*
珍しい人物からメッセージが届いたのは、卒業式の翌日の午後だった。
つまり、俺が旅行に行く前日だ。
「こっちこっち」
約束のファミレスに着くと、奥の席から手を振る千野の姿を捉えて案内の店員に断りを入れて席に向かう。
「悪い、遅くなった」
「ううん、こっちこそ急に呼び出してごめん」
備え付けのボタンで呼び出した店員にドリンクバーを注文して、飲み物を取ってから席に座る。私服姿の千野は、見慣れなくてなんだかしっくりこない。
「親友の彼氏を呼び出すとは、ナニゴトですか千野さん。もしかして、愛の告白?」
「冗談はやめて」
「悪い…」
かすみの話だと思うだけで、どうにかなりそうで、ふざけずにはいられなかった。
「どうせ、かすみのことだろ。ーーー俺、知ってるから…」
「えっ、なにを…?」
「かすみが、K大に行くこと。あと、…」
そこまで言って、口をきつく結ぶ。
言葉にするのが、怖かった。
言葉にしたら、それが現実になってしまいそうで、それを認めてしまうのが、怖い。
正直、かすみがもうすぐいなくなるということに、気持ちが追いついていない。
どうにかしなきゃ、と思いながら、どうにもできない現実に俺は押しつぶされて結局今日まで何もできなかった。
「あと…?」
千野が、おずおずと促す。
「…俺と、別れようとしてること」
かろうじて絞りだした俺の言葉を最後まで聞いた千野は、「そう…」とだけ呟いて下を向いた。何かを考えているような、そんな顔をしている。
俺は、千野の反応から、俺の考えが見当外れではないということを思い知らされ、その現実をどうにか咀嚼しようと必死だった。
でも、その現実を受け止めようとすればするほど、どんよりとした真っ黒い何かが俺の中を埋め尽くしていって、思わず瞑目する。
どす黒い感情に支配されてしまいそうだった。
「K大のこと、いつ知ったの…?」
「S大の合格発表の日。学校に報告しにいった時、たまたま担任が話してるの聞いた」
あの日、いつものメンバーでS大で合格を確認した後、そのまま学校に向かった俺は、樹たちを先に行かせてトイレに寄った。
用を済ませて廊下に出たとき、「榎本」と聞こえて足がとまった。突き当りの角の向こうから先生が話しながらこちらに歩いてきているようで、俺はなんとなくハンカチで手を拭きながらその場にとどまる。
『…ですかぁ、榎本はK大に決まりましたかぁ。頑張りましたね』
『はい、本当によく頑張ってました』
『しかし、高知県は遠いですね』
『そうですね…、勧めた私からはもう頑張れとしか…、お、有岡じゃないか…、どうしたんだそんなところに突っ立って』
思考が、停止していた。
榎本って、俺らの学年にかすみ以外にもう一人いるんだっけ…?
いや、俺の記憶が正しければ、いない。
担任の声で我に返った俺は、一緒に樹たちが待ってるであろう職員室に行って合格の報告を済ませた。
担任や周りの先生からのお祝いの言葉も全然耳に入ってこなくて、俺はずっとぼうっとしていたと思う。
正直、記憶が曖昧だったけれど、打ち上げに行くと言っていた樹たちに謝って先に帰ってきたのだ。
それでも、ずっと前からかすみと二人S大に受かったらお祝いにかすみの好きなペペのミルフィーユを買って一緒に食べようと決めていたから、俺はケーキ屋に寄ってからかすみの家へと向かった。
学校を出るときには、かすみに会って確かめないと、と頭の中で漠然と考えていたけれど、帰る途中から至極冷静に状況を分析している自分がいた。
担任が言っていた榎本は間違いなくかすみの事で、高知県のK大に受かったというのも事実なんだろう。
今確かなのは、かすみが隠していたのはこのことだったんだ、という事実だけ。
何をどうするのかは会ってから決めよう、と考えて俺はかすみの家で帰りを待った。
そして、帰ってきたかすみと話をしてみて、漠然とぼややけていた俺の予想はクリアなものになった。
『美味しい!ミルフィーユはやっぱりペペが一番!』
俺の隣で笑うかすみの笑顔は、風が吹けば崩れ落ちそうなほどにもろくて。
『ありがとう、凌』
そのありがとうは、何への感謝なのか。
『大学、楽しみだね』
どの大学のことを言っているのか。
かすみの口から出る言葉の真意を知るのが怖くて、ただ受け止めるだけで何一つ本人に確かめることなんて出来なかった。
いつから俺たちは、お互いに「言えない」ことが出来てしまったんだろう。
