僕は今年の春、この短大を卒業する。
 就職先が決まらないまま卒業することに不安はある。でも、その不安は就職が決まっていないことだけが原因ではなかった。
 僕と同じように、就職先が決まっていない友人もいるにはいる。でもそれは僕にとってなんの慰めにもならない。
 就職先が決まっていない友人も、就職先が決まった友人も、みんな目標に向かって一歩を踏み出しているのだ。
 それなのに、僕にはなにもなかった。
 在学中に僕が得たものはなんだろう。きっと輝かしいことがたくさんあったはずなのに、いざ卒業してみると、この二年間が僕に残したのは、消し去りがたい心の病だけだった。
 卒業式が終わって、一緒に校門を出る友人達と後輩を見る。
 僕にも親しげに話しかけてくる友人達が、みんな目標に向かっていけるのがうらやましい。
 人懐っこく僕に話しかけてくる後輩も、入学してすぐの頃からずっと未来のことを見据えて行動を起こしていた。そのことがうらやましい。
 友人も後輩も、みんな僕にはないものをその心の中にしっかりと宿している。空虚なのは僕だけなのだ。
 友人達と後輩と卒業祝いの食事に行って、夜になるまでおしゃべりを楽しんだ。これからのことの話を聞いて、在学中の話をして、希望に満ちた言葉達は僕を楽しませてくれた。
 けれども、聞けば聞くほど僕の心に棘が刺さるようだった。
 みんなでの食事が終わって、それぞれに家路につく。
 途中、夜桜が目に入った。夜桜の下に行って、淡く光っているように見える桜を見上げる。月と星に照らされた桜は僕の方を向いて、じっと見守ってくれた。
 この桜はなにかを僕に伝えようとしているわけでも、なにかを考えているわけでもないのもわかっている。けれども、桜が僕を見守ってくれてひどく安心した。
 しばらく夜桜を見上げてから、駅へと向かう。色々と考え事をしたかったけれども、なにかを考えるのは電車に乗ってからでいい。

 自宅の最寄り駅に着いてから、どうしてもそのまま帰る気になれなくて、しばらく散歩をすることにした。
 いつものバス通りを歩いて、そのまま隣の駅まで歩く。隣の駅近くに着いたら、お寺さんの参道を通り抜ける。もう夜も更けているので、参道沿いのお店は全て閉まっていて静かだ。ただ街灯だけが照らしている。
 お寺さんの門の前で一度お辞儀をしてから、道を曲がって土手へと向かう。土手の上に登ると小さな休憩所があって、近くに桜の木も植わっている。この桜も、満開の花を咲かせていた。
 桜の木の近くにあるベンチに腰掛けて、大きな川の張るか上に浮かぶ満月を見つめる。
 これから先、僕はなにをしたいのだろう。
 月を見つめながら思い浮かぶのは、友人達と後輩の顔。これから、目標に向かって進んでいくと決意した、輝かしい彼らの顔。
 ああ、うらやましい。前に進めることが羨ましい。
 そう思って俯いた瞬間、僕は自分の心にわだかまっていたけれど、正体がわからなかった気持ちを掴むことができた。
 僕も前に進みたい。
 ただ流されるままに生きてきた僕でも、自分の意思で前に進みたいのだ。
 でも、僕の目の前に立ち塞がる大きな闇を振り払うにはどうしたらいいのだろう。
 この闇はいつから僕の目の前にあるのだろう。それを考えて、記憶を遡って、短大を入ったばかりの頃にはこんなものはなかったことに気がつく。おそらく、この闇は僕の心の病由来のものだろう。
 それなら、まずは治療をしよう。薬の力を借りてでも、この心の病と目の前の闇を振り払うのだ。
 小さな頃からずっとずっと抱えている、形のないぼんやりとした夢を追いかけるのはそれからだ。
 輝かしい日々が終わって卒業をした今、前に進むための準備をしよう。理不尽に浴びせられる罵声から目を逸らして、耳を閉ざして、心を正常に戻すのだ。
 ずっとずっと不条理を浴びせられて自分の身の隅々まで染みついてしまった劣等感と戦って、呪いを解いて、好きなものを好きと堂々と言えるようになろう。
 そうしたらきっと、形がなくてぼんやりとしている僕の夢も、その姿をはっきりと表すかもしれない。
 僕の夢が姿を表したら、僕の命の気が済むまでその夢を追い求めて、理想通りの自分になれなくても、僕は僕の光でこの心を照らそう。
 たとえそこにいたる道が狂気的だと言われてもかまわない。なにが狂気的でなにが正常なのか。そんなものを決めるのことにはなんの意味も無い。
 誰かに傷つけられて、優しいだけの世界を生きることは無理だとわかっているけれども、それでも僕は自分の夢を追える優しい世界を求めたい。
 満月を見上げ、ベンチから立ち上がる。光る桜の花びらが舞うのをくぐり抜けて、土手を降りて家への道を歩きはじめる。
 家に帰って明日からの生活の準備をしよう。今すぐにやれることは少ないけれども、それでも変わってしまう日常を過ごさなくてはいけない。
 僕はもう、歩きはじめないといけない。
 だって、僕はもう十分すぎるほどに立ち止まったのだから。