夜の10時過ぎ、スマホが震える。

『起きてる?』

 ロック画面に表示される凌からのメッセージを読んで、開こうかどうしようか迷った。
 こんな時間に、わざわざメッセージを送ってくるなんて、めずらしい。何か用だろうか、と思い一度は止まった指でロックを解除してメッセージアプリを開く。

『起きてるよ』

 と送ればすぐさま既読になり、『今からそっち行っていい?』と返ってきた。断る理由もなく、了承の返事を打ち込んだ後、私はすぐに玄関の鍵を開けに部屋を出た。

「香澄どこか行くの?」
「ううん、凌が来るって言うから」

 リビングに居た母に聞かれてそう伝えたら、「あら…そう」と小さくつぶやいた。
 昨日のおばさんからの話で「取り込み中」とだけ聞かされた母からすれば、どういう反応をすれば良いのかわからないのも仕方がないし、複雑なんだろうと思う。
 優子おばさんはといえば、用事があるからと一泊しただけで今日の朝には帰っていってしまった。

 母には申し訳ないと思いつつ、私はそれ以上なにも言わず玄関へと向かう。
 ガチャリと開錠すれば、ほぼ同時にドアが開かれた。

「さみーよ、早く入れて」
「それでも上着着ておいでよね」
「やだよめんどくさい」

 相変わらずのスウェット姿で肩をすくめながら、凌は私を押しのけるとさっさと靴を脱いで部屋にあがっていく。

「おじゃましまーす」
「いらっしゃい」

 リビングの母と挨拶を交わし、凌は私なんか目もくれずに私の部屋に直行していた。
 凌に会うのは、S大の合格発表以来だった。
 と言っても、1週間も経っていない。
 学校も卒業式までほとんど登校日もないから、用がなければ、会おうとしなければ家が隣同士でもそうそう会うものじゃなかった。

 私は、キッチンで凌の好きなミントティを入れたマグカップふたつを手に自室へと戻る。

「なにしてんの」

 ドアを肘で開けて入れば、凌は私のベッドの上で布団をかぶって丸まってる。

「何って、寒いからあったまってる」
「やだやめてよ、出て出て、今すぐ出て」
「おい、お前ひでーな。人を汚れものみたいに。ちゃんと風呂入ったし!俺が風邪ひいてもいいのかよ」
「何とかは風邪ひかないって言うから大丈夫だって。ほら、ミントティ飲んであったまりなよ」

 もう、いつまで経っても子どもみたいなんだから。
 しょうがないな、と笑いながら私はテーブルにマグカップを置いて座椅子に座る。
 凌もミントティに誘われて布団から出てきた。
 私は、湯気を立てるそれを暖を取るように両手で包む。

 お揃いのマグカップ。
 初めてのデートで行った水族館で買った動物の形を模したカップは、私の家で使おうとどちらも我が家に置いてあった。
 私がペンギンで凌がラッコ。
 懐かしいな。
 思いが通じて初めてのデートは、すごく緊張して、着るもの一つとっても逐一頭を悩ませていたっけ。

 デート中も、手をつなぎたくて、でも恥ずかしくて自分からはつなげないでいたら、隣を歩く凌が『ほら、手』とぶっきらぼうに私に手を差し伸べてくれた。
 嬉しくてうれしくて、その手を握り返したら耳まで真っ赤にしていた凌。
 あの時の気持ちや場面、言葉のどれもが鮮明に浮かんできてなつかしい。

 それまでなんにも気にせず過ごしていたのに、彼氏彼女になった途端に色んなことが気になって、不安にもなった。
 でも、そんな時間すらも、愛おしくて幸せだったあの頃。
 時を重ねるうちに慣れて、悩むことも不安になることも次第に減っていったね。
 それがいいとか悪いとか、そういう話じゃない。
 それを、お互いがどう捉えてお互いに納得できるかどうかが大切だったのかもしれない。

「水族館、行くか」
「え?」

 ベッドの縁に腰掛けながら凌が言った。


「ほら、このマグカップ、水族館で買ったじゃん。あれ以来一回も行ってないし、久しぶりに行ってみようぜ。受験も終わったんだし、大学始まったらまた忙しくなるだろうから今のうちに遊ばないとな」

 まだ了承していないのに、凌は「明日行こうぜ。善は急げだ」とご機嫌に言ってラッコのマグカップに手を伸ばす。

「うんめぇ。なんか知らないけど、これ好きなんだよな」

 と一人しみじみ言う凌。

「明日って…」

 そんな急な。

「どうせ暇だろ?」
「私も色々あるんだけど」
「色々ってなんだよ」
「それは…」

 荷造りとか、新生活の準備とか、色々。とは言えなくて口ごもる私に「ほらな」と言う。

「決まりな。その後飯食って、俺服買いたいから買い物も付き合って」
「はいはい、わかりました、お付き合いしますよ」

 いつもそう。
 友達との時間を大切にするようになった凌が、私をデートに誘う時はいつだって突然だった。友達との約束がなくなって暇になったり、自分の気が向いたりした時、暇つぶしの相手に私を誘うんだ。
 そして私は、それを断れない。いつだって。
 よほどの用事や友達との約束がない限り。
 たとえ、気まぐれだとしても、暇つぶしだとしても、私は凌と一緒に居たかった。
 でも、それももう、終わり。

