陽が沈みかけた薄闇の中、菊臣さんは行燈に火を入れた。ぼんやりとあたたかみのある明かりが揺れる。

 あれから一度も、藍一郎さんの部屋から物音や声が聞こえることはなかった。

 私は茶碗を持って立ち上がった。眼に動きを追われ、「夕餉の支度を」と答える。

 「それなら僕も、」と彼も立ち上がった。

 「いえ、結構ですよ。これでも藍一郎さんに、手際がいいと認められたのです、心配には及びません」

 男がなんだという、それを愛せる者が長になればよいのだと泣いた少年には酷だが、彼には男であってもらわねばならない。尤も、私のこの考えは、この家の使用人・梶澤佐助なる素性の知れぬ男の言葉によるものだが。

 ふと思い出してしまえば気になるものだ。

 「ところで菊臣さん、」

 「はい」

 「梶澤佐助という男を御存知ですか」

 彼は薄闇の中で困った顔をした。そして「いえ、知らないですね」という。

 「ではこの家に使用人がいるというのは、」

 「使用人、」と彼は驚いたように聞き返した。「そんなもの雇う金なんてありませんよ、……ああ、僕はあまり、家のそういうところは知りませんが、」

 「確かに藍一郎さんがそういいますね、金がないと」

 「嘘ではないはずですよ。宿という商いをしながらこれほど生活が質素なのは、紛れもなく僕の娯楽のせいです。暇を見つければ出かけますし、東雲堂の旦那から本を買ってみたりもします」

 「愉しみも必要ですよ」と私は笑い返した。実際、そうだと思う。

 「しかし、梶澤佐助とは何者なのでしょう」

 「然様な者が実際にいるのですか、」

 「ええ、藍一郎さんに頼まれて、野菜を採りに朝、畑へいったときに会ったのです。そうですね、年の頃は三十ほどの、小柄な男でした。ただ、使用人という割に立派な服を着ていたのですよ」

 菊臣さんは考え込むように黙ってから、「妖怪ではありませんか」といった。いかにも兄弟らしい考えに笑ってしまう。私は「どうせなら美しい女性がよかったのですが」と返す。

 「久菊さまに仕えているといっていたので、久菊さまはなにか御存知でしょうか」

 「また父上ですか、」と菊臣さんは苦笑する。「あの人は全く、言葉が足りないのです。いえ、むしろ言葉がないのですよ。まさか、その使用人のためにこんな生活をしているのですか、」

 「それはわかりませんが……。しかし一人に仕えるにしても、食事の用意はその者がするのではないでしょうか。ですがここではこれまで、藍一郎さんがやってきました」

 「ではやはり、使用人などいない、と? では盗人でしょうか、野菜が欲しかったのかもしれません」

 「上等な服を着ながら盗みですか」

 「ちと刺激が欲しかったのですよ」

 「まあ確かに、それが自然ですね」

 あれから梶澤佐助の姿は見えない。

 しかし、ではなぜ、あの男はこの家に関することを知っていたのか。やはり、実際に久菊さまに仕えているのではなかろうか。

なにせ彼は、この家の長男が藍一郎、二男が菊臣ということまで知っていたのだ。

あの畑やこの寺のことは、その場で思いついたといわれれば、まあそういう切れ者もあるかもしれないということにできても、

家の者の名前まで正確に口にされては、関係のない者ですといわれてもああやはりそうですかというわけにはいかない。