結局、菊臣さんと二人で、冷えた水で茶器を洗い、爨に入った。藍一郎さんの姿はなかった。

 「全く」と菊臣さんは不安を掻き消すように苦笑する。「こんなに苦しむのなら、どうして罪のないあやかしを蔑むのでしょう」と。

 それは、といいかけた私のいいたいことは彼もわかっているはずだった。私は「全く莫迦な男ですね」と彼に同調してみせた。

 「人間というのは、どうして斯くも弱いのでしょう」

 私はとうに冷えている糅飯を飯茶碗に盛りながら「弱いのでしょうか、」と聞き返した。

 「私は、人間は豊かな生き物と思います」

 「人間ほど愚かで弱い生き物はありませんよ」

 「自らの欠点を認められるほど、人は豊かなのですよ。もっと強く、美しくと自らに課し、どうすればそれが手に入るかと悩むのです」

 いいながら、私は人間という生き物がたまらなく愛おしく思えた。

 「そうですね、その姿は自分で見てしまえば、あまりに滑稽ですが。美しい生き方に貪慾になるも、ふと冷静になってそれを恥じるも、どれも人間の特権なのですよ。より美しく、不様に、滑稽に生きた者が、より生きた時間に価値を得るのでしょう」

 「哀しい生き物ですね、」

 「そうでしょうか。美しさも滑稽さもわかるのですよ、そんなにも豊かな、愉快なことはありません」

 「僕は、やはり強く在りたいです」

 「いいではありませんか」

 「この世の全てを許し愛せる、そんな強い人間になりたいです。自分の言葉を行動を、悔いるような人生は送りたくないです」

 「貴方にはできるでしょう」と私は答えた。

 しかしこの世の全てを許し愛したところで、それを悔いることはないのだろうか。

藍一郎さんは、藍さんを愛したことを悔いてはいないだろうか。いっそのこと、藍さんのこともほかのあやかしと同じように厭わしく思えたならと歎いてはいないだろうか。

 菊臣さんは「兄上の様子を見てきます」といって爨を出ていった。

 私は四人分の食事を用意して、菊臣さんのあとを追うように藍一郎さんの部屋の方へ向かった。

 彼が「兄上、」と襖の向こうへ呼びかけるのは何度目だろうか。

 「開けますか、」といってみると、菊臣さんは驚いた顔をした。

 「開けられたくなければなにかしら答えるでしょう」といいながら、私は襖を開いた。部屋は空の薄闇を写した色味でしんとしていた。

 「菊臣さま、寒菊さま、」と静寂の中に声が震えた。

 「藍さん、兄上は」と菊臣さん。

 「ひと、……一人に、なりたいと仰って、」

 「出かけたのですか」と私が尋ねる。

 「菊臣さま、寒菊さま、私はどうしたらよいのでしょう……。私は、藍一郎さまになにができるのでしょう、」

 私は菊臣さんと共に部屋に入った。菊臣さんは行燈に火を入れ、私は藍さんの髪を撫でた。「寒菊さま、」と腕の中に倒れてくるその華奢な体を抱える。

 「藍さんは、藍一郎さんのそばにいればいいのです」

 「私は刀です、あやかしです。藍一郎さまの厭う、……化け物です、人間の藍一郎さまとは、出会ってはならなかったのです、」

 「そんなことはありません。藍一郎さんもいったはずでしょう、彼は貴方を愛しています」

 「私がいけないのです」と細い体が震える。「私が、あやかしなんて醜い存在でありながら、藍一郎さまを恋うから、……お優しい藍一郎さまは、胸奥では厭わしく思いながらも、私を捨てられないのです、」

 「彼はなんといったのです」

 藍さんはとうとう泣きだし、私の胸に縋るようにした。藍一郎さんは、自分にとって彼女が特別な存在であると伝えたのだ。

 「それは事実です。藍一郎さんは確かに、貴方に特別なものを感じています」

 「どうして、私は人間ではないのでしょう」と彼女は悲歎した。

 私は、生まれてこの方感じたことのない激情を抱いた。彼女を抱くのは、彼女の悲歎に寄り添うのは、私ではない。

 彼があの小高いところから町を眺めている様が眼に浮かぶ。

 ——藍一郎、戻りなさい。彼女の悲歎に向き合いなさい。貴様の胸中に満ちる想いを彼女に伝えよ。誠を尽くし、言葉を尽くし、この可憐な情愛に応えよ。

 藍一郎、と腹の中で叫んだとき、廊下を歩く足音が近づいてきた。私は魂の美を象徴するようにまっすぐに一人を想う彼女の髪を撫で、そっと立ち上がった。

 静かに開いた襖へ向かい、私は部屋を出る直前、彼の耳に口を寄せた。「よく戻ってきてくれましたね」