後日、私は藍一郎さんと寺の前で庭を眺めていた。

 ふと、藍一郎さんは「寒菊は寒菊でよかったのか」といった。

 「久菊がつけた名前なんだろう。藍に聞いたよ」

 「私はこの名前を気に入っていますよ。それまでは名もなき放浪者ですから」

 「御両親に会ったらなにがしたい」

 「そうですね、無事でよかったとだけ伝えたいです」

 「それが全部だな」と藍一郎さんは穏やかに笑って頷いた。「それで全部伝わる」と。

 ただな、と藍一郎さんは小さく笑う。「俺はちょっと、一つ殴ってやりたい」

 ぎくりとしたのを隠し、私は「なんてこというんですか」と笑い返す。

 「母君はなぜ出ていった、父君はなぜ息子を連れていかなかった。二人はなぜ、息子に名前さえ与えなかった! 俺には理解できない」理解できない、と彼はもう一度、足元に静かな声を落とした。

 「父は、家を空箱にしてしまいたくなかったのでしょう。野菜売りとして顧客もいましたし。尤も、私も一度は、共にいけばよかったと思ったのですが」

 私は苦笑してから、「しかし、」と続ける。

 「ここにこられたことは、私の生涯で一等幸福なことと思っています」

 藍一郎さんは驚いた顔をしてから、嘲るように笑って見せた。「そりゃあ、動物が勝手に入ってくるようなおんぼろ家屋じゃあそうだろうよ」と。

 「散歩でもしよう」といって、藍一郎さんは裏へ向かい歩き始めた。私はそのあとに続く。

 「さっさと御両親を見つけ出して一発殴ってやらねば気が済まぬ」という藍一郎さんに「全く物騒ですな」と苦笑する。なにせ、藍一郎さんに知られては、両親は一つ殴られるくらいでは済まないはずだ。

 ふと、そばの木からこちらへ向かって鳥が飛び出してきた。「おお、」と声をこぼし、一歩廻廊の外へずれた藍一郎さんの体が、足を踏み外したか庭の方へ放り出された。

 理性というのはなんとも脆弱なものだ。

 衝動というのはなんとも激しいものだ。

 体が、私とは別に意識を持ったようだ。

 私が後先を考えるより先に動きだした。

 「藍一郎さん」と叫んだのは紛れもなく私の声だった。

 空を切る彼の腕を攫んだのは紛れもなく私の手だった。

 理性というのは、なんとも脆弱なものだ。

 衝動というのは、なんとも激しいものだ。

 秘め事を易々と散らし、花弁を舞わせる。

 衝動による理性の崩壊を理解するより先に、藍一郎さんの怯えた顔を見た。

 幸福の死んだのを知った。