部屋に戻ると、菊臣さんは蒲団に転がったまま本を読んでいた。

「その体勢では疲れませんか」と声をかけると、彼は軽快に体を起こし、蒲団の上に座った。「借りもので、今週に返すんです」といって本を閉じ、そばに置く。

 「藍一郎兄さんですか」

 「いえ、なにも呼び出しを食らっているわけではありませんよ」と私は笑い返す。

 「それに、藍一郎さんはとても優しいお方です」

 「確かに以前はそうでしたが、」

 「問題ありません。藍一郎さんが次期当主の座に執着されるのは、あやかし——人間以外の存在を忌むのは、奥さまの存在が影響しておられるようです」

 菊臣さんは眼を見開いた。

 「兄上が、母上のことを話したのですか、」

 私は黙って頷いた。

 「藍一郎さんが次代の当主を担いたいと願うのは、菊臣さんを危険に——あやかしと接触させないためです。貴方が怨霊に取り込まれるのを黙って見ているというのが耐えられないのです」

 菊臣さんは大きな呼吸に乾いた笑いを含ませた。

 「ではなぜ切りつけるのです」まだ見っともない傷が残っていますと、彼は服の上から、胸の下の辺りで指先を長く横に引いた。

 「それに、一度は本気で自分の出生を疑いました。ここは本当は、日暮の分家なのではないか、父上か母上か、どちらかとは血の繋がりがないのではないか、だからここへ僕を置いて、皆どこかへいってしまうのではないか、本気で考えて怖くなりました、」

 菊臣さんは首を振って深く息をつくと、「僕のことはいいのです」と呟いた。

 「兄上、どうか藍一郎兄さんに、気づかれることのないようにお願いします」

 「問題ありません。藍一郎さんはこの家がお好きではないようです。私は一つ間違えば大事になるような言葉で藍一郎さんを誘惑しました。しかし藍一郎さんはそれを受け容れてくれました」

 菊臣さんは息をつき、それと同時に表情をやわらげた。

 「あとはもう、このまま過ごすだけです」

 久菊さまは初めから私にこの家を明け渡すつもりだった。

見ず知らずの子供にどうしてそこまでしてくれるのかと疑問に思っていたが、それも梶澤佐助なる使用人の告白で理解できた。

あとはなにも知らぬ藍一郎さんが納得してくれるかというところだったが、それも呆気ないほど平和に済んでしまった。