「そろそろ夕餉だな」という藍一郎さんの言葉で、皆で帰路についた。

 坂を下りながら「いい一日でしたね」という菊臣さんに、藍一郎さんは「雨が降らなければもっとよかった」と答えた。傘たちの間に緊張が走るのがわかった。

 「夜に冷え込みが強くなれば雪になってしまうかもしれませんね」と私はいった。「明日は庭の雪をどけるか」という藍一郎さんに、「それも悪くないです」と菊臣さんの無邪気な声が返る。

 玄関の前まで伸びる階段の下で、藍一郎さんは「戻れ」と傘に告げた。私が「ありがとう」と続くと、傘は皆一斉に自ら閉じ、その直後、竹垣の向こうから鳩司君が飛んできた。

 「お帰りなさいませ、」という鳩司君に、藍一郎さんはなにも答えずに階段を上っていく。「ただいま」と答えた声が菊臣さんのものと重なった。

 「ごめんね、」という菊臣さんに、鳩司君は「いえ、」と弱く苦く笑い返す。

 三本の傘を手に「お体、冷やされないで下さいね」というと、鳩司君は深く頭を下げた。きた方へ向き直ると、素早く両の足を繰り出しながら姿を小さくしていく。その人間の姿でも竹垣を軽々飛び越える彼の姿を見送って、私たちは階段を上った。

 爨では、すでに着替えを済ませた藍一郎さんが作業していた。「寒菊、手伝ってくれ」といわれ、「畏まりました」と答える。「着替えてきますね」といい置いて廊下を進む。

 菊臣さんと部屋に入ると、「ありがとうございました」といわれた。

 「なんとなく、藍一郎兄さんと昔に戻ったような気分です」

 私はその言葉が嬉しくて、「然様ですか」と答えながら笑った。

 「藍一郎兄さんがもうちょっと、あやかしたちに穏やかに接せられるといいのですが、」

 「それは仕方ないことかと思います」

 大人の仲間入りをして間もないような青年に、幼い頃の傷を隠すのはそう易いことではないだろう。

 「しかし、菊臣さんはあやかしに対して悪意がありませんね」

 菊臣さんはほんの短い沈黙を作って、「彼らは、関係ありませんから」といった。

 「それは僕だって、母上のことは哀しいです。しかし、宿の方にいる彼らは、人間に対して一切の悪意を持っていません。それどころか、あんなふうに献身してくれています。

人間か魂か、そう大きく分けてしまえば、彼らは母上を襲った化け物と同じです。しかしそれで彼らを詛ってしまえば、こちらこそ母上を襲った化け物と同じになってしまいます。罪のない者を詛うのですから」

 「立派に区別なさいますね」

 藍一郎さんはただ、菊臣さんが悪霊とほかの魂を区別するのと同じように、奥さまを、母君を愛しているのだ。

 台所へ戻ると、藍一郎さんはこちらを振り返った。

 「これまでは悪かった」

 「なんのことでしょう」

 「寒菊が父上に気に入られるのが怖かった。どうしてもここを継ぎたかったんだ。自分の手で菊臣を守りたかった。なにも知らぬ他人に弟の命を託してたまるものかと思った。母上の仇も取りたかった、」

 藍一郎さんは薄い膜の張った眼で笑い、家事をこなすしなやかな手を差し出した。「仲直り、……ともいいづらいが、これからも頼むよ」

 私は「とんでもない、」と笑い返す。「私たちはなにも、初めから仲を違えてなどいませんよ」と、その手を握ることを断った。しかし今までの彼の態度を気にしていないのも偽りではない。

 淋しげな眼をする藍一郎さんに、私は「久菊さまが腹を空かせて乱心してしまいますよ」と笑いかける。

「父上はそんな者じゃない、」といいながら、藍一郎さんも微かに表情をやわらげた。