朝早くに眼が醒め、散歩でもしようかと廊下を進むと、藍一郎さんが早朝の青白い爨にいるのが見えた。彼はこちらの気配に気がついたか、振り返って「ああ」と声を発した。

 「野菜を採ってこい」と作業台に向き直る。

 「野菜ですか」採れるようなところなどあっただろうかと思っていると、「裏の畑、」と続いた。

 「ありゃうちの畑だ。適当に採ってこい」

 「畑も持っているのですか」

 藍一郎さんは私の感想には関心がないようで、私は「畏まりました」と答えて玄関へ向かった。

 階段を下り、畑の方に向かうと、そちらに人影を認めた。菊臣さんは部屋で眠っていたので久菊さまかと思ったが、すぐに違うとわかった。

 その人物はゆっくりと立ち上がり、こちらを向いた。私のまるで知らない、小柄な男性だった。年齢は三十前後だろうか。深々と頭を下げるその人物につられるように、私も頭を下げた。

 宿の方の者だろうか。「どちらさまですか」

 しかし相手は「日暮邸の旦那さまにお仕えしております」と答えた。

 「久菊さまに、」そんな人がいただろうかと記憶を辿るも、思い当たる人物はいない。だからといってあちらから偽りの気配も感じられない。

 「私は失礼致します」といって、その人はこちらへ歩いてくる。屋敷に戻るつもりなのだろう。

 「あの、」と呼ぶと彼は足を止めた。

 「ここは日暮の畑ということですが、」

 「ええ、私もそう聞いております。宿があるので、そのためかと」

 「なるほど」

 「貴方さまは」

 「久菊さまに拾われました」

 彼は一瞬、訝るような眼をしたが、「そうですか」と穏やかにいった。

 「日暮の寺の方について、なにか御存知ですか」

 彼はしばらく黙ったあと、「そうですね」と一つ頷いた。

 それから彼は、この畑のこと、あの寺のこと、久菊さまの考えを話してくれた。

 そうしてから、「これでは召し使いも失格ですね」と彼は笑った。

 「これを知った旦那さまに首を切られるか、これからもこうして顔を合わせることができるか」

 彼は小さく笑って、「私はどちらでも構わないのですが」といった。「ただ、旦那さまにとって用のない存在になることだけは避けたいものです」と。

 「用がなくなれば首を切られますよ」と笑い返すと、彼は嬉しそうに「そうですね」と笑った。

 「そのときには盛大な式でも開きたいものです」

 「そんな哀しい式に誰が参列するのです」

 「いいえ、そんなに喜ばしい式はありませんよ」

 彼は「私は梶澤佐助と申します。なにか御座いましたら早めにお声がけ下さいね」といい置いて、私のきた方へ歩いていった。使用人の割に立派な服を着ていた。