とうとう、この日が来た。
出発の日だ。
今となっては、過ぎた日はあっという間だったと思えるけれど、やはりとても長かった。
K大受験を決意したのは、夏休み直前。
その時は、正直受けるだけ受けて、どうするかはその時考えれば良いやくらいに考えていたのだけど、時が経つにつれて私の意志はどんどん固まっていった。
冬の予備校も必死だったし、家での受験勉強だって頑張ってきたから、合格できたことを本当に、心から喜んだ。
なのにーーーー
私の心は、全然晴れない。
もやもやとした得体のしれない不安で覆いつくされている。
家族と離れて暮らすのも、一人で飛行機に乗るのも、これから始まる大学生活も、何もかもが初めてなんだからそれも仕方ない、と自分の中で折りを付けた。
「本当に、空港まで送っていかなくて大丈夫?」
自室で最後の荷物チェックを終えた頃、母がドアから顔を覗かせた。
「うん、大丈夫。駅もすぐそこだし、荷物もこれだけだしね」
「そう…。お父さんの休みの日にすれば私たちも一緒に高知まで行ったのに…、何もわざわざ平日を選んで行くことないじゃない」
ぶつぶつと言いながら、母は部屋に入ると勉強机の椅子に腰を下ろす。
父には申し訳ないけど、母はただ単に娘の門出にかこつけて高知旅行を楽しみたいだけなのも私はちゃんとわかっているのでスルーだ。
「ごめんって」
「かすみも意地っ張りよねぇ…誰に似たんだか」
多分、母はなぜ今日なのか、その理由に気づいている。それでもあえて口にしないのは、母なりの優しさだと捉えておいた。
「お母さん」
「なぁに」
「いろいろと心配かけて、ごめんね」
目を丸くする母に、私は続ける。
「心配してくれて、ありがとう」
「ちょっとやだ…、不意打ちやめてよ」
「も~、涙もろいんだから」
テーブルの上のボックスティッシュを差し出してあげると、母は一枚とって涙を拭いてついでに鼻もかむ。
「まぁ、あれよ、子どもの心配するのが親の仕事だから」
ずずっと鼻をすすりながらそう言って、母は立ち上がると部屋から出ていった。
閉じたドアの向こうから届いた「忘れ物ないようにね」という母の声に返事を返してから、私も立ち上がって部屋を見渡す。
不思議なことに、見慣れた自分の部屋に既に懐かしさを感じていた。
物心ついた頃からずっと暮らした部屋だから、たくさんの思い出や思い入れがあって、しばらく見納めになるのかと思うと、それらがハイライトとなって脳内を駆け巡った。
そして、その大多数を占めるのは、凌との時間。
私の18年間という月日の多くを一緒に過ごした凌は、やっぱりもう家族で、私の人生の一部だ。
切り離すことなど、無かったことになどできるはずもないと、また思い知らされる。
私は、それらを振り切るように、スーツケースを握りしめて部屋を後にした。
駅まで見送ると言う母の申し出を断り、私はひとりで家を出た。
高校3年間、凌と一緒に歩いた道を進み、見慣れた景色を眺めながら歩けば、またしても走馬灯のようにこれまでの事が浮かんでは消えていく。
あぁ、本当にお別れなんだ。
じんわりと、胸の奥から色々な気持ちがこみ上げて広がった。
寂しさ、不安、恐怖、そして、これまで私に関わってくれた人達への感謝。
離れてしまうのが、怖い。
想像していたよりも、ずっと。
たくさんの大切が詰まったこの街から離れるのは、怖い。
あれほど、遠く離れることを願ったのに。
気づけば、駅前の大通りにまで来ていて、私は思わず立ち止まった。
この目の前の地下通路を潜り抜ければ駅にたどり着いてしまう。
よし、と意を決して歩を進めた私は目を疑った。
「…な、んで…」
なんで、いるの。
ここにいるはずのない人の姿がそこにあって、心臓が止まるかと思うくらいびっくりした。
地下通路の階段の途中、壁に背をもたれさせた凌は、私に気づくと「よう」と片手をあげてみせた。
さらに信じられないことに、その顔には、笑みが浮かんでいる。
驚きと混乱で足が棒のように固まって動けなかった。いつまでたっても降りてこない私にしびれを切らしたのか、凌は階段を一段飛ばしにささっと昇って私の目の前までやってきた。
