空港へと向かう電車の中、つないだ手が痛かった。
 与えられる痛みは、私が凌に与えてしまった痛みだろうか。
 それとも、裏切った私への罰だろうか。
 強く握られた手から、まるで凌の心の声が聞こえてくるようで、私の胸の痛みとシンクロするかのように突き刺さる。
 さっき見た凌の涙が、私をひどく動揺させた。

 ずっと、考えていた。
 私が黙って旅立ったら、凌はどれだけ傷つくだろう、って。

 今は幸せな日々を送っていても癒えない傷を負った優子おばさんのように、深く傷つくかもしれないって。

 裏切られたと、罵り憎むだろうか。
 その程度だったのか、と失望するだろうか。
 捨てられたと、嘆き悲しむだろうか。

 もしも、反対の立場だったら?
 気づけば凌はいなくて、おばさんから『凌は遠い大学へ行ったのよ』なんて聞かされたら…。
 
 一言、たった一言『別れよう』とどうして言えないのか、言ってくれないのか、理解に苦しむだろう。
 私だって、こうなって初めてその一言が「言えない」という状態になって、苦しんでいたのだから。

 好きだから、苦しい。
 好きなのに、一緒にいられない。
 一緒にいられないけど、こうでもしなくちゃ凌と離れられない。
 「終わり」を告げる言葉さえ、言えない。

 矛盾だらけの感情。

 そんなことがあるなんて、思いもしなかったんだよ。

 あっちとこっちから板挟みになって、私の心は身動きがとれず、狭い鳥かごの中にいるようで息苦しかった。

 揺れる電車の中、伝えたい言葉は、ただ一つ。

 ごめんなさいーーー

 今、私は凌と手をつないでいるのに、あと2時間後には一人飛行機の中。
 たとえ、後悔してもしなくても。
 たとえ、二人の心を置き去りにしても。
 その時は、刻一刻と迫っていた。

 ふと思い出す、しあわせだった二人の日々。
 あの頃の私は、「終わり」がくるなんて、疑いもしなかった。
 それを、自分から、こんな形で終わらせるなんて。
 けど、もう涙を流したくないから、終わりにするの。
 つないだ手から伝わる凌の悲しみを、忘れはしないよ。
 凌を裏切った私への戒めにするから。
 だからお願い、私の裏切りも私のことも全部忘れて。

 結局何も言えないまま、電車は空港に到着して、私たちは歩を進める。
 カウントダウンは、佳境に入っている。


 チェックインを済ませて、スカイデッキへと向かえば晴れ渡る空が二人を出迎えた。

「いつから、知ってたの…」

 空いていたベンチに座りそう訊ねると、凌は平然とS大の合格発表の日だと言った。
 その答えに私は息を呑む。

 卒業式の日、樹くんの話からもしかしたら、とは思っていたけれど…。

 そんなに前から?
 だって、あの日は…。
 記憶を手繰り寄せる必要もないほど、しっかりと思い出せる。

 私が大好きなペペのミルフィーユを買ってきてくれたよね。
 その後は、1週間音沙汰無しかと思えば、突然水族館に行こうと言い出して…、そして、私を慈しむように抱いてくれたよね。体中に付けられた赤い花びらを見るたびに思い出して体が熱くなった。
 そして、それが薄れて消えていくのが、たまらなく悲しかった。
 思い出を辿るように、出かけた先々は、なつかしさと愛しさで溢れていた。
 また行こう、って言ってくれた遊園地の帰り。
 卒業式の後の教室でのキス。

 そのすべてが、
 消せない記憶が、目に浮かぶ。

 あの時には、もう全部知っていたなんて。

 一体、どんな気持ちで、私を見ていたの…。
 どうして、問い詰めなかったの?
 どうして?

