「あー、眠い」
「おい、人にはベッドで寝るなって言ったくせに自分は寝るのかよ」
「眠いんだもん、少しだけ」
眠いのには、訳がある。
荷造りを夜な夜な進めているからだ。
ベッドや家具など大きなものはおばさんが用意してくれると言うので甘えることにしたけど、洋服や鞄、本などこまごまとしたものの荷造りが意外に手間取った。
凌が私の部屋に来た時にバレない程度にしているのも相まってなかなか進まない。
明後日には宅配業者の集荷サービスを頼んでいるので何が何でも明日中には終わらせなくてはならなかった。
だから昨日も眠りについたのは夜中の1時という始末。
そこに今日の遊園地だから、今になって眠気が襲ってきたのだろう。
私はその欲望のまま、瞼を閉じる。
するとベッドが沈んで、隣に凌が寝転がってきた。凌は、足元に丸まっていた掛け布団をかけると、私に腕を回して抱きしめた。
「あったかい」
温かさを感じながら、幸福感に包まれる。
この数週間、不思議な感覚だった。
夢の中にいるような、実感を伴わないふわふわとした感覚。
もう別れることを決意しているのに、幸せな日々を欲する自分の欲に抗えずに、与えられる幸福に身をゆだねているこの状況が自分でもうまく受け止められていないようだった。
だからといって、最後だから、これで終わりだから、と凌の優しさを利用していることには変わらない。
だけど、私は、この幸せな日々を糧にして、凌とつないできた日々に終わりを始めるよ。
私は大人になるから。
同じ過去は、もうなぞらない。
きっと、凌と離れたからってすぐには変われないし、涙も枯れないかもしれない。
凌を傷つけたことも、一生忘れない。
けれど、きっとうれし涙に変えることができるって信じてる。
凌も、私がいなくなっても、大丈夫だって信じてる。
凌の世界は、私だけじゃないから。
「かすみ」
「んー」
凌が私の頭に顔をすり寄せる。コツンと固いのが頭にあてがわれているのは、多分おでこ。
「離れたくない」
ひんやりとした冷たい風が心臓を撫でた。
「このままでいたい」
凌のその言葉で、さっきまでの眠気が、一気に吹き飛び心臓は早鐘を鳴らす。どくどくと耳鳴りのように血液がものすごい勢いで流れていくのが聞こえるようだった。
それは、どういう意味?
深く息を吐いて、私はできるだけ静かに口を開く。
「そうだね、このまま寝れたら幸せだよね、きっと」
私だって、ずっと、ずっと、変わらない関係を願ってたよ。
でも、それは叶わなかった。
「あったかくて、ホントに寝ちゃいそうだよ」
凌が、どんな意味で言ったのかはわからないけれど、背中の凌は、ちいさく「だな」と呟いたきり、黙り込んでしまった。
けれど、抱きしめる腕に力がこめられ、体がより密着する。
でも、ただ抱きしめられているだけじゃ、我慢できない。
どれだけ強く抱きしめられても、一つにはなれない私たち。それぞれの意志を持って願いを持って生きる別々の人間だから。
それでも、
一つになれずとも、せめて同じ思いでいられたら、と胸に秘めた願いは叶わなかった。
それならば、
同じ思いでいられないのなら、と肌を重ねたけれど、それは所詮その場しのぎの幸せ以外の何者でもない。ただ寂しさが増すだけだった。
あの日から、
凌に抱かれた日から、もう1週間が過ぎた。
付けられたキスマークは、少しずつ薄くなって、今ではもう良く見なければわからないまでに薄れている。
毎日お風呂場でその印を見る度、自分が凌のものだと見せつけられているようで恥ずかしくもあり、日に日に薄れていくそれに切なさと不安を覚えた。
まるで、私の中の凌が消えていってしまうようで、怖くなった。
凌を私の中から消すことなんて、一生出来るわけないのに。
消えていくキスマークと同じように、私の中の悲しみも消えていってくれればいいのに。
凌はそれ以上何も言わず、私もまどろみながら布団の中でしばらく二人でくっついていたけれど、おばさんの呼ぶ声で私たちはのそのそと起き上がりリビングへと向かった。
「半分寝てたよ」
「んー、俺もー」
あくびをかみ殺しながらドアをあけると、テーブルに座ったおじさんがチューハイの缶を片手に笑顔を浮かべていた。切れ長の目が凌そっくり。
「あ、おじさんおかえり~」