「10時半の急行だろ?」
「え」
「それ、貸せよ」と、私の手からスーツケースを奪い、そして空いた手を掴むようにつないで、私を引っ張った。
「待って!」
理解できない私は思い切り凌の手を振り払う。
「旅行は?!」
体中の息を吐き出すようにして声を振り絞った。
昨日から一泊二日のスノーボード旅行のはずで、帰ってくるのは今日の夜中のはず。
私が今日を選んだのは、凌に会いたくなかったから。
だからわざわざお父さんも仕事の平日を選んだの。
なのに、なんでいるの。
「やめた」
「どうして…」
視線が合わさる。数段下に立つ凌と目線が同じだった。
優しく私を見つめる凌。
どうして、笑ってるの。
どうして、ここに居るの。
言いたいことはたくさんあるのに、口が動かない。
あんなに楽しみにしていた旅行をキャンセルしてここにいるということは、私が旅立つことを凌は知っているのだろう。その事実が全てを物語っていた。
なんで今日旅立つことを知っているのか、それも気にはなったけどそんなことはもはやどうでもいい。
最後の最後まで凌に残酷なことをしてしまったということに変わりはないのだから。
「ほら、行くぞ」
また、手を引っ張られた。
今度はしっかりと握られて振りほどけなくて、私はそのまま凌の後ろをついていく。
手が、あたたかい。
凌の手、こんなに大きかったかな。ついこの間つないだはずなのに、私の手をすっぽりと覆ってしまう凌の手にそんなことを思う。
あぁ、もう、こうして手をつなぐことも出来ないのか。
俯いた拍子、重力に逆らえない涙がまつ毛を通ってぽたりと落ちていった。
泣いちゃ、ダメだ。
泣く資格なんて私にはない。
残りの涙を振り落とす様にぎゅっと目を閉じた。
改札口で別れるのかと思っていたのに、凌はICカードで自分も改札を通りすぎていく。そして電子掲示板を見上げると、羽田空港行きの急行が停まる5番線のホームに進み空いているベンチに二人で腰掛けた。
言葉を交わすことなく時間だけが過ぎていった。
その間も、ホーム内には電車の到着を知らせるアナウンスや警笛、行き交う人の声がひっきりなしに響いて二人を囲む。
私の乗る電車の到着を知らせるアナウンスが鳴ったとき、つないだ手に力が込められた。
痛いほどに、ぎゅうっと握りしめられて、まるで私の心まで掴まれているようで胸が苦しい。
どうして、ずっと握っててくれなかったの。
どうして、今になって離してくれないの。
ずっと、一人で泣いてたんだよ。
凌との幸せな日々を思い出して、これまで気持ちをなんとかつないできたの。
それでもツラくて、我慢できなくなって、凌とのことを忘れたくて涙を流してきた。
涙に思い出を詰め込んで、全部流せてしまえたらどんなに楽だろうってずっと思ってた。
なのに、どうして今さら…
どうして、どうしてーーーー
「ーーー空港まで送ってくから」
「えっ…こ、ここまでで大丈夫…」
何のために、今日という日を選んだと思ってるの。
凌に知られたくなかったからだよ。
それに、これ以上凌に迷惑は掛けられない。
「ーーーい……て、…から」
「え?なに?」
凌の声が、通過する列車の走行音にかき消される。
聞き逃さないように、と私は彼の横顔へと顔を向けた。
「見送りくらい、させて…頼むから…っ」
絞りだされた声が、私に突き刺さる。見上げた視線の先、見たこともない表情の凌を見た瞬間、まるで全身をナイフで切りつけられたかのような痛みに襲われた。
凌が、泣いているーーーー
目を覆った手の隙間を縫って零れ落ちた涙が、凌の頬を濡らしていた。その横顔は酷く苦しさにゆがんでいる。
初めて見る凌の涙に、私は絶句する。
なんにも、わかってなかった。
覚悟したつもりでいたけど、足りない。全然足りない。
自分のせいで傷つく凌を見たくなかった。
自分がどれほど卑怯で卑劣で最低な人間かを、思い知らされるのが嫌だから、居なくなるまでこのことは知られたくなかった。今日も会いたくなかった。
最低だ、私。
どこまでも、身勝手な自分に、嫌気がさす。
ごめんなさい。
泣かないで。
あぁーーーー
凌に、かける言葉がみつからない。