 私の疑問を感じ取ったのか、凌が口を開く。


「お前って、昔から一度決めたら突き進むタイプだからなぁ」


 凌は、私のひどい裏切りを、まるで「仕方がない」とでもいうように、笑った。


「ーーーどうして、怒らないの…」


 晴れ渡る青空と凌の笑顔が眩しくて、思わず俯く。
 視界には、スカイデッキのコンクリートの無機質な地面と膝に置いた震える手。

「なにを」

 とあえて訊ねる凌に「黙ってたこと」と短く答える。

「俺に怒る資格、ないだろ」

 なにそれ…。

「ごめん、気づいてやれなくて…」

 ゆっくりと流れ出る凌の言葉が、私の心を刺す。

「やだ、やめて…謝らないで。悪いのは全部私なんだから…」
「かすみは、悪くないだろ。悪いのは俺だ」

 どうして、凌が謝るの。
 悪いのは、私なのに。
 ひどい。
 ひどいよ。

 いっそのこと、私をなじって、心も体も壊してよ。
 立ち直れない程に、引き裂いてめちゃくちゃにしてよ。
 そうしてくれたら、私の心はどれほど楽か。

「違うっ!…っ」

 溢れる感情を必死に抑えて、私は口をつぐんだ。
 理不尽で身勝手な怒りで私が凌をなじってしまいそうになる。

「違わない。かすみが俺のそばにいられなくなったのは、俺のせいだろ。かすみは、なにも変わってないじゃないか。俺がかすみの優しさに甘えてかすみのこと大切にできなかったんだ。かすみがツラいのに、気づいてやれなかった俺が悪いんだ」

「ちがう…、そうじゃない」

 醜くゆがんだ顔を見られたくなくて顔を両手で覆うと、肩が引き寄せられて凌の胸に抱かれる。その優しさとぬくもりが、また痛みとなって私に襲い掛かった。

 そうじゃない…。
 確かに、寂しくてツラくて、苦しんでることに、気づいてほしかった。
 でもそれをどうにかして凌に伝えようと、わかってもらおうとしなかったのは、私なの。言葉にして伝えて突き返された時、我慢するんじゃなくて、話を流されてもちゃんとお互い納得するまで話し合うべきだった。
 なのに、そうしなかったのは、私なの。
 凌のいう通り、私は何も変わっていない。
 変わるべきだったのに、変えなかった。変われなかった。

 未来を変えたいなら、今を変えなくちゃいけない。
 明日を変えたいなら、今日を変えなくちゃいけない。
 相手を変えたいなら、自分を変えなくちゃいけない。

 わかっていたはずなのに、私は変われなかった。
 変えようと、努力しなかった。
 私は、逃げたのだ。

 変えてしまえば…、凌に『もっと一緒にいてよ、ずっとそばにいてよ』と詰め寄ったら、二人の関係が終わってしまうと恐れて、変わることを選ばなかった。
 二人の時は優しい凌と、いつでも会えるという環境に甘んじた。私は、いつでも会えるからと時間を作らなかった凌を責められる立場になんかなかった。
 そして、もっと悪いことに私は、私一人が我慢すれば凌とずっといられると信じて疑わずにきてしまったの。
 
 なんて、愚かだろう。
 そんな我慢がいつまでも続くはずないのに。どちらか一方が我慢する関係が間違ってるなんて考えなくてもわかることなのに。
 これは見て見ぬふりを決め込んだ自分自身への代償。


「なぁ、かすみ」

 絞りだされた凌の声はかすれて、震えていた。
 凌との関係を「終わり」にする勇気もなくて、こうして一人遠く旅立とうと逃げる私に、凌は何を言おうとしているのか。
 私は怖くて、おびえていた。


「ーーーーー俺たち、もう終わりなの?」


 突きつけられた解答用紙。
 白紙で提出したかった私の願いは儚く散る。
 それと同時に。凌が私たちのことをはっきりさせたくてここまで来たんだ、とわかり落胆する自分に気づいてしまった。
 引き留めてもらいたいと望んでいたとでも言うのだろうか。だとしたらはなはだおかしい。

「たぶん…終わり…なんだよな…」

 独り言のように呟かれた言葉は、「終わり」を望んでいるのかそうでないのか、区別がつかない。

「俺がかすみに告白した時のこと、覚えてるか?」

 突然何を言い出すのかと思いながらも、私は凌の腕の中でコクリと頷く。
 忘れられない思い出。
 夢の中で何度も何度も見た、凌との幸せ。
 もう3年も前のこと。
 凌も覚えててくれたの…?
 てっきり忘れてると思っていた。
 卒業式の後の誰も居ない教室でのキスは、あの日を思い出したから?
 あの時、言いかけた言葉は、私たちの関係を確かめる言葉だった?

