藍一郎さんは日中、部屋を空けるようになった。私は藍さんと二人で静寂の中に取り残された。

 藍さんは空箱の中でいつも泣いていた。たまらず声をかけたこともあったが、言葉はなにも返ってこなかった。忌まわしげな哀しげな視線が返ってくるばかりだった。

 藍一郎さんは部屋へ戻ってくると決まって私を殴った。襟を攫み、髪を鷲攫みにし、拳で平手で攻撃した。それに抗う理由は私にはなかった。ただ激しい風雨の過ぎるのを待った。抗う理由と共に、哀しみもなかった。

 「紛い物の分際で調子に乗りやがって」

 張り倒され、殺気に満ちた彼の眼を見返せたのは、単に清らけき弟の御心のままにという思いだけではなかったように思う。私もどこか、気が触れたところがあったのだろう。それが犯した罪への意識からか、あるいは単に痛みで頭の働きが鈍っていたためなのかはわからない。

 「なんだ、その眼は」と彼はいった。「人間風情が狂ったように一つを求める様が嘲笑に値するか」と。

 「ああ、化け物には人の思うところなんぞわからないだろうよ」

 確かに、私は化けているのかもしれない。悍ましい異形かもしれない。人間ではないのに、完全な人間としてここで過ごしてきた。人に化けた、あやかしとも人間ともつかぬ異形。半妖という幅のある言葉のほんの隅に位置する、なにを名告るにも不完全な異形、化け物。

 「手前にだけは渡さぬ。菊臣もだめだ、俺がここを継ぐ。そして人間さまの世から、化け物共を一掃するんだ」

 「藍一郎さん、」と呼んでみると、なにか一撃が飛んできた。もはや拳も平手もわかりやしない。

 「喋るな。手前は俺の兄ではない。またとその声を発するな」

 薄い脣が乾いた嘲笑を吐く。

 「いや、俺には兄なんぞいたことがないんだ。日暮寒菊なる人間は一日たりともこの世に存在しなかった。俺の兄はその幻の日暮寒菊だ。手前はなんだ? 気が違った両親に名前も与えられなかった卑しい化け物だ」

 彼は僅かに眉を顰め、首を振った。「ああ、手前は日暮寒菊じゃあない」と呪詛のようにべったりした声が鼓膜に張りついた。その声は「一日だってそうだ。手前に名前なんぞありはしない」と小さく幾度も頷く。

 「手前にはなにもありはしないんだよ。死んだ家族への虚しい情念だけだ。そんな化け物に誰が家を明け渡す。ここの長男は俺だ。俺は決して手前にはここを渡さぬ。ここは人間の家なんだ、化け物屋敷じゃあない。手前のような卑しい存在はお呼びでないんだ」

 少しずつ、望みが萎れていくのが眼に見えるようだった。ここにいながら、どうすれば私にこの純情な青年の呪縛を解ける。この青年の激情を、どうすれば鎮められる。

 一つの名前が体の芯にこびりついた。一助——。彼奴ならばなにかできないだろうか。

 一助、一助よ、君が今尚、私と仕事がしたいと望んでくれるのなら、一つ力を貸してほしい。どうか、藍一郎さんの情念を鎮めてはくれないか。私には、菊臣さんの優しい切望か、己が命と彼の優しい切望を捨てるしか術がない。

 ああ、一助——!

 ふと、頬に首に熱が落ちてきた。刺されたのとは違う、やわらかな熱だった。人の体温のかけらだった。

 「藍一郎さん……」

 「なぜ、……なぜ、」

 彼は力のない拳で幾度も私の胸を殴った。

 「藍一郎さん、」

 「黙れ……」

 私は彼の頬を伝う体温を拭った。「泣かないで下さい」

 この手前勝手な醜い化け物のために、流してやる涙はない。