出発の日だ。
今となっては、過ぎた日はあっという間だったと思えるけれど、やはりとても長かった。
K大受験を決意したのは、夏休み直前。
その時は、正直受けるだけ受けて、どうするかはその時考えれば良いやくらいに考えていたのだけど、時が経つにつれて私の意志はどんどん固まっていった。
冬の予備校も必死だったし、家での受験勉強だって頑張ってきたから、合格できたことを本当に、心から喜んだ。
なのにーーーー
私の心は、全然晴れない。
もやもやとした得体のしれない不安で覆いつくされている。
家族と離れて暮らすのも、一人で飛行機に乗るのも、これから始まる大学生活も、何もかもが初めてなんだからそれも仕方ない、と自分の中で折りを付けた。
「本当に、空港まで送っていかなくて大丈夫?」
自室で最後の荷物チェックを終えた頃、母がドアから顔を覗かせた。
「うん、大丈夫。駅もすぐそこだし、荷物もこれだけだしね」
「そう…。お父さんの休みの日にすれば私たちも一緒に高知まで行ったのに…、何もわざわざ平日を選んで行くことないじゃない」
ぶつぶつと言いながら、母は部屋に入ると勉強机の椅子に腰を下ろす。
父には申し訳ないけど、母はただ単に娘の門出にかこつけて高知旅行を楽しみたいだけなのも私はちゃんとわかっているのでスルーだ。
「ごめんって」
「かすみも意地っ張りよねぇ…誰に似たんだか」
多分、母はなぜ今日なのか、その理由に気づいている。それでもあえて口にしないのは、母なりの優しさだと捉えておいた。
「お母さん」
「なぁに」
「いろいろと心配かけて、ごめんね」
目を丸くする母に、私は続ける。
「心配してくれて、ありがとう」
「ちょっとやだ…、不意打ちやめてよ」
「も~、涙もろいんだから」
テーブルの上のボックスティッシュを差し出してあげると、母は一枚とって涙を拭いてついでに鼻もかむ。
「まぁ、あれよ、子どもの心配するのが親の仕事だから」
ずずっと鼻をすすりながらそう言って、母は立ち上がると部屋から出ていった。
閉じたドアの向こうから届いた「忘れ物ないようにね」という母の声に返事を返してから、私も立ち上がって部屋を見渡す。
不思議なことに、見慣れた自分の部屋に既に懐かしさを感じていた。
物心ついた頃からずっと暮らした部屋だから、たくさんの思い出や思い入れがあって、しばらく見納めになるのかと思うと、それらがハイライトとなって脳内を駆け巡った。
そして、その大多数を占めるのは、凌との時間。
私の18年間という月日の多くを一緒に過ごした凌は、やっぱりもう家族で、私の人生の一部だ。
切り離すことなど、無かったことになどできるはずもないと、また思い知らされる。
私は、それらを振り切るように、スーツケースを握りしめて部屋を後にした。
駅まで見送ると言う母の申し出を断り、私はひとりで家を出た。
高校3年間、凌と一緒に歩いた道を進み、見慣れた景色を眺めながら歩けば、またしても走馬灯のようにこれまでの事が浮かんでは消えていく。
あぁ、本当にお別れなんだ。
じんわりと、胸の奥から色々な気持ちがこみ上げて広がった。
寂しさ、不安、恐怖、そして、これまで私に関わってくれた人達への感謝。
離れてしまうのが、怖い。
想像していたよりも、ずっと。
たくさんの大切が詰まったこの街から離れるのは、怖い。
あれほど、遠く離れることを願ったのに。
気づけば、駅前の大通りにまで来ていて、私は思わず立ち止まった。
この目の前の地下通路を潜り抜ければ駅にたどり着いてしまう。
よし、と意を決して歩を進めた私は目を疑った。
「…な、んで…」
なんで、いるの。
ここにいるはずのない人の姿がそこにあって、心臓が止まるかと思うくらいびっくりした。
地下通路の階段の途中、壁に背をもたれさせた凌は、私に気づくと「よう」と片手をあげてみせた。
さらに信じられないことに、その顔には、笑みが浮かんでいる。
驚きと混乱で足が棒のように固まって動けなかった。いつまでたっても降りてこない私にしびれを切らしたのか、凌は階段を一段飛ばしにささっと昇って私の目の前までやってきた。
