精一杯の笑顔で言って、私は背を向けて歩き出した。



 平日の昼間ということもあり、客席に座る人もまばらで私は幸いにも2列席の窓側に一人で座ることができた。
 登場ゲートが切り離された後にも隣に人が来ることはなく、ほっとして、外に視線を向けた途端、手の甲に落ちた水滴。
 驚いて頬に触れた指は、涙に濡れた。
 涙腺が突然崩壊したかのように、両目から涙がとめどなく溢れだして、私は慌てて鞄からハンカチを取り出し両目を覆った。

「うぅ…ひっ、…ひっ…」

 凌の前で泣いたらいけないと必死に堪えていた。
 凌と別れた後も手荷物検査を終えてここに来るまでずっと張り詰めていた緊張の糸。
 それが今プツンと切れて、溢れだしたのだ。

 凌を、傷つけた。
 取り返しのつかない程、深い傷を。

 こうなると、わかっていたのに。
 傷つけることを覚悟していたのに。

 それを目の当たりにする、覚悟が出来ていなかった。

 それでも、凌に秘密がバレて、こうなって良かったと今思う。
 でなければ、私は悲しむ凌を目にすることなく、遠く離れたところで一人のうのうと過ごしていたに違いない。

 最後まで、凌は、優しかった。
 残酷なのは、私だった。

 あんなに優しい人を、大切な人を傷つけた私に、泣く資格なんて、無い。
 泣いたらダメだ、と言い聞かせても、涙は一向に止まってはくれなかった。

『303便・高知空港行きをご利用いただきまして、誠にありがとうございますーーーー』

 アナウンスが終わると、機体はゆっくりと向きを変えて滑走路へと向かう。
 移り行く窓の外の景色、水平線が遠くに見えた。
 滑走路に着いた機体は、加速を始める。
 体がシートに押し付けられ、そして機体は風を切り、浮上した。
 生まれた時からずっと過ごしてきた街が、眼下に広がる。


 あぁ、離れていくーーー


 漠然とした思考の中、遠ざかる街並みを見ながら、ふと思う。
 全てを置き去りにして離れることは、決してそのつながりを断つことではないのかもしれない、と。


 凌だけが、私の世界だった。
 でも、凌の世界が、私だけでなくなった。
 広がっていく世界を生きる凌が遠く感じて、寂しくて。
 そんな私に気づいてほしくて、でも言えなくて。

 どこにも旅立てなかった私。

 失うことを恐れて変わることを選ばなかった私は、今、失うことを選んで変わろうとしている。

 なのに、
 それなのに、

 私の心は、こんなにも澱んでくすんで重たい。
 

 私は、息が苦しくなって、外を見ようと小さな窓に顔を近づけた。
 涙でぐちゃぐちゃに崩れた自分の顔の向こう、私の心とは真逆のどこまでも青々と清々しい空を、この目に焼き付ける。
 


 今は、後悔しても、

 いつかきっと、


 私の心が、涙が



 この空のように晴れ渡ると信じてーーーー





















「追憶のきみとあの日の涙」 ー 完 ー


























数ある物語の中から私の小説を選んで、さらに最後までお付き合いくださりありがとうございます。
こはならむさんと堂村璃羽さんの、「ポケットにあの日をしまって」をモチーフに書かせていただきました。
何度も何度も聴いて、歌詞を読んで。
一番初めに頭に浮かんだのが、何もかもを切り捨てて飛行機に乗って一人旅立つ少女の姿でした。
そして、かけがえのない存在が突然いなくなり、途方に暮れる少年の姿。
どうして、少女はその選択をしたのかを辿り辿り綴ったのがこの「追憶のきみとあの日の涙」になります。

人生は、すべて自分の「選択」によって決まっていく。
もちろん、外的影響もありますが、
今日何を食べるのか、何を着るのか、どこへいくのか、誰と過ごすのか、
その選択はすべて自分にゆだねられています。
当たり前のことですが、その当たり前を意識していないが故にこの二人は離れ離れになりました。

毎日の中で、ちょっと意識を変えるだけで、変わる未来もあるかもしれません。
そんなメッセージを込めています。

少しでも心に響くものがあれば幸いです。

お読みいただき、ありがとうございました。


9月23日 紀本明

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