一緒にいたくて一緒にいたのに、どこで間違えたんだろう。
今なら、まだ間に合うのだろうか。
もう一度、初めからに戻れたら、なんてそんな都合の良い話があるわけないのに、願わずにはいられない。
ーーーカシャン
カップとソーサーがぶつかる音で、我に返る。
千野は、コーヒーカップから視線を俺へと向けた。
「ーーー本当は、口止めされてるんだけど…」
まだ、迷いがあるのか、千野は少しの間、口を閉ざし、そして続ける。
「やっぱり、こんな別れ方、よくないと思って」
俺のかすかな希望が千野の一言で砕け散った。
本当は、かすみは俺と別れる気はなくて、ただ単に言い出せないだけなんじゃないか…どうか、そうであってほしいと願う自分がいた。
それは本当に、本当にかすかな一縷の望みだった。
0%に近い可能性を、奇跡を捨てきれずに、かすみが打ち明けてくれるのを今まで待っていた。
でも、それも途絶えてしまった。
今度は、どうして千野が俺を呼んだのか、全てを知るかすみの親友が何を伝えたいのか聞かなくてはと必死で耳を傾ける。
かすみを失くさないためにも。
だけど、千野が放った言葉は、俺の想像をことごとく裏切るものだった。
「明日から、旅行なんでしょ。…かすみはね、明後日には飛行機乗って高知に行っちゃうんだよーーーー」
*
みっともなく、流れた涙を手で拭って立ち上がると、つないだままの手を強引に引っ張りながら停車した急行電車に乗り込んだ。
平日の10時台ということもあり、列車内は空いていて俺とかすみは並んで座ることができた。
ずっと、考えていた。
俺の何がいけなかったんだろう、って。
でも、多分、それがはっきりわからないから、こうなったんだ。
千野から、かすみが今日出発すると聞いた時、頭が真っ白になった。
いくらなんでも出発する時には一言あるだろう、何かしら説明してくれるだろうとなんの根拠もないのになぜだか思い込んでいたのだ。
まさか、かすみが俺に何も言わずに行ってしまうとは頭にもなくて、気持ちが追いつかなかった。
まるで俺の心までも置いてけぼりにされてしまったみたいに。
それでも何とか、樹に旅行のキャンセルを頼んで、心の準備ができないまま、今日を迎えた俺は、電車に乗った今もかすみにかける言葉を必死に探していた。
そんなに、俺と別れたいのか?
わざわざ旅行の日を狙うほど俺に会いたくなかったってことかよ。
別れたいって、一言、たったひとこと言えばいいだけの話じゃないのかよ。
一番理解できなかったのは、別れたいなら、どうしてあの日俺に抱かれたのかということ。
かすみの白い肌に印をつけた後、ベッドの上で必死に我慢する俺をよそに見上げてくるうるんだ瞳。「誘ってんの?」と聞けば無言で俺の胸に飛び込んできたかすみ。
人がやっとの思いで理性をつないでいたっていうのに…。
たまらずかすみのパジャマの下に忍ばせた手に、滑らかな肌は吸い付くように俺を離さなかった。
かすみは、何を考えているんだろうか。
俺に嘘をついてまで高知県の大学を選択したのに、どうして、俺の腕の中で俺を求めて俺に抱かれているんだろう、と。
考えても、わからなかった。
わからなかったけど、そんなことは、どうでも良いと思えるほど俺自身もかすみを欲していた。腕の中で恥ずかしがるかすみの全部を目に焼き付けておきたかった。
だって、もしかしたら、これが最後になるかもしれないから。
その焦燥が、俺を急き立てた。
全部、俺がいけなかったんだ。
千野が別れ際、俺に言った言葉を思い出す。
『香澄は、まだ有岡くんのこと好きなんだよ。好きだけど、離れる選択をしたの。そのツラさ、わかってあげてほしい。ツラいのは、有岡くんだけじゃないんだよ』
わかってる。
つらいのは、かすみだって、わかってる。
遠い県外の大学を選んだのも、別れを告げずに黙って居なくなろうとしたのも、かすみをここまで追い詰めたのは、全部俺のせいだ。
かすみがくれる優しさに甘えて、かすみが苦しんでいることに気づいてあげられなかった。
家族も友達も全部切り離して、一人旅立つその不安や恐怖がどれほどのものか。
そんな選択を、俺がかすみにさせてしまったんだと思うと、いたたまれない。
そしてそれと同時に、かすみを失うことを恐れている自分がいる。
この土壇場にきて、ビビってる。
情けないほど。
だから、かすみの手を離せなかった。
揺れる電車の中、俺の頭を占める言葉はただ一つ。
いかないでくれーーーー
