ちょうど、藍一郎さんと同時に部屋を出た。「菊臣、」と静かな声が呼ぶ。

 「寒菊を散歩に誘ったんだ、お前も一緒にどうだ」

 「ええ、いきます」と菊臣さんの無邪気な声が答える。

団子を買ってきたと話したときといい、これでは他人にはなにも読み取れない。しかしこの兄弟の間には確固たるものがあるのだろう。

それを読み取れないのは、その他人というのが私だからだろうか。藍一郎さんは菊臣さんの懐に隠れた紫菊に気づいているかもしれない。そう思うと、なんだか自分がとても愚かに思える。なるほど、半妖というのは鈍感な人間のことをいう言葉らしい。

 廊下を歩きながら「どこへいきますか」という菊臣さんに、藍一郎さんは「そうだな、」と静かに答える。

 「俺も久しく外に出ていないものだから、人の声が聴きたいな」

 「落語でも聴きますか」と期待するようにいう弟を、兄は「いや、金はかけたくない」と短く拒絶する。

 「吝嗇も度を越しては身を滅ぼしますよ。多少の愉しみも人生、必要なものです」

 「貴様が書物屋に勧められるままあれもこれもと買っちまうからだ」

 「近頃は貸本にしています。それに時折は買ってやらないと、東雲堂の旦那も苦しみます」

 「彼奴らは一人で何百もの客を抱えてるんだ、そう困りやしないだろうよ」

 「手元に置いておけなくては僕が困ります」

 「そのためにも、今日の落語はなしだ」

 「しかし、藍一郎兄さんと最後に聴いたのはいつですか」という言葉が、藍一郎さんの背中の感情に變化をもたらした。哀愁のような、慈愛のような、やわらかく切ないものが感じ取れた。

 しばしの沈黙のあとの、「そうだな、近いうちにいこう」という声は、あたたかくて震えるような優しさに満ちていた。

 「そのときには、」と振り返った藍一郎さんの声が、全く同じに発された菊臣さんの声と重なった。

 「寒菊も一緒に」という声と、「寒菊兄さんも一緒に」という声がまた重なった。それは私という緩衝材を欲しているようでもなかった。

 私はただ嬉しくなって、「はい、よろしくお願いします」と答えた。

 「ではそのあとには、歌舞伎を観にいきましょう」と弾む声に「莫迦」と短く返る。

 「菊臣よ、うちの食事がこの時代になぜ朝と夕の二度かわかるか」

 「それで事足りるからでないですか」と菊臣さんが軽い口調で答える。

 「莫迦、金がないんだよ。裏に畑があるのだって、野菜を買わずに済むからに決まっている。それで歌舞伎なんぞ観にいってみろ、しばらく糅飯も食えぬぞ」

 「煮豆は?」

 「あんなものこれまでだって年に一遍も食うか食わぬかだろう」

 菊臣さんが喉の奥を鳴らすように、静かに笑った。

 「僕はそれでも、藍一郎兄さんと楽しいことがしたいです」

 藍一郎さんは眼を揺らし、弟から視線を逸らして呆れたとでもいうように笑った。

 「貴様の発言の証しとなる者ならいるぞ」

 なあ寒菊、といわれ、私は「はい」と笑って答えた。