玲人に連れられて入ったのは、玲人があかねのことを再び『高橋さん』と呼んだ、今使われていない教室だった。カーテンが引かれていて、昼日中だと言うのに薄暗い。玲人が先に教室に入り、あかねが続いて教室に入ると、玲人が静かな音をさせて扉を閉じた。
昼休みの教室で玲人が声を掛けたとあって、玲人に導かれたあかねの後を追って、何人かの女子がこの教室の外で、中で何が話されるのかに耳をそばだてている。

玲人は教室の奥、カーテンの前であかねの方を振り向き、カーテン越しの冬の日差しを背に受けていて、直射日光じゃないのに、久しぶりに正面に玲人を見るあかねの目には、きらきらと後光が眩しく見えた。

「……なんか、隣の席なのに、話すの久しぶりで、なに話したらいいのか迷うね」

玲人はそう言うが、あまり困っていないように見えた。ちゃんとあかねを正面に見据え、次に何を言うか決めているような、迷いのない表情をしている。

一方あかねは、次にどんな言葉が玲人の口から紡ぎ出されるのか分からなくて、不安でいっぱいだった。
玲人から話し掛けられなくなって、極力玲人の意向を尊重して玲人に係わらないよう努めてきたつもりだったけど、まだ邪魔だっただろうか。隣の席だから、視界に入るなという事は無理な話なので、そもそもの無理難題を突き付けられるのか、それともそれ以外のなにかを言われるのだろうという不安が、あかねの心臓を無秩序に拍動させていた。

「そう……、だ、ね……。……で、も……、……今のれ……、いや、暁くんが、私に話すことなんて、ない、……よね……?」

ないよね、なんて、なんて卑怯な予防線だろう。文句があるから、玲人はあかねを呼びだしたに決まっているのに。
身勝手な自分を顧みて、直ぐに撤回の言葉を続ける。

「や……、なんか、したんだよね、私、が……。暁くんの、……気に障るような、こと……」

玲人の気分を害させるなんて、推しに対してあるまじき行為だった。ファンの風上にも置けないと言うなら、こういう行動のことを言うんだと思う。
信者(ファン)は、推しが何の憂いも悩みも煩わしさも感じずに、ただ幸せに生きていて欲しいと願い、その為に行動するべき存在であったはずなのに、今のあかねにはそれが出来ていない。ああ、推しにそんな思いをさせた自分が呪わしい。

あかねが鬱々と玲人の気持ちを思っていたら、玲人はあかねをまっすぐ正面に見てはっきりと、気に障ってるよ、と応えた。

「……っ」

やっぱり。
はっきり言われると辛いけど、やっぱりそうなんだ。推しに負担をかけて、推しに嫌われて、推しに消えてしまえばいいと思われていると知って、あかねの喉に苦くて大きなものが込み上げてきた。
ぐぐぐっと喉の奥を圧迫したそれは、胸の澱となって心臓の底に沈殿し、その苦さと重たさであかねの涙腺を眼球の奥から刺激した。

じわっと涙がにじむ。でも、泣いちゃいけない。あかねの勝手な振る舞いで玲人を刷り込みひよこにした。あかねの勝手で玲人の心を歪ませた。その報いはうけなければならない。

「な……、なんでも、不満があったら、言って欲しい……。同じクラスだから、視界に入るなと言われると難しいけど、隣の席が嫌なら、先生に席替えをしてもらえるように頼んでみる、し……」

滲んだ視界に映る玲人は、歪んだ輪郭をしているのにそれでも薄明りを背にして神々しい。気に障ってる、のひと言だって、とげとげしい言い方ではなく、聞いた相手に余分に嫌な思いをさせるのではない素直な響きを持つ彼の人間性が現れていた。
こんな素晴らし人格者である彼に嫌な思いをさせてしまった罪作りな自分が呪わしい。自分なら間違いなく玲人の為に行動できるなんていう自分の勝手な思い込みが、恥ずかしかった。

己の罪に項垂れる勢いで目をぎゅうっと瞑ったあかねの耳に、あかねちゃん、という呼び名が飛び込んでくる。

(……あかねちゃん……?)