けれど、俺の願いは決して言葉にはならない。
お互い無言のまま、電車は無情にも空港の駅に到着してしまう。
終点のため、全員が下りるのを待って俺も立ち上がった。
右手にはスーツケース、左手にはかすみの手を掴み、俺はすれ違う人たちを避けながら進んだ。
時間は刻一刻と迫っている。
俺の知らない間にカウントダウンはもう始まっていて、飛行機の離陸時間まで残すところ2時間を切っていた。
まだ、信じられない。
俺たちが終わるなんて。
今、こうして俺の手にはかすみがいるのに、あと2時間後にはかすみは空の上で俺から遠く離れてしまうなんて、信じられない。
かすみとの別れが、もうすぐそこまで迫っているという事実だけが目の前に迫っていた。
その事実が、俺に重くのしかかり、心の中は何色もぐちゃぐちゃに混ぜた絵具を塗りたくったような気分だった。
「…とりあえず、先にチェックインする?」
俺の提案に、うん、と頷いてかすみは一人チェックインカウンターへと向かった。
離れた手のぬくもりがどんどん冷めて、急に心細くなり早くも手を離したことを後悔した。
ーーーーもう、俺はかすみの手を二度と握れないのだろうか。
胸が、痛い。
ことあるごとに突きつけられる現実に傷つき、同時に後悔が襲い掛かる。
どうしてもっと早く気づけなかったのか、かすみの変化に気づいてやれなかったのか、悔やんでも悔やみきれない。
これまで生きてきた18年間で、取り返しのつかないことなんてそうそうなかったし、あっても大したことじゃなかったんだ。
ずっと、続くと思って疑いもしなかったんだ。
なのに、俺たちの「終わり」がこんな形でやってくるなんて。
失くしてから気づくことばかりで、大切なことを忘れていた。
かすみがK大に行くと知ってから、何度も見返した二人の写真。スマホにたまったままの、思い出。
付き合いたての頃は、水族館や遊園地とか二人で出かけた先での思い出ばかりだったのが、時間が経つにつれて代わり映えのない家の中や駅ビルのファミレスばかりになって枚数もどんどん減っていった。
スクロールすればするほど、そこにはかすみより樹たちとの写真が幅を利かせて、かすみとの写真を探すほうが難しくなる。
あぁそうか、かすみとのしあわせを壊したのは、俺自身だったんだ、とまざまざと思い知った。
こうなったのも、ずっと一緒だから、いつでも会えるから、当たり前だと決めつけて、大切にしなかった自分の思いやりのなさが招いた結果なんだ。
思い返せばわかることも、こうなった今になってやっと気づく自分が情けなくてどうしようもない。
いくら、幸せだったあの日々を、思い出をなぞるように二人で出かけても、もうあの日の二人には戻れないのに。
『また、行こうな』
叶うことのない約束をする俺に、『いつか行きたいね』なんて曖昧な言葉で返すかすみが恨めしいのに、嫌いになんてなれない。
もしかして、かすかな希望があるのだろうか、と期待せずずにはいられなかった。
かすみの手が離れて寂しさを覚えた手を、上着のポケットに突っ込んだ。何か柔らかいものが、手に当たる。二本の真新しいミサンガだった。
切れたら願いが叶うと言われているミサンガだけど、昔二人で結んだ俺のミサンガは今にも切れそうで心もとなくて、まるで俺たちの関係に思えてならなかった。
だから、もう一つ新たな願いを、今度は二人同じ願いを込めて結ぼうと、かすみに内緒で買ったものだ。前と同じ、駅ビルのアクセサリー店で。
ずっと、渡せずに今日まで来てしまった。
今にも切れそうなミサンガに込めた願いは、
ーーーずっとかすみといられますように。
あの日から今も気持ちは変わらない。
もしも…
もしも、かすみが俺と同じ気持ちなら、とポケットに忍ばせたのだった。
でも、それも、もう…きっと…。
もう戻れない、かすみとのあの日々。
もしも戻れるなら、なんでもするのに。
でも、きっとかすみは、そんなことは望んでないんだろう。
だって、かすみはもう決断したから。
「おまたせ…」
さっきの人混みが嘘のようにはけて少しの待ち時間で戻ってきたかすみと展望デッキへと向かい、空いているベンチを見つけて座る。人はまばらで、小さな子ども連れ家族がちらほらいて飛んでいく飛行機を指さして見上げていた。
冷たい風が俺の頬を撫でて、青い空がよどんだ心を抉る。
乾いた日差しは、まるで俺のすべてを見透かすように降り注いでいた。