「高校入って、俺がかすみに告白してもし振られたらどうしよう…って躊躇ってる俺に、樹が言ったんだ。たとえ振られたとして、俺とかすみはそんなんで壊れるような薄っぺらい関係なのか?って」

 あの時、震えていた凌の手。
 そうだよね、思いを伝えるって、不安だし勇気が必要だもんね。
 私も、ずっと片思いだと思っていたし、告白して振られたら気まずくなって幼馴染でもいられないかもしれないって思って怖くて言えなかったもの。
 樹くん、そんな風に言ってくれてたなんて。彼は私と凌の恋のキューピットだったんだね。こんな終わりを迎えて、樹くんにも申し訳ないことをしてしまった。

「その時、樹に言われてハッとしたんだ。俺たちなら、ダメになってもまた元の幼馴染に戻れるよな、って」

 ダメとか幼馴染とか、戻るとか、その言葉たちが耳に届いても凌の言わんとすることが理解できずに私は黙り込む。だって、今とあの日では何もかもが違う。

「俺は、戻れるよ、幼馴染に…。かすみがそれを…望むなら…」

 再び凌の口から放たれたその言葉が、今度は意味を伴い私の鼓膜を震わせる。

 そんな…、
 凌は、こんな酷い仕打ちをした私と、幼馴染でいてくれるというの…?
 恨まれて、憎まれて、嫌われても仕方がないことをしたのに。

 どう答えるべきなのかわからなかった。

 私は、本当に取り返しのないことをしてしまったから。
 この期に及んで凌の優しさに甘えるなんて、到底許されない。
 それに、今さら戻れるとも、そんな都合のいいこと思っていないよ。

「かすみ…」

 頭の上、凌の喉が喘いだ。

「俺…、戻れるけど…っ、やっぱり…戻りたくねぇよ…、っ」

 つられて喉の奥からこみ上げる衝動をぐっと押さえ込むようにまぶたをぎゅっとつむる。真っ暗闇にちかちかと閃光が散っている様を感じながら私は凌の胸に体を預けた。
 そうすれば、私を抱く腕に力が入り、しっかりと受け止められる。

「なぁ、かすみ…俺、変わるから、…だから、もう一度…かすみと」

 躊躇いがちに発せられた言葉に重なるように、優子おばさんの言葉が頭に浮かんできた。

『人は、変われるのよ、かすみ。だから、あなたも凌くんも、だいじょうぶ。離れてから見えてくることもある。これで終わりだと思う必要はない』

 きっと、おばさんのいう通りなんだろう。
 人は変われるし、離れてみて初めて気づくことももちろんある。

 でもね、おばさん。
 私…、

「ーーーもう、繰り返すのは、嫌なの」

 もう、何度も繰り返して、その度に傷ついて苦しくて、涙した。

「俺が変わる。だから同じことは繰り返さない。もう、かすみにこんな想いさせないから」

 私が苦しんで悲しんでいることに、気づいてほしい、わかって欲しい、私をちゃんと見てほしい。

 何度も、そう願った。


 でも、凌に変わって欲しかったわけじゃない。

 凌のことを誰よりもそばで見てきたから、友達思いなところも、家族思いなところも、全部ひっくるめて凌であって、私はそんな凌だから好きになったんだよ。

 だけど、

「ごめん…」

 もう、

「私が、ダメなの、ツラいの」

 その好きという想いだけじゃ、我慢を隠せなくなったの。
 我慢をため込んで、一人限界を迎えて耐えられなくなる私が変わらない限り、私たちはきっと同じことの繰り返しになる。


「俺のこと、嫌いになった…?」


 ずるい。わかってるくせに、聞くんだね。
 違う、違うよ。
 好きだから、苦しいの。嫌いになれないから、ツラいの。


「嫌いになんて、なれるわけない」


 いっそ、嫌いになれたらと思ったこと、ホントは何度もある。

 でもね、私たちは幼馴染なんだよ。
 ずっと、ずっと、子どもの頃から一緒にいて、一緒に育って、悲しいことも楽しいこともたくさんのこと、一緒に乗り越えてきたじゃない。
 だから誰よりも凌のこと、わかってる。
 いいところも、ダメなところも全部。


