いつの間にか部屋にかけられていた、クリーニングから戻ってきたままの制服を手に取る。ビニールとタグを外して、私はそれに袖を通した。ボタンを留めて、リボンを付ける。ノリのきいたブレザーを羽織って、私は鏡の前で姿勢を正す。
 3年間着た制服姿もこれで見納めだ。
 だからなんだ、というわけでもないのに、やっぱり感慨深いものがこみ上げてきた。

 私は、更にコートを着てマフラーと手袋も着けて部屋を出た。

「お母さん、変じゃない?」

 洗い物をしていた母の前で姿勢を正す。
 
「あぁ、もうそんな時間?うん、大丈夫。髪型も似合ってる」
「よかった、ありがとう」

 ちょっと気合を入れて髪を編んでみたのだ。母のお墨付きをもらって安心した私は「行ってきます」とリビングを出た。

 いってらっしゃい、という母の声を背中に受けながら玄関の外に出ると、エレベーターのある方とは真逆の、隣の部屋のドアノブに手を掛ける。
 昨日も来た、凌の家。
 そして、数か月ぶりにして最後となるお迎えだった。

「おばさん、おはよう。昨日はごちそうさま~」

 今日は、普段の登校時間よりも遅めだから、おじさんの姿はもうない。

「おはよう、かすみちゃん。あら、素敵なヘアメイクじゃない!卒業おめでとう。せっかくの卒業式なのに、仕事で行けなくて残念だわぁ。また写真見せてちょうだいね」

 炸裂するトークに「ありがとう」とだけ返して私はそのまま凌の部屋に向かった。

「入るよー」

 そう声をかけてから、ドアを開けば、学ランに身を包む凌の姿が目に入る。ちょうど詰襟を留めているところで、不覚にもかっこいい、と思ってしまった。

「おう」
「制服姿も見納めだね」
「そうだな」

 髪型、頑張ったんだけどな。
 褒めてほしい相手はノーコメントときた。
 昔の私なら、何も言わない凌に文句の一つや二つは言っていたけれど、それすらもう言えない。いくら、あの日に戻ったかのような時を過ごしても、体を重ねても、やっぱり、私たちは確かに、「変化」してしまっている。

「さ、行くか」
「うん」

 おばさんに見送られて、私と凌は並んで高校へ向かう。
 マンションを出た私たちは、自然と手をつないだ、どちらからともなく。
 こんなことなら、手袋なんてするんじゃなかった、と少し後悔。それでも、つながっている事実が私を嬉しくさせる。

 今日という日は、何もかもが「最後」なんだろうな、と見慣れた通学路を歩きながら思った。
 泣く自信しかない。
 今日だけは、凌の前でも泣いて良いよね。
 きっと、どれだけ泣いても、あやしまれないだろうし。

「かすみ、今日泣くだろ」
「う…、そりゃ、泣くでしょ。卒業式だもん」

 まるで心の中を読まれたみたいで、ちょっとむかついた。

「中学の時も泣いてたもんな」
「悪い?」
「女子はいいよなぁ、泣いても変な目で見られなくて」
「確かにねぇ、男子が卒業式で泣いてるイメージって確かにないかも。スポーツの試合で負けて泣くのはよくあるけどね。って、なに、凌も卒業式に泣きたい派?」

 吹き出しながら言えば、凌は口をとがらせて「ちげーよばか」と私の頭を小突いた。

「泣いてもいいよ~、ハンカチ二枚持ってきたから貸すよ?」
「マジで泣く気まんまんじゃんか、ははっ」

 暦の上では春だけど、冷たい風が顔を撫でていく。いつもとは違う登校時間に、人の波もいつもとは違い穏やかで、私たちはゆっくりと過ぎる時間の中を進んでいく。
 高校が近づくにつれて、見知った顔がちらほら。

