「兄上、」と震えた声がした。

 「菊臣」と藍一郎さんがそれに答えた。

 「こっちへくるな」

 「兄上、寒菊兄さんは、」

 「これは寒菊じゃない!」と歎く声は泣いていた。

 「寒菊はもういない、……いないんだ」

 「兄上、聞いて下さい、」

 静かな足音が、私のそばを離れていく。その先から「菊臣、」と涙声が聞こえてくる。

 「お前だけは……」

 どうも頼りない頭で、自分の呼吸の荒いことに気づいた。ふと頭を触られ、「寒菊さま、」とか細い声がした。顔を上げると、藍さんの泣き顔と眼が合った。

 「ごめんなさい、……誰か、一助さま、なにか手当てのできるような、」

 「構わないで下さい」と私は答えた。藍一郎さんから、藍さんだけは奪ってはならない。彼女には、彼の味方であってもらわねばならない。

 「藍一郎さんが怒るのは当然です。話は、彼から聞いて下さい」

 「藍」と地を這うような声が響いた。「それに寄るな」

 「しかし藍一郎さま、なぜ寒菊さまを、」

 「戻れ」

 「なぜ寒菊さまを刺したのですか」

 「いいからこい」

 「寒菊さまがなにをなさったというのです」

 「藍さん、」と私が促すのと同時に藍一郎さんが「藍」と怒鳴った。

 彼女はすっと立ち上がると、「一助さま、どうか寒菊さまを、」といい置いて寺の中へ入っていった。

 「平気かい?」と眼の前にしゃがむ声はあまりに楽観的だった。むしろこの状況を愉しんでいるようでさえある。

 「そう見えるかい」といいながら私も笑えてしまうのだからおかしかった。

 「やはり君も人間じゃあないね。ぴんぴんしていやがる」

 「ぴんぴんは……してないけれども、」

 「まあじっとしていてよ」というと、一助は私の肩に触れた。張りついた痛みが強まり、不恰好な声が出る。

 「なるほどね、旦那は我のこれに甘んじて、君をこんな危険なところに放り込んだのかもしれないね」

 へらりと喋りかけられても、傷口を強く刺激されているような痛みでなにも答えられない。

 「しかし容赦のない男だね、藍一郎も。酷い傷だよ」

 どれほど経ったか、「もう少しだよ」といわれて、ようやく痛みが落ち着いてきた。じくじくと残るそれに知らぬふりを決め込んで礼をいうと、そう急ぎなさんなと苦笑が返ってきた。

 「ほら、治ったよ」

 確かに痛みがなくなった。私は座ったまま体勢を整えた。見れば、なにをしたのか着物も廊下も綺麗になっている。

 「鬼もこんなことができるのかい」

 「宿の方にいった、医者が使っていた冊子がいるだろう、帖と名づけられていたかな。それと、洗い物屋だか洗濯屋だか、そういうのをやっていた奴がいたろう、名前は憶えていないけれどもね。とにかく彼らの力を記憶しておいたんだよ。いかんせん外出ができないからね、退屈なのだよ」

 命拾いしたね、と一助は得意げにいたずらに笑った。