「なら、なんで…っ!」


 全部わかってるから、私たち、離れるべきなんだよ。
 慣れすぎちゃったんだよ、私たち。

 だから…、私は変わりたい。
 そのためにも、凌と遠く離れて自分自身とちゃんと向き合いたい。

 待ってて、なんて都合のいいことは言わない。
 本当に変われるかどうかもわからないから。

 だから、これだけは約束して。

「私のことは、忘れて。いい人見つけて」

 これから先、新しい出会いがたくさんあるから。

「でも、つぎは、私みたいな我儘ばっかため込んじゃう子はだめだよ」
「ーーー次なんて、ない」

 振り絞るようにして出された声が、鼓膜を震わせ、そして私の心を揺らす。


「俺には、かすみしかいないーーー」


 ありがとう、こんな私のことを好きになってくれて。
 ごめんね、変われなくて。
 同じ道を歩けなくて。
 しあわせだった思い出はポケットにしまって、お互い別々の道を行こう。
 歩くのがツラくなったら、そっと取り出して懐かしもう。
 私たちは、大人になるから。



 ばいばい、大好きな人。




「ーーーもう、行かなきゃ…」



 飛行機の時間が迫っていた。
 両手で凌の胸をそっと押せば、私を包んでいた腕が解けていく。
 離れるぬくもりにとてつもない寂しさを感じながら、私は立ち上がった。

 私を引き止める優しい手は、もう伸びてこない。
 凌は、俯いたまま。
 少し伸びた前髪に隠されて、表情は見えないけれど、うなだれる姿に胸が締め付けられた。


「見送り、ありがとう」


 ーーー来てくれてうれしかった。


 やっぱり、言いたい事を全部は言えない私。

 いつの間にか、
 言えないことが増えて。
 言いたくないことも増えた。

 変わるのも、変わらないのも、選ぶのはいつだって自分。
 私が選んだ道の先に、凌は、いない。


「元気でね」


 俯いたままの凌に精一杯の笑顔で言って、私は背を向けて歩き出した。



 平日の昼間ということもあり、客席に座る人もまばらで私は幸いにも2列席の窓側に一人で座ることができた。
 登場ゲートが切り離された後にも隣に人が来ることはなく、ほっとして、外に視線を向けた途端、手の甲に落ちた水滴。
 驚いて頬に触れた指は、涙に濡れた。
 涙腺が突然崩壊したかのように、両目から涙がとめどなく溢れだして、私は慌てて鞄からハンカチを取り出し両目を覆った。

「うぅ…ひっ、…ひっ…」

 凌の前で泣いたらいけないと必死に堪えていた。
 凌と別れた後も手荷物検査を終えてここに来るまでずっと張り詰めていた緊張の糸。
 それが今プツンと切れて、溢れだしたのだ。

 凌を、傷つけた。
 取り返しのつかない程、深い傷を。

 こうなると、わかっていたのに。
 傷つけることを覚悟していたのに。

 それを目の当たりにする、覚悟が出来ていなかった。

 それでも、凌に秘密がバレて、こうなって良かったと今思う。
 でなければ、私は悲しむ凌を目にすることなく、遠く離れたところで一人のうのうと過ごしていたに違いない。

 最後まで、凌は、優しかった。
 残酷なのは、私だった。

 あんなに優しい人を、大切な人を傷つけた私に、泣く資格なんて、無い。
 泣いたらダメだ、と言い聞かせても、涙は一向に止まってはくれなかった。

『303便・高知空港行きをご利用いただきまして、誠にありがとうございますーーーー』

 アナウンスが終わると、機体はゆっくりと向きを変えて滑走路へと向かう。
 移り行く窓の外の景色、水平線が遠くに見えた。
 滑走路に着いた機体は、加速を始める。
 体がシートに押し付けられ、そして機体は風を切り、浮上した。
 生まれた時からずっと過ごしてきた街が、眼下に広がる。


 あぁ、離れていくーーー


 漠然とした思考の中、遠ざかる街並みを見ながら、ふと思う。
 全てを置き去りにして離れることは、決してそのつながりを断つことではないのかもしれない、と。


 凌だけが、私の世界だった。
 でも、凌の世界が、私だけでなくなった。
 広がっていく世界を生きる凌が遠く感じて、寂しくて。
 そんな私に気づいてほしくて、でも言えなくて。

 どこにも旅立てなかった私。

 失うことを恐れて変わることを選ばなかった私は、今、失うことを選んで変わろうとしている。

 なのに、
 それなのに、

 私の心は、こんなにも澱んでくすんで重たい。
 

 私は、息が苦しくなって、外を見ようと小さな窓に顔を近づけた。
 涙でぐちゃぐちゃに崩れた自分の顔の向こう、私の心とは真逆のどこまでも青々と清々しい空を、この目に焼き付ける。
 


 今は、後悔しても、

 いつかきっと、


 私の心が、涙が



 この空のように晴れ渡ると信じてーーーー