「寒菊」と無邪気な声が弾け、私が振り返るより先に小さな男の子が玄関を飛び出し、寒菊さまに抱きついた。
彼の頭髪は特徴的な色味だった。白と紫の中間色のような、実に美しい色だ。深紅の着物を纏っている。——紅蘭紫菊。
「帰ったんだね」という紫菊に「ああ、今し方」と穏やかな声が返る。
「いい子にしていたかい」という寒菊さまは、まるで父親のようだった。しかし「菊臣と遊んでた」というから、紫菊は一日中やんちゃしていたものと見える。
「兄上、戻られましたか」と菊臣さまも出てくる。「こら紫菊、いけませんよ」という声にはやはり凄みはなく、かえって紫菊のいたずらごころを煽りそうな具合だ。
「寒菊のお出迎えだよ」
「兄上は疲れているんだから」
「問題ないよ」と寒菊さまは優しく答える。
「今日も遠くまでいかれたのですか」と菊臣さま。
「そうでもないよ」という寒菊さまの声に、「寒菊さま」と呼ぶ藍さんの声が重なった。「藍だ」と跳ね上がる声に、彼女は優しく微笑む。
「お帰りなさいませ」と玄