「いつから…?」
「ん?」
風の音が二人の邪魔をする。
「いつから、知ってたの…」
そう聞かれて、一瞬悩んだ。
でも、嘘をつくのは性に合わないから、正直に応える。千野に話したのと同じように説明すると、かすみが息を呑むのがわかった。
どう思ったのかまでは推し量れない。そんな力量があれば、端からこんなことにはなっていなかっただろう。
かすみが高知県に行くと知った日から1週間、俺はなんにも手がつかなくて、樹たちと遊んでても全然楽しめなかった。
かすみがいなくなる。
その事実を飲み込むまで、1週間。
いや、飲み込むことなんて、受け入れることなんて、とてもじゃないけど出来なかった。
正直、最初はかすみに怒りを感じた。なんで、俺をだますようなことするんだって。
でも、その選択をした理由があるはずで、どうして言わないのか、俺のことが嫌いになったのか。
理由はいくつか考えられたけど、もともと物事を深く考えられない質の俺は、途中から考えても仕方ないなってあきらめに似た思考に至った。
だって、かすみの進む道の先に、俺はいないからーーーー
これまで抱いていた違和感とかすみの涙、壊れそうな笑顔、言えない本心。
パズルのピースが一つひとつ音を立ててハマっていくかのように、つながってしまった。
なら…自分は、かすみの選んだ道を尊重するべきなんじゃないか。
幼馴染として、家族として、かすみの未来を応援してやろう、それが、俺がかすみにできるせめてもの餞(はなむけ)かもしれない。
強がり以外のなにものでもなかったけど、もう、自分に残された最善の選択肢はそれしかなかった。
もちろん、ずっと、かすみの気が変わらないだろうかと願っていた。
けど、それは叶うことのない願いだということもわかっていたから。
「お前って、昔から一度決めたら突き進むタイプだからなぁ」
だったら、もう、突き放されない限りは、かすみと一緒にいたいっていう自分の気持ちに素直になって開き直った。
ひたすらに。
ただ、ひたすらに、かすみとの時間を求めていた。
いなくなるとわかった途端に、惜しむなんて。
かすみとの時間を無駄にしていたことに、こうなるまで気づかなかった。
昔は何よりも大切にしていたかすみとの時間。
無理やりにでも作ってたのに、気づけば慣れておざなりになって、いつでも会えるからと後回しにしていた。
誰にも取られたくなくて、一緒にいたくて一緒にいたのに。
かすみが俺のそばにいる「当たり前」を失った。
「ーーーどうして、怒らないの…」
消え入りそうな声でかすみが言った。
何かにおびえているような声だ。もしかして、俺に罵られるとでも思ってびくついているのだろうか。
「なにを」
なんて、聞かなくてもわかってるのに、あえて聞き返す俺に、「黙ってたこと」とかすみが短く答える。
「俺に怒る資格、ないだろ」
極力ゆっくりとした口調を意識して、続ける。
そうじゃないと、思いの丈を全部かすみにぶつけてしまいそうだから。
そんなことをすれば、かすみをもっと傷つけてしまいかねない。
「ごめん、気づいてやれなくて…」
「やだ、やめて…謝らないで。悪いのは全部私なんだから…」
「かすみは、悪くないだろ。悪いのは俺だ」
「違うっ!…っ」
ハッとしたように、口をつぐむかすみ。
必死に感情を抑えようとしている。
「違くない。かすみが俺のそばにいられなくなったのは、俺のせいだろ。かすみは、なにも変わってないじゃないか。俺がかすみの優しさに甘えてかすみのこと大切にできなかったんだ。かすみがツラいのに、気づいてやれなかった俺が悪いんだ」
「ちがう…、そうじゃない」
そう言って、かすみは両手で顔を覆ってしまった。
肩が震えているのに気づき、思わず抱き寄せた。
振り払われるかもしれない、と躊躇いもあったけれど、そうせずにはいられなかった。
細い肩、いつものシャンプーの匂い、すぐ絡まる細い猫毛。
全部、全部、いつもと変わらないかすみなのに。
全てが、変わろうとしている。
確かめなくてはいけないことがあった。
卒業式の後の誰も居ない教室で俺が言えなかった言葉で、かすみが最後まで俺に言わずに旅立とうとしている言葉だ。
それを聞いたら、全てが終わってしまう。
でも、きっと、俺はそれをかすみの口から聞かなくてはならない。
そう感じて、俺は口を開いた。
「なぁ、かすみ」
声はかすれて、情けないことに、震えていた。
「…俺たち、もう終わりなの?」
