「イリヤ!」

 山を下りた時には、もうすっかり夜が明けていた。家の近くまでくると、まだ朝早いというのに、ラウラ姉さまが私を見つけてすごい勢いで走ってくる。

「姉さま?」
「姉さま、じゃないわよ! あんた、一晩中どこへ行ってたの?! もうっ……こんなに心配かけて……!」
 そう言って姉さまは、私を、ぎゅ、と強く抱きしめた。

「暗くなっても帰ってこないし、このままあんたが見つからなかったら、私たち、どうしたらいいかと……」
「心配かけて、ごめんなさい」

 誰も、誰かの代わりにはなれない。
 そうだね。いつもは小言ばかりの姉さまが、泣きはらした目で私を待っていてくれた。
 私も、姉さまにとって大切な一人、なのね。

 体を離した姉さまは、にっこりと笑った。
「無事で、本当によかったわ。それより、早く家に入りましょう!」
 なぜだか、姉さまは急かすように家の扉を開く。わけがわからないながらも私が家に入ろうとすると……

「イリヤ!? 帰ってきたの?」
 開いた家の扉から、ママが飛び出してきた。

「マ、ママ?! 起きて大丈夫なの!」
「ええ。それより、あなたこそどこへ行ってたの? みんな心配したのよ」
 軽やかに走ってきたママが、私を抱きしめる。信じられない。昨日まで起き上ることもできなかったママが、私のことを抱きしめている!

「無事で、よかった……!」
「ママ……!」
 暖かいその体に腕をまわす。間違いない。ママの匂いだ。

 ありがとう。悪魔。
 私の願いを、かなえてくれたのね。

「ママ、大丈夫なの? 辛くないの?」
「ええ。どういうわけかわからないけど……今朝起きたら、体が軽くて……昨日までの苦しさが嘘のようだわ」
「よかったね、ママ。本当に、よかった……」

「イリヤ! どこへ行っていたんだ!」
「心配したんだぞ」
 家の中から、パパとヨアン兄さまも出てきた。

「夕べお前を探しているときにアンに会って、お前にカジエ山の悪魔のことを話したって聞いたんだ。もしや、と思って、これからヨアンと二人で迷いの森に行こうとしてたとこだ」

「私、悪魔にママを助けてもらおうと思ったの。だから、迷いの森に……」
「行ってきたの?!」
「うん。でも、悪魔には会えなかったわ」
「ばかね。悪魔なんて、いるはずないじゃない。それでなくてもあの森は、獣も多くて危ないというのに……」
「イリヤ、ありがとう」
 ママが、また私を抱きしめる。その腕は、少しだけ震えてた。

「でもね。イリヤが死んでしまったら、ママ、自分が死ぬよりも、もっともっと辛くて悲しいわ。だから、お願い。もう、ママから離れないで」
「うん……ごめんなさい。ママ」
「もういいから。さ、朝御飯にしましょう。お腹すいたでしょう? イリヤが戻ってきたら食べさせてあげようと思って、ママ、久しぶりにパンを焼いたの」
「嬉しい! お腹すいた!」
「じゃあ、手を洗って着替えを……あら?」
 私の様子を見たママが、ふと、首元を見つめた。

「これ、どうしたの?」
「え?」
 二つボタンの開いたブラウスに、ママが手を寄せる。

「なにか痣が……虫にでも刺されたのかしら」
「まるで、バラの花みたいな形ね」
 姉さまも覗き込んで言った。

 自分では見えないけれど。
 そこにあるのは、約束のしるし。

「さあ? 痛くもかゆくもないけど」
「一晩中山の中にいたんじゃ、虫にも刺されるわよ。あーあ、スカートも泥だらけじゃない」
「ごめんなさい、ママ。せっかくママが作ってくれた服なのに……」
「いいのよ、イリヤが無事なら。スカートなら、また作ってあげるわ」
 嬉しそうなママの頬は、バラ色に光っていた。

 それは、私が見たかった笑顔だった。

「ママー! ごはんー!」
「ママー!」
 家の中から、弟たちの元気な声が聞こえる。パパと兄さまが、それを聞いて笑いながら家に入っていった。

「はいはい、すぐ支度するわね。ほら、イリヤも」
「うん」
 返事をして、私はカジエ山を振り返る。

 緑の森の向こうに、高々とそびえる山。
 そこにいるのは、薔薇の庭に住む優しくてきれいな悪魔。

 そういえば名前を聞きそびれちゃったな。悪魔に、名前があればの話だけど。私も名乗ってこなかったけど、一年後、ちゃんと私を見つけることができるのかしら。

 私は、そっと首元の痣に手を当てる。

 見つけてもらえなかったら、私から行けばいい。
 もう一度、あの人に会うために。

「イリヤ?」
「ううん、なんでもない」

 私は、姉さまと手を繋いで、一緒に家へと入った。おいしいパンの匂いのする、笑顔のあふれる私の家へ。






Fin