ある日、藍一郎さんの部屋の肘かけ窓からは、雪に彩られた菊の花が見えた。こちらも、宿の庭と同じように、一面、畑のように菊が植えられている。
静かに、ゆったりと流れる時間だった。
「綺麗だろう」と、藍一郎さんは派手な装飾の施された鞘と、紺色の布の巻かれた柄を撫でた。
「此奴がね、俺のここで生きる意味みたいなもんなんだ」
菊臣さんの声が蘇る。藍一郎さん『あい』と叫び、なにが起きたかわからぬまま切られていたという。
「きっと此奴は、どんな刀より美しい」
見ろ、と純粋な慈しみに満ちた声がその刀を差し出す。
「この柄巻の色。俺はこれに救われた」
「藍色ですね」見る場所の明るさによっては黒にも見えるような、深い藍色だ。
「そう、藍色だ。俺だけじゃないんだ」
藍一郎さんはその刀の美しさに酔った、甘い息をついた。
「よくぞここへきてくれたものだ。なんて美しい、なんて哀しい。なんて、忌まわしい」
「忌まわしい、」
「藍色だよ。こんなにも掻き乱される色はない」
「そうですか、」
「寒菊よ、だってお前さん、藍色の菊を見たことがあるか?」
「いえ、ないですね」
「俺は菊じゃない。父上も弟も、菊という高潔で憎らしい花の名を持っている。それでも俺は違う。菊の名を授けられなかったのみならず、それを思わせる字もつけてもらえなかった」
あまりに哀しく話す彼が苦しくて、私はたまらず口を開いた。
「藍一郎さんの生まれたとき、空の色が美しかったからそう名づけたそうですよ」
彼は乾いた笑いをこぼす。「空なんてのはいつだって美しいものだ」と。
「この家に生まれたからには、俺だって菊の加護がほしかった。いや、今だってそうだ。そんな中、この美しい色に出会った」
藍一郎さんは口元に三日月を浮かべ、指先で鞘を柄を慈しみ弄んだ。その眼差しは暗い熱を帯びた深い優しさに満ちている。
「すぐに信じたさ、俺とこの刀との間には紲があると。呪縛と呼んでも差し支えないような、愛憎入り混じる、藍色という狂おしい紲」
彼のその色と菊の花への情念は、私には到底測れない。
彼はそっと刀を抜くと、その刀身をじっくり味わうように撫でた。最後には切先に触れ、鮮血が鋭く光る刀身を伝った。
「痛くないのですか」
「痛いものか」と彼は静かに笑う。
そのとき、確かに刀身を伝っていたはずの血が見えなくなった。
「これは、くちづけのようなものだ」
静かに、ゆったりと流れる時間だった。
「綺麗だろう」と、藍一郎さんは派手な装飾の施された鞘と、紺色の布の巻かれた柄を撫でた。
「此奴がね、俺のここで生きる意味みたいなもんなんだ」
菊臣さんの声が蘇る。藍一郎さん『あい』と叫び、なにが起きたかわからぬまま切られていたという。
「きっと此奴は、どんな刀より美しい」
見ろ、と純粋な慈しみに満ちた声がその刀を差し出す。
「この柄巻の色。俺はこれに救われた」
「藍色ですね」見る場所の明るさによっては黒にも見えるような、深い藍色だ。
「そう、藍色だ。俺だけじゃないんだ」
藍一郎さんはその刀の美しさに酔った、甘い息をついた。
「よくぞここへきてくれたものだ。なんて美しい、なんて哀しい。なんて、忌まわしい」
「忌まわしい、」
「藍色だよ。こんなにも掻き乱される色はない」
「そうですか、」
「寒菊よ、だってお前さん、藍色の菊を見たことがあるか?」
「いえ、ないですね」
「俺は菊じゃない。父上も弟も、菊という高潔で憎らしい花の名を持っている。それでも俺は違う。菊の名を授けられなかったのみならず、それを思わせる字もつけてもらえなかった」
あまりに哀しく話す彼が苦しくて、私はたまらず口を開いた。
「藍一郎さんの生まれたとき、空の色が美しかったからそう名づけたそうですよ」
彼は乾いた笑いをこぼす。「空なんてのはいつだって美しいものだ」と。
「この家に生まれたからには、俺だって菊の加護がほしかった。いや、今だってそうだ。そんな中、この美しい色に出会った」
藍一郎さんは口元に三日月を浮かべ、指先で鞘を柄を慈しみ弄んだ。その眼差しは暗い熱を帯びた深い優しさに満ちている。
「すぐに信じたさ、俺とこの刀との間には紲があると。呪縛と呼んでも差し支えないような、愛憎入り混じる、藍色という狂おしい紲」
彼のその色と菊の花への情念は、私には到底測れない。
彼はそっと刀を抜くと、その刀身をじっくり味わうように撫でた。最後には切先に触れ、鮮血が鋭く光る刀身を伝った。
「痛くないのですか」
「痛いものか」と彼は静かに笑う。
そのとき、確かに刀身を伝っていたはずの血が見えなくなった。
「これは、くちづけのようなものだ」