藍一郎さんと菊臣さんが「蕎麦でも食うか」

「金は使わないのではなかったですか」

「三人で出かけるなんてのは初めてだろう、ちょっとした記念だ」といい合い、結果、近くの蕎麦屋に入った。

他所での食事なんて初めてだ、とはさすがに黙っておく。

落語も聴いたことがない、健康を損なったこともない、火災は話で聞いたことしかないといった上、他所での食事も、なんなら蕎麦を食すのも初めてだなどとはいえない。いい加減に普通の人間ではないと思われそうだった。

いや、半妖であるなどという特殊な体を使わずともそれで生活ができていたのだから、それほど珍しいことでもないのだろうが、この二人は驚くかもしれない。

 茶を一口飲んで、菊臣さんが「兄上は今まで、どう過ごしてたんですか」といった。

 「父君は野菜を売っていたそうだ」と藍一郎さんが答える。「ええ」と私はそれに頷く。

 「どの辺りに住んでたのですか」

 「かなりの田舎ですよ、近くにほかの人などいないような」

 「そうですか、」という声は、なるほど、というような調子だった。確かにあんなところに住んでいたから、娯楽も災難も他所での食事も知らずにいられたのだろう。

 私と菊臣さんの後方で扉が開き、藍一郎さんがそちらへ眼をやった。「これは降りそうだな」と呟く。

 「確かに先刻もひどく曇っていましたね」と菊臣さん。

 「雪になるでしょうか、」

 「どうでしょう、そんなことはなさそうですけど……」

 初めて食した“蕎麦”はかなり美味だった。

 店を出ると、足元にまだら模様が描かれていた。

 「降ったか、」と苦笑する藍一郎さんに「こういうのも楽しいものですね」と菊臣さんがいう。

 私は二人の親しげな様子を微笑ましく思いながら、素早い足音を聞いた。私があやかしの気配を感じたのと、藍一郎さんが反応したのは同時だった。菊臣さんの前に立つようにした。

 その足音のもとは、私たちの前で急停止した。「寒菊さま、藍一郎さま、菊臣さま」と頭を下げる。「鳩司君、」と彼を呼んだのが、「鳩司、」と反応した菊臣さんの声と重なった。

 鳩司君は武士が刀を差すのと同じようにして三本の傘を帯で固定していた。

 「傘をお持ち致しました」という彼の声を合図にしたように、彼の腰から三本が離れ、飛び上がるようにしてそれぞれ私たちのもとで開いた。

藍一郎さんのもとに露草君が、菊臣さんのもとに芥子さんが、私のもとでは卯ノ花さんが。皆、傘布の色が名前になっている。

 鳩司君は「言伝はございません」といって頭を下げ、高く飛び上がった。雨空を仰ぐと、白い傘の曲線の先に鳩が飛んでいるのが見えた。

 「間に合いましたか、」という卯ノ花さんの声に、私は「ええ」と答える。

 「しかしなぜ、」

 「鳩司が雨が降っているようだと申しまして、私共を呼びつけたのでございます」

 「しかし、」と藍一郎さんがつまらなそうな声を発した。「なぜ男がくる」と。

 「黙れ若造、手前の拘る藍色だからというので餘が送り出されたのだ。手前が雨に濡れようが雪に埋もれようが餘には取るに足りぬことだ」

 「俺が化け物に頼らねばならぬほどの雨なぞ降りやしない」

 「はっ、化け物だ? なにかこの小倅、久菊さまの子でありながら我々のような無垢な魂と悪霊との違いもわからぬのか」

 「わかるものか、手前らとてそのうちに化け物らしく暴れるのだろう。今こうして大人しくしていられるからと調子に乗るなよ、ちと刺激すりゃあ、すぐに化けの皮が剥がれるんだ」

 「はん、できようものならやって見せろ。我らに手前のような小悴に剥がせる皮なんぞあらぬわい」

 「ああ、仲よくして下さいませ!」と菊臣さんのもとで芥子さんが哀しげにいう。

 「ああ藍一郎さま、どうかこんなときくらいは、我々を使って下さいませ。我々にとって、使って戴けることがなによりの喜びなのです」

 「この小悴に使われるくらいならば捨てられた方がいい」

 「どうしてそういうのです。捨てられるなんてそんなにも哀しいことはないではありませんか、」

 「別に愛されたいわけじゃない。ただ、嫌われたくない」

 「そういうわけですから藍一郎さま、どうか露草を愛してやって下さいませ」

 莫迦、と露草君が短く返す。「芥子よ、貴様、餘の言葉を聞いておったか」

 「黙ってくれ」と藍一郎さんが低く静かにいった。「頼むから、黙っていてくれ」と。