 卒業式まで、あと1週間と少し。
 その3日後には出発だ。

 これが凌との最後のデートになるかもしれない。
 もう別れを決めているのに、心の奥底で明日が楽しみでしょうがない卑怯な自分がいるのを、気づかない振りを決め込んだ。

「あ、そういえば、情報誌に水族館の割引券あったかも」

 なんとなく目を通していた情報誌を取りに立ち上がり凌の前を横切る。すると、横から伸びてきた手に引っ張られて体が傾いた。

「ちょっと、わっ」

 腕を下にひかれ、そのまま凌の膝に座る形で両腕に閉じ込められてしまった。

「つかまえた」

 お風呂上がりのシャボンの香り。どうしても思い出さずにはいられない、重ねた肌の温度。
 凌が近くて、恥ずかしくて顔を逸らしたら、首筋に鼻をうずめられた。こしのある髪が、耳に触れてこそばゆい。
 腰に回された腕は逃げられない程にしっかりと交差して、体に密着している。
 パジャマ越しにも伝わる、凌の熱がじんわりと温かで固まっていた心を溶かすようだ。

「あ」
「な、なに」
「こないだ付けたキスマーク消えてる」

 指でつ、となぞられた首筋に赤い花はもうない。

「そりゃ消えるでしょ。ってか、見えるとこに付けるのやめてって言ってるじゃん。この前だって髪下ろしてないとだったんだから…」

 冬だからいいものの、夏だったら地獄だ。私は、ニヤニヤする凌をにらみつける。

「じゃぁ、見えないとこなら付けていいんだ?」
「…ばか」

 ぐいっと、体を凌の方に向けられたかと思えば、凌は器用にパジャマのボタンを一つ外して顔を近づけた。止める暇もないほど。

「ちょっと、凌、」

 はだけたパジャマの下、鎖骨あたりに鈍い痛みが走った。快感と紙一重のそれは、印が付けられた証だ。咲いたばかりの赤い花を満足げに指でなぞり、凌はこちらを見上げる。その艶っぽい甘い視線にどうしようもない羞恥心と、愛しさが同時に押し寄せた。

 キスしてほしい。

 そう思った時には、叶っていた。

「…ん…っ」

 いけない、と思いながらも、拒めない。
 甘美な刺激とそれを欲する私の願望が、私の思考を鈍らせるのだ。

「わっ」

 凌が、私を抱いたままベッドに倒れ込んで視界が反転した。

「びっくりした」
「ごめんって」
「もうっ」

 怒る私を笑って、また口づけを落とす。
 今度は、さっきよりも深く、激しく。髪を梳くように後頭部に回された凌の手が、苦しさに逃げる私を阻む。
 そして、息もできない程きつく抱きすくめられた。
 私は、上になっている方の腕を伸ばして、凌の肩へ回して応える。
 体の境界線がわからない程にきつく抱き合った。
 凌の体温と私の体温が、蕩けて一つになっていくみたいだ。

 このまま、一つになれたらいいのに。
 そしたら、もう、離れなくていいのに。

 どれくらい、そうしていただろうか。
 凌の深いため息と共に緩められた腕に寂しさを感じながら、ゆっくりと顔を上げると甘い雰囲気を宿した凌の目と視線がつながる。

 好き。
 好きなの。

 どうしようもないほどに。
 私だけを見てほしいと独占したくなるほど、好きで好きでたまらない。

「お前さ、誘ってる?俺のこと」

 そうだよ。
 たまらなく、抱いて欲しい。
 私の体、めちゃくちゃに、壊して欲しい。
 凌の全部を、一生忘れられないように、刻んでほしい、この体に、心に。


 最後だからーーーー


 抱いて、なんて言えない代わりに、もう一度凌の胸に抱きついた。

「声、抑えろよ」

 耳元でそうささやかれたのを皮切りに、凌の手がパジャマの下から肌に直に触れる。私の体の線を確かめるように優しくなぞっていく凌。

「待って…、電気、消す…」

 枕元のリモコンに伸ばした手は、凌によって絡め取られた。

「ダメ」
「な、んで」
「かすみの全部を見たい」
「そんな、は…っ」

 恥ずかしい、と開いた口は凌のそれに塞がれて言葉も一緒に飲み込まれた。
 その宣言通り、凌は私を見つめ、服をはぎとりながら私の体のあちこちに口づけはじめる。その度に感じる鈍い痛みに頭がおかしくなりそうだった。

 肌を合わせるのは久しぶりで、肌と肌が触れ合うところ全部が熱を帯びたように熱くて、冬だということを忘れそうになる。恥ずかしさに目をぎゅっと閉じてその手から与えられる快感に身をゆだねた。
 そうすれば、体は刺激に過敏になり、体は更に熱を帯びて潤っていく。そして、つながる体と体。抑えきれない声は、凌によって塞がれた。

 体が、心が、心臓が、悲鳴をあげていた。

 凌が私に与える嬉しさ、切なさ、愛しさ、そして名前のつけられないたくさんの感情が私を侵食していく。全部が混ざりあってできた一つの色に染まっていくようだった。

 ずっと、こうしてほしかった。
 凌に、私を、求めてほしかった。

 体も、心も、全部。

 あんなにも願っていたことが、今叶っている。

 それがどうして、今なの。
 全てを捨てることを選んだ今なの。

 どうしてーーー

 それでも、その残酷な現実を、運命だなんていい加減な二言で終わらせたくはない。

 今の凌と向き合って、いっそ凌を受け入れても、きっと繰り返すあの日の痛み。

 わかってる。
 わかってる。

 だから、

 これで、最後。
 最後にするから。

 今だけは、私を求めて。
 どうか、おねがい。

 寄せては返す波のように揺れる互いの体。
 たまらず手を滑らせた凌の背中は、昔一緒に戯れていた頃とは似ても似つかないほど、男らしく逞しかった。

 いつかの未来、私じゃない女の子が、この体に触れるのかと思うと、悲しくて悔しくて苦しい。

「…かすみ」

 凌が、私を呼ぶ。
 私の名を呼ぶ声が、好き。
 少しかすれた、低い声。

 あと、何度、呼んでもらえるだろう。

 凌に名を呼ばれる度に、胸が締め付けられた。