「お二人さんおっはよう!」
「かすみ、有岡くん、おはよう。久しぶり~!」

 駅を出た後には、タイミングよく樹君と沙和子と合流して、私と沙和子、凌と樹くんという組み合わせになって歩いていた。

「いやぁ、本日はお日柄もよく~」
「お前、ホント頭ん中花畑だな」

 前を行く仲良しコンビのやり取りに沙和子と二人で笑った。

「おいおい、そこの女子!今から泣いてどうすんだよ」
「だって…」
「笑わせないでよ、もう」

 笑いすぎて、目じりに涙がにじむ。まだ卒業式が始まってもいないのに、先が思いやられる。
 樹くんに突っ込まれて余計笑いが止まらない。じわじわにじみ出てくる涙を指で拭いながら前を見れば、樹くんの隣で笑う凌の横顔が目に入る。
 切れ長の瞳が見えないくらいに細められた笑顔に、またこみ上げるものがあった。

 どうか、私がいなくなった後も、そうやって笑っていて。
 友達や大切な人に囲まれて、愛されていて。
 幸せでいて。

 ようやく笑いと涙がおさまったころには高校に到着して、どことなく静かな校舎とようやくつぼみが色づいてきた木枝がむき出しの少し寂しい桜が私たちを出迎えてくれた。

「なぁ、榎本」

 昇降口で靴を履き替えているところ、樹くんに話しかけられた。さっきまでのふざけた顔とは打って変わって神妙な顔つきで彼は私の腕を引っ張って物陰へ連れていく。沙和子と凌は既に履き替えて、教室へと向かった。

「ど、どうしたの」
「あのさ、凌のやつ、なんか変じゃね?」

 凌がいつもと違う、というのは、私はもちろん感じていたけど、樹くんまでそう思ったことが少し意外で、私は「そう言われてみれば…まぁ」と頷く。

「あいつ、合格発表の後からなんか上の空っつーか、遊んでてもつまんなそうだし、かと思えばこの1週間俺らの誘い全部断わるしさ…、なにがどうしたのか…、榎本なにか知らなねえ?」

 樹くんの口から知らされた事実に、驚いた。その1週間はずっと私といた、とはさすがに言えなくて「そうだったんだ…」と私は半ば虚ろな頭で呟く。

「ごめん、何も知らない…」
「そっかぁ~、榎本が知らないならお手上げだなー」

 そう言って歩き出した樹くんの後ろについていきながら、樹くんたちを断ってまで私を誘ってくれていたという事実について頭の中で考える。
 いつもの凌のきまぐれだと、てっきり遊ぶ約束もなくて暇だから誘っているのだとばかり思ってた…。
 なのに、違ったの…?
 本当に、私を優先してくれてたの?
 そんなこと、一言も言わなかったよね。確か、一度だけ樹くんたちと遊ばないのかと聞いたら『あぁ、旅行まで遊ぶ約束ないから』って言ってたはず。
 でも、樹くんは、誘っても断られたって…。
 その友達の中には、県外の大学に入ってしまう子もいるのに?

 疑問だらけの頭の中、一つのことが浮かび上がってきて足が止まった。

ーーー凌は、もしかして、私がいなくなることを、知っている…?

 いや、そんなまさかね、と私は首を横に振る。
 凌のことだもん、私が県外の大学に行くことを黙ってたなんて知ったらきっとすぐさま問いただしに来るに決まってる。
 隠し事の出来ない性格だから。

 でも、昨日の言葉といい、これまでのデートといい、明らかにいつもの凌じゃないのは確かで…。
 それがもし、いつもの気まぐれじゃなかったというなら、どうして?
 私のこと、ちゃんと見て、私と向き合おうとしてくれている?
 それとも、それも気まぐれのうち?

 だとしてもーーーー

 今さら…もう遅い。

 私たちの間には、言えないことや言いたくないことが増えすぎた。



 結局、答えを知っているのは凌だけだから、私がいくら頭を悩ませたところでわかりはしなかった。
 それに、凌は明後日には旅行に行ってもう会えなくなるのだからどうしようもない。
 凌との時間は、どんなにあがいても、残すところ今日と明日だけだから。
 なら、せめて、楽しい思い出で締めくくりたい。
 そう思った。