珍しい人物からメッセージが届いたのは、卒業式の翌日の午後だった。
つまり、俺が旅行に行く前日だ。
「こっちこっち」
約束のファミレスに着くと、奥の席から手を振る千野の姿を捉えて案内の店員に断りを入れて席に向かう。
「悪い、遅くなった」
「ううん、こっちこそ急に呼び出してごめん」
備え付けのボタンで呼び出した店員にドリンクバーを注文して、飲み物を取ってから席に座る。私服姿の千野は、見慣れなくてなんだかしっくりこない。
「親友の彼氏を呼び出すとは、ナニゴトですか千野さん。もしかして、愛の告白?」
「冗談はやめて」
「悪い…」
かすみの話だと思うだけで、どうにかなりそうで、ふざけずにはいられなかった。
「どうせ、かすみのことだろ。ーーー俺、知ってるから…」
「えっ、なにを…?」
「かすみが、K大に行くこと。あと、…」
そこまで言って、口をきつく結ぶ。
言葉にするのが、怖かった。
言葉にしたら、それが現実になってしまいそうで、それを認めてしまうのが、怖い。
正直、かすみがもうすぐいなくなるということに、気持ちが追いついていない。
どうにかしなきゃ、と思いながら、どうにもできない現実に俺は押しつぶされて結局今日まで何もできなかった。
「あと…?」
千野が、おずおずと促す。
「…俺と、別れようとしてること」
かろうじて絞りだした俺の言葉を最後まで聞いた千野は、「そう…」とだけ呟いて下を向いた。何かを考えているような、そんな顔をしている。
俺は、千野の反応から、俺の考えが見当外れではないということを思い知らされ、その現実をどうにか咀嚼しようと必死だった。
でも、その現実を受け止めようとすればするほど、どんよりとした真っ黒い何かが俺の中を埋め尽くしていって、思わず瞑目する。
どす黒い感情に支配されてしまいそうだった。
「K大のこと、いつ知ったの…?」
「S大の合格発表の日。学校に報告しにいった時、たまたま担任が話してるの聞いた」
あの日、いつものメンバーでS大で合格を確認した後、そのまま学校に向かった俺は、樹たちを先に行かせてトイレに寄った。
用を済ませて廊下に出たとき、「榎本」と聞こえて足がとまった。突き当りの角の向こうから先生が話しながらこちらに歩いてきているようで、俺はなんとなくハンカチで手を拭きながらその場にとどまる。
『…ですかぁ、榎本はK大に決まりましたかぁ。頑張りましたね』
『はい、本当によく頑張ってました』
『しかし、高知県は遠いですね』
『そうですね…、勧めた私からはもう頑張れとしか…、お、有岡じゃないか…、どうしたんだそんなところに突っ立って』
思考が、停止していた。
榎本って、俺らの学年にかすみ以外にもう一人いるんだっけ…?
いや、俺の記憶が正しければ、いない。
担任の声で我に返った俺は、一緒に樹たちが待ってるであろう職員室に行って合格の報告を済ませた。
担任や周りの先生からのお祝いの言葉も全然耳に入ってこなくて、俺はずっとぼうっとしていたと思う。
正直、記憶が曖昧だったけれど、打ち上げに行くと言っていた樹たちに謝って先に帰ってきたのだ。
それでも、ずっと前からかすみと二人S大に受かったらお祝いにかすみの好きなペペのミルフィーユを買って一緒に食べようと決めていたから、俺はケーキ屋に寄ってからかすみの家へと向かった。
学校を出るときには、かすみに会って確かめないと、と頭の中で漠然と考えていたけれど、帰る途中から至極冷静に状況を分析している自分がいた。
担任が言っていた榎本は間違いなくかすみの事で、高知県のK大に受かったというのも事実なんだろう。
今確かなのは、かすみが隠していたのはこのことだったんだ、という事実だけ。
何をどうするのかは会ってから決めよう、と考えて俺はかすみの家で帰りを待った。
そして、帰ってきたかすみと話をしてみて、漠然とぼややけていた俺の予想はクリアなものになった。
『美味しい!ミルフィーユはやっぱりペペが一番!』
俺の隣で笑うかすみの笑顔は、風が吹けば崩れ落ちそうなほどにもろくて。
『ありがとう、凌』
そのありがとうは、何への感謝なのか。
『大学、楽しみだね』
どの大学のことを言っているのか。
かすみの口から出る言葉の真意を知るのが怖くて、ただ受け止めるだけで何一つ本人に確かめることなんて出来なかった。
いつから俺たちは、お互いに「言えない」ことが出来てしまったんだろう。