「10時半の急行だろ?」
「え」
「それ、貸せよ」と、私の手からスーツケースを奪い、そして空いた手を掴むようにつないで、私を引っ張った。
「待って!」
理解できない私は思い切り凌の手を振り払う。
「旅行は?!」
体中の息を吐き出すようにして声を振り絞った。
昨日から一泊二日のスノーボード旅行のはずで、帰ってくるのは今日の夜中のはず。
私が今日を選んだのは、凌に会いたくなかったから。
だからわざわざお父さんも仕事の平日を選んだの。
なのに、なんでいるの。
「やめた」
「どうして…」
視線が合わさる。数段下に立つ凌と目線が同じだった。
優しく私を見つめる凌。
どうして、笑ってるの。
どうして、ここに居るの。
言いたいことはたくさんあるのに、口が動かない。
あんなに楽しみにしていた旅行をキャンセルしてここにいるということは、私が旅立つことを凌は知っているのだろう。その事実が全てを物語っていた。
なんで今日旅立つことを知っているのか、それも気にはなったけどそんなことはもはやどうでもいい。
最後の最後まで凌に残酷なことをしてしまったということに変わりはないのだから。
「ほら、行くぞ」
また、手を引っ張られた。
今度はしっかりと握られて振りほどけなくて、私はそのまま凌の後ろをついていく。
手が、あたたかい。
凌の手、こんなに大きかったかな。ついこの間つないだはずなのに、私の手をすっぽりと覆ってしまう凌の手にそんなことを思う。
あぁ、もう、こうして手をつなぐことも出来ないのか。
俯いた拍子、重力に逆らえない涙がまつ毛を通ってぽたりと落ちていった。
泣いちゃ、ダメだ。
泣く資格なんて私にはない。
残りの涙を振り落とす様にぎゅっと目を閉じた。
改札口で別れるのかと思っていたのに、凌はICカードで自分も改札を通りすぎていく。そして電子掲示板を見上げると、羽田空港行きの急行が停まる5番線のホームに進み空いているベンチに二人で腰掛けた。
言葉を交わすことなく時間だけが過ぎていった。
その間も、ホーム内には電車の到着を知らせるアナウンスや警笛、行き交う人の声がひっきりなしに響いて二人を囲む。
私の乗る電車の到着を知らせるアナウンスが鳴ったとき、つないだ手に力が込められた。
痛いほどに、ぎゅうっと握りしめられて、まるで私の心まで掴まれているようで胸が苦しい。
どうして、ずっと握っててくれなかったの。
どうして、今になって離してくれないの。
ずっと、一人で泣いてたんだよ。
凌との幸せな日々を思い出して、これまで気持ちをなんとかつないできたの。
それでもツラくて、我慢できなくなって、凌とのことを忘れたくて涙を流してきた。
涙に思い出を詰め込んで、全部流せてしまえたらどんなに楽だろうってずっと思ってた。
なのに、どうして今さら…
どうして、どうしてーーーー
「ーーー空港まで送ってくから」
「えっ…こ、ここまでで大丈夫…」
何のために、今日という日を選んだと思ってるの。
凌に知られたくなかったからだよ。
それに、これ以上凌に迷惑は掛けられない。
「ーーーい……て、…から」
「え?なに?」
凌の声が、通過する列車の走行音にかき消される。
聞き逃さないように、と私は彼の横顔へと顔を向けた。
「見送りくらい、させて…頼むから…っ」
絞りだされた声が、私に突き刺さる。見上げた視線の先、見たこともない表情の凌を見た瞬間、まるで全身をナイフで切りつけられたかのような痛みに襲われた。
凌が、泣いているーーーー
目を覆った手の隙間を縫って零れ落ちた涙が、凌の頬を濡らしていた。その横顔は酷く苦しさにゆがんでいる。
初めて見る凌の涙に、私は絶句する。
なんにも、わかってなかった。
覚悟したつもりでいたけど、足りない。全然足りない。
自分のせいで傷つく凌を見たくなかった。
自分がどれほど卑怯で卑劣で最低な人間かを、思い知らされるのが嫌だから、居なくなるまでこのことは知られたくなかった。今日も会いたくなかった。
最低だ、私。
どこまでも、身勝手な自分に、嫌気がさす。
ごめんなさい。
泣かないで。
あぁーーーー
凌に、かける言葉がみつからない。