「かすみちゃん、久しぶりじゃないかぁ!大学合格おめでとう!二人ともよく頑張ったよなぁ」
「ありがとう。おじさんも毎日お仕事おつかれさま~」
おじさんの隣に座って、手から缶チューハイを奪い取るようにしてそれをおじさんのコップに注ぐ。凌の家で夕飯を食べるときは、いつも私がお酌係。保育園の頃からの習慣だった。
「やっぱりかすみちゃんが注いでくれるお酒は別格だなぁ」
ぷはーっと豪快に飲んでからのそのセリフもまた、昔からのお決まりだ。
「かすみちゃんが本当の娘になるのが待ちきれないよ」
「ホントよねぇ、お父さん」
しみじみというおじさんとおばさんに、私は笑うしかない。私と凌が付き合うことになって一番喜んでくれたのはこの二人だと言っても過言ではないほど。
報告した時、おばさんには「ありがとうねぇ」と感謝されたくらいだった。
だからこそ、この二人に本当のことを言わないで騙すことが、何よりも苦しく後ろめたい。
「そういうのうぜえからやめろっていつも言ってんだろ」
半分切れ気味の凌を「うざいは言い過ぎ」とたしなめる。
「おじさんとおばさんが、私のことを子どものころから本当の娘みたいに接してくれるの嬉しく思ってるし、本当に感謝しかないから。ーーーいつもありがとう」
ーーーそして、ごめんなさい。
言葉にはできないけれど、私は胸の中でそう二人に謝った。
「やだわぁ感謝だなんて、もう、おばさん泣いちゃいそうよ。さぁさぁ、ご飯にしましょ」
「そうだな、冷める前に食べよう」
「いただきます」
「いただきまーす」
「かすみちゃん中とろ凌の分も食べちゃって」
「あっ、ひでえな、おい。借りにも実の息子の大好物を…」
「やった!じゃぁ遠慮なく~」
「そこは遠慮しろよ」
泣きたいくらい楽しくて、美味しい食事。
もしも凌と結婚したら毎日がこんな感じなのかな?って、何度も想像したこともあった。その度に、結婚なんて気が早すぎ!って恥ずかしくなって一人赤面していたっけ。
今は、そんなこともあったなと思い出すだけで終わり、二人の未来を想像することさえできない。
それが、全てを表している気がした。
「ごちそうさまでした」
「お粗末様でした。またいつでも夕飯食べにきてね」
「またおじさんに晩酌してくれな」
優しい二人がくれる、「また」の約束に頷いたら嘘をつくことになるから、「うん」って頷けなくて。私は、なんとか貼り付けた笑顔で「おやすみなさい」とだけ言って、二人の視線を振り切るように足早にリビングを出た。
ドアが閉まると、さっきまでのにぎやかさが嘘のように、しんとした静寂に包まれる。同じ間取りの我が家の玄関までの廊下がやけに長く感じた。
帰りたくない。
今日が終わって欲しくない。
まるでそう願う私の心がそう訴えているかのようだ。
玄関に揃えた外履き用のサンダルをひっかけて、私はゆっくりと見送りについてきた凌を振り向く。
「じゃぁ、おやすみ」
「あ、かすみ」
短く言って踵を返す私を、凌が引き留めた。
「明日さ、一緒に登校しねぇ?…最後だし」
照れながら言う凌に、私は嬉しさを隠して「しょうがないなぁ」と承諾する。実は、誘われなくても朝寄ろうと思っていたのだ。でも、それは教えてあげない。
「じゃぁ、8時過ぎに迎えにくる。寝坊してたら置いてくからね」
「さすがの俺でも卒業式に寝坊はしないわ」
「どうだかー」
肩をすくめて、ドアノブに掛けた手が、後ろから伸びてきた凌の手によってつかまる。
「なにーーーっ」
ドアノブからはがされた手は凌の手によって玄関ドアに縫い留められ、体ごとドアに押しやられた。その流れは一瞬の出来事で、次の瞬間には視界まで凌におおわれる。
薄暗い玄関、押し当てられた唇、つながれた手。
触れているところが、びりびりとしびれているみたい。
名残惜しそうに離れた唇を、今度は私が追いかけた。
こんなところで、ダメなのに。
止められない。
静まり返った玄関先、耳を澄ませば遠くでおじさんとおばさんの話し声とテレビの音がかすかに聞こえる。
求めては求められてを互いに繰り返し、息が苦しくなったころにようやく離れた二人。おでこをくっつけて、凌が私を恨めしそうに睨んだ。
「ばかかすみ。また我慢できなくなるだろうが」
「ばか凌のばか。おやすみっ」
後ろ手でドアノブを押して、私はドアを滑るように外へと一人逃げた。