一緒にいたくて一緒にいたのに、どこで間違えたんだろう。
今なら、まだ間に合うのだろうか。
もう一度、初めからに戻れたら、なんてそんな都合の良い話があるわけないのに、願わずにはいられない。
ーーーカシャン
カップとソーサーがぶつかる音で、我に返る。
千野は、コーヒーカップから視線を俺へと向けた。
「ーーー本当は、口止めされてるんだけど…」
まだ、迷いがあるのか、千野は少しの間、口を閉ざし、そして続ける。
「やっぱり、こんな別れ方、よくないと思って」
俺のかすかな希望が千野の一言で砕け散った。
本当は、かすみは俺と別れる気はなくて、ただ単に言い出せないだけなんじゃないか…どうか、そうであってほしいと願う自分がいた。
それは本当に、本当にかすかな一縷の望みだった。
0%に近い可能性を、奇跡を捨てきれずに、かすみが打ち明けてくれるのを今まで待っていた。
でも、それも途絶えてしまった。
今度は、どうして千野が俺を呼んだのか、全てを知るかすみの親友が何を伝えたいのか聞かなくてはと必死で耳を傾ける。
かすみを失くさないためにも。
だけど、千野が放った言葉は、俺の想像をことごとく裏切るものだった。
「明日から、旅行なんでしょ。…かすみはね、明後日には飛行機乗って高知に行っちゃうんだよーーーー」
*
みっともなく、流れた涙を手で拭って立ち上がると、つないだままの手を強引に引っ張りながら停車した急行電車に乗り込んだ。
平日の10時台ということもあり、列車内は空いていて俺とかすみは並んで座ることができた。
ずっと、考えていた。
俺の何がいけなかったんだろう、って。
でも、多分、それがはっきりわからないから、こうなったんだ。
千野から、かすみが今日出発すると聞いた時、頭が真っ白になった。
いくらなんでも出発する時には一言あるだろう、何かしら説明してくれるだろうとなんの根拠もないのになぜだか思い込んでいたのだ。
まさか、かすみが俺に何も言わずに行ってしまうとは頭にもなくて、気持ちが追いつかなかった。
まるで俺の心までも置いてけぼりにされてしまったみたいに。
それでも何とか、樹に旅行のキャンセルを頼んで、心の準備ができないまま、今日を迎えた俺は、電車に乗った今もかすみにかける言葉を必死に探していた。
そんなに、俺と別れたいのか?
わざわざ旅行の日を狙うほど俺に会いたくなかったってことかよ。
別れたいって、一言、たったひとこと言えばいいだけの話じゃないのかよ。
一番理解できなかったのは、別れたいなら、どうしてあの日俺に抱かれたのかということ。
かすみの白い肌に印をつけた後、ベッドの上で必死に我慢する俺をよそに見上げてくるうるんだ瞳。「誘ってんの?」と聞けば無言で俺の胸に飛び込んできたかすみ。
人がやっとの思いで理性をつないでいたっていうのに…。
たまらずかすみのパジャマの下に忍ばせた手に、滑らかな肌は吸い付くように俺を離さなかった。
かすみは、何を考えているんだろうか。
俺に嘘をついてまで高知県の大学を選択したのに、どうして、俺の腕の中で俺を求めて俺に抱かれているんだろう、と。
考えても、わからなかった。
わからなかったけど、そんなことは、どうでも良いと思えるほど俺自身もかすみを欲していた。腕の中で恥ずかしがるかすみの全部を目に焼き付けておきたかった。
だって、もしかしたら、これが最後になるかもしれないから。
その焦燥が、俺を急き立てた。
全部、俺がいけなかったんだ。
千野が別れ際、俺に言った言葉を思い出す。
『香澄は、まだ有岡くんのこと好きなんだよ。好きだけど、離れる選択をしたの。そのツラさ、わかってあげてほしい。ツラいのは、有岡くんだけじゃないんだよ』
わかってる。
つらいのは、かすみだって、わかってる。
遠い県外の大学を選んだのも、別れを告げずに黙って居なくなろうとしたのも、かすみをここまで追い詰めたのは、全部俺のせいだ。
かすみがくれる優しさに甘えて、かすみが苦しんでいることに気づいてあげられなかった。
家族も友達も全部切り離して、一人旅立つその不安や恐怖がどれほどのものか。
そんな選択を、俺がかすみにさせてしまったんだと思うと、いたたまれない。
そしてそれと同時に、かすみを失うことを恐れている自分がいる。
この土壇場にきて、ビビってる。
情けないほど。
だから、かすみの手を離せなかった。
揺れる電車の中、俺の頭を占める言葉はただ一つ。
いかないでくれーーーー