呼ばれた呼び名を反芻してからその響きに驚いて目を開けると、玲人が何故か笑ってた。

「そんなこの世の終わりみたいな顔しないで。僕があかねちゃんに不満を持ってるとすれば二つ。僕の気持ちを決めつけてることと、小林くんと親しくしてること、だよ」
「……、…………、は……、へ……?」

玲人の言うことが理解できないあかねに、玲人はもう一度微笑んだ。

「あかねちゃんが僕の為に色々考えてやってくれたことは嬉しいよ、素直に。でも一方でちゃんと僕を見て欲しかった。
塚原高校に居る暁玲人を、あかねちゃんの前にちゃんと立たせてほしい。小林くんみたいに、あかねちゃんにとって推しじゃなくて、幼馴染みとは言わないから、せめてクラスメイトの一人として見て欲しいんだ」
「……、…………、は……、へ……?」

同じ反応しか出来ないあかねを、玲人がくすくすと笑う。

「正直ね、悔しいんだ。僕があかねちゃんにとっての推しじゃなかったら、もうちょっと素直に僕の気持ちを受け入れてもらえたのかなって思うとね。そうしたら、小林くんがするみたいに、こんなことしてもあかねちゃんは嫌がらないんでしょ?」

こうやって。
と言って、玲人はあかねの頭をやさしくポンポンと撫でた。

「ひぎゃ!?」
「小林くんと一緒に居るところ見ると腹が立ってたって言うと、あかねちゃんはびっくりする? でも本心だよ。小林くんと仲良くしないで欲しい……。幼馴染みだって分かってるけど、それでも思っちゃうんだ」

ひと言ひと言丁寧に語られる玲人の言葉は、どれも嘘がなくてどれも真摯な彼の心を伝えていた。でも。

「……で、でも、私……、正直私、玲人くんに恋してるって思えないんだ……。玲人くんが推しだった時間が長すぎて、それとの区別がつかないの……」

長かった一方通行。推しと信者(ファン)を別け隔てていた壁の高さ。完璧な玲人を見続けていたから、今目の前に居る完璧な玲人も、どこか現人神のように思えてしまう。そう伝えると、玲人はまた笑った。

「だって、こんなに嫉妬丸出しなのに。それでも神さまだって思うの?」
「うう~ん……。嫉妬するシーンも、ドラマでやってたしねえ……。なんか、私の中の玲人くんデータベースのデータ量が膨大すぎて、この三ヶ月間ではなかなか塗り替えられなくて……」
「じゃあ、これから塗り替えさせてよ」

そう言って手を握られて、あかねの手を包み込むその手のひらの大きさにテンパる。

「えっ? えっ? えっ!?!?」
「例えば、画面越しにしか会ってなかったときは、こうやって手を握ることもなかったでしょ? そういう、僕があかねちゃんにとっての神さまだったころにあかねちゃんが経験しなかったようなことを体験したら、少しは僕がちゃんとあかねちゃんの目の前に居る人間だって認識してもらえるんじゃないかな。名づけて『高橋あかねの暁玲人初体験』!」

えええー、そんなの無理―!!! 推しを初体験って、どんな萌えゲームだよ!!!

「れ……、玲人くん……。私やっぱり……」
「はい、駄目とか言わないー。あかねちゃんにとって今の僕は? 神でしょ? その神が言ってるの。神さまも時には俗世に交わりたいよね? そのお供をあかねちゃんがするの。神さまのお供って思えば、ちょっとは気が楽?」

うううん??? なんか言いくるめられているな??? でも『お供』だと思えば、幾分罪悪感は減るな……。

「……う、うん……。じゃあ、頑張って、みる……」

凄くすごく悩んで、結局のところ、これ以上玲人に対して嫌だと言えなかった。しかし、玲人が喜ぶのを見て、あれっ、と思う。

「でも、玲人くん。諸永さんとはちゃんと付き合ってたんじゃなかったの……?」
「は?」
「だって、名前呼び捨てにしてたじゃない……。てっきり……」

そのくらい親しくなったんだと思っていた。あかねがそう言うと、ああ、あれはね、と言って玲人が種明かしをしてくれた。

「諸永さんは結局のところ僕の気持ち分かってくれて、だからあかねちゃんが僕のこと気になるように協力してくれたの。一緒に行動してみせたのも、わざと教室の前で会ってたのも、名前を呼び捨てたのも、ぜーんぶ、お芝居」

ええええ、流石先期のドラマ俳優ランキング一位にランクインしただけあるなあ。見事な演技力! ホントにこれは騙された!
あかねが悔しがっていると玲人は、あははと笑いながらこう言った。

「そうだよ。目的を叶えるためなら何でもやるんだから。そんなの、あかねちゃんはもう十分知ってるんでしょ?」

これまた憎めない笑顔で、玲人がウインクする。

ああやっぱりあかねの推しは完璧だ。あかねは人生でn回目の納得を、今日もした。