けれど、俺の願いは決して言葉にはならない。
お互い無言のまま、電車は無情にも空港の駅に到着してしまう。
終点のため、全員が下りるのを待って俺も立ち上がった。
右手にはスーツケース、左手にはかすみの手を掴み、俺はすれ違う人たちを避けながら進んだ。
時間は刻一刻と迫っている。
俺の知らない間にカウントダウンはもう始まっていて、飛行機の離陸時間まで残すところ2時間を切っていた。
まだ、信じられない。
俺たちが終わるなんて。
今、こうして俺の手にはかすみがいるのに、あと2時間後にはかすみは空の上で俺から遠く離れてしまうなんて、信じられない。
かすみとの別れが、もうすぐそこまで迫っているという事実だけが目の前に迫っていた。
その事実が、俺に重くのしかかり、心の中は何色もぐちゃぐちゃに混ぜた絵具を塗りたくったような気分だった。
「…とりあえず、先にチェックインする?」
俺の提案に、うん、と頷いてかすみは一人チェックインカウンターへと向かった。
離れた手のぬくもりがどんどん冷めて、急に心細くなり早くも手を離したことを後悔した。
ーーーーもう、俺はかすみの手を二度と握れないのだろうか。
胸が、痛い。
ことあるごとに突きつけられる現実に傷つき、同時に後悔が襲い掛かる。
どうしてもっと早く気づけなかったのか、かすみの変化に気づいてやれなかったのか、悔やんでも悔やみきれない。
これまで生きてきた18年間で、取り返しのつかないことなんてそうそうなかったし、あっても大したことじゃなかったんだ。
ずっと、続くと思って疑いもしなかったんだ。
なのに、俺たちの「終わり」がこんな形でやってくるなんて。
失くしてから気づくことばかりで、大切なことを忘れていた。
かすみがK大に行くと知ってから、何度も見返した二人の写真。スマホにたまったままの、思い出。
付き合いたての頃は、水族館や遊園地とか二人で出かけた先での思い出ばかりだったのが、時間が経つにつれて代わり映えのない家の中や駅ビルのファミレスばかりになって枚数もどんどん減っていった。
スクロールすればするほど、そこにはかすみより樹たちとの写真が幅を利かせて、かすみとの写真を探すほうが難しくなる。
あぁそうか、かすみとのしあわせを壊したのは、俺自身だったんだ、とまざまざと思い知った。
こうなったのも、ずっと一緒だから、いつでも会えるから、当たり前だと決めつけて、大切にしなかった自分の思いやりのなさが招いた結果なんだ。
思い返せばわかることも、こうなった今になってやっと気づく自分が情けなくてどうしようもない。
いくら、幸せだったあの日々を、思い出をなぞるように二人で出かけても、もうあの日の二人には戻れないのに。
『また、行こうな』
叶うことのない約束をする俺に、『いつか行きたいね』なんて曖昧な言葉で返すかすみが恨めしいのに、嫌いになんてなれない。
もしかして、かすかな希望があるのだろうか、と期待せずずにはいられなかった。
かすみの手が離れて寂しさを覚えた手を、上着のポケットに突っ込んだ。何か柔らかいものが、手に当たる。二本の真新しいミサンガだった。
切れたら願いが叶うと言われているミサンガだけど、昔二人で結んだ俺のミサンガは今にも切れそうで心もとなくて、まるで俺たちの関係に思えてならなかった。
だから、もう一つ新たな願いを、今度は二人同じ願いを込めて結ぼうと、かすみに内緒で買ったものだ。前と同じ、駅ビルのアクセサリー店で。
ずっと、渡せずに今日まで来てしまった。
今にも切れそうなミサンガに込めた願いは、
ーーーずっとかすみといられますように。
あの日から今も気持ちは変わらない。
もしも…
もしも、かすみが俺と同じ気持ちなら、とポケットに忍ばせたのだった。
でも、それも、もう…きっと…。
もう戻れない、かすみとのあの日々。
もしも戻れるなら、なんでもするのに。
でも、きっとかすみは、そんなことは望んでないんだろう。
だって、かすみはもう決断したから。
「おまたせ…」
さっきの人混みが嘘のようにはけて少しの待ち時間で戻ってきたかすみと展望デッキへと向かい、空いているベンチを見つけて座る。人はまばらで、小さな子ども連れ家族がちらほらいて飛んでいく飛行機を指さして見上げていた。
冷たい風が俺の頬を撫でて、青い空がよどんだ心を抉る。
乾いた日差しは、まるで俺のすべてを見透かすように降り注いでいた。
「いつから…?」
「ん?」
風の音が二人の邪魔をする。
「いつから、知ってたの…」
そう聞かれて、一瞬悩んだ。
でも、嘘をつくのは性に合わないから、正直に応える。千野に話したのと同じように説明すると、かすみが息を呑むのがわかった。
どう思ったのかまでは推し量れない。そんな力量があれば、端からこんなことにはなっていなかっただろう。
かすみが高知県に行くと知った日から1週間、俺はなんにも手がつかなくて、樹たちと遊んでても全然楽しめなかった。
かすみがいなくなる。
その事実を飲み込むまで、1週間。
いや、飲み込むことなんて、受け入れることなんて、とてもじゃないけど出来なかった。
正直、最初はかすみに怒りを感じた。なんで、俺をだますようなことするんだって。
でも、その選択をした理由があるはずで、どうして言わないのか、俺のことが嫌いになったのか。
理由はいくつか考えられたけど、もともと物事を深く考えられない質の俺は、途中から考えても仕方ないなってあきらめに似た思考に至った。
だって、かすみの進む道の先に、俺はいないからーーーー
これまで抱いていた違和感とかすみの涙、壊れそうな笑顔、言えない本心。
パズルのピースが一つひとつ音を立ててハマっていくかのように、つながってしまった。
なら…自分は、かすみの選んだ道を尊重するべきなんじゃないか。
幼馴染として、家族として、かすみの未来を応援してやろう、それが、俺がかすみにできるせめてもの餞(はなむけ)かもしれない。
強がり以外のなにものでもなかったけど、もう、自分に残された最善の選択肢はそれしかなかった。
もちろん、ずっと、かすみの気が変わらないだろうかと願っていた。
けど、それは叶うことのない願いだということもわかっていたから。
「お前って、昔から一度決めたら突き進むタイプだからなぁ」
だったら、もう、突き放されない限りは、かすみと一緒にいたいっていう自分の気持ちに素直になって開き直った。
ひたすらに。
ただ、ひたすらに、かすみとの時間を求めていた。
いなくなるとわかった途端に、惜しむなんて。
かすみとの時間を無駄にしていたことに、こうなるまで気づかなかった。
昔は何よりも大切にしていたかすみとの時間。
無理やりにでも作ってたのに、気づけば慣れておざなりになって、いつでも会えるからと後回しにしていた。
誰にも取られたくなくて、一緒にいたくて一緒にいたのに。
かすみが俺のそばにいる「当たり前」を失った。
「ーーーどうして、怒らないの…」
消え入りそうな声でかすみが言った。
何かにおびえているような声だ。もしかして、俺に罵られるとでも思ってびくついているのだろうか。
「なにを」
なんて、聞かなくてもわかってるのに、あえて聞き返す俺に、「黙ってたこと」とかすみが短く答える。
「俺に怒る資格、ないだろ」
極力ゆっくりとした口調を意識して、続ける。
そうじゃないと、思いの丈を全部かすみにぶつけてしまいそうだから。
そんなことをすれば、かすみをもっと傷つけてしまいかねない。
「ごめん、気づいてやれなくて…」
「やだ、やめて…謝らないで。悪いのは全部私なんだから…」
「かすみは、悪くないだろ。悪いのは俺だ」
「違うっ!…っ」
ハッとしたように、口をつぐむかすみ。
必死に感情を抑えようとしている。
「違くない。かすみが俺のそばにいられなくなったのは、俺のせいだろ。かすみは、なにも変わってないじゃないか。俺がかすみの優しさに甘えてかすみのこと大切にできなかったんだ。かすみがツラいのに、気づいてやれなかった俺が悪いんだ」
「ちがう…、そうじゃない」
そう言って、かすみは両手で顔を覆ってしまった。
肩が震えているのに気づき、思わず抱き寄せた。
振り払われるかもしれない、と躊躇いもあったけれど、そうせずにはいられなかった。
細い肩、いつものシャンプーの匂い、すぐ絡まる細い猫毛。
全部、全部、いつもと変わらないかすみなのに。
全てが、変わろうとしている。
確かめなくてはいけないことがあった。
卒業式の後の誰も居ない教室で俺が言えなかった言葉で、かすみが最後まで俺に言わずに旅立とうとしている言葉だ。
それを聞いたら、全てが終わってしまう。
でも、きっと、俺はそれをかすみの口から聞かなくてはならない。
そう感じて、俺は口を開いた。
「なぁ、かすみ」
声はかすれて、情けないことに、震えていた。
「…俺たち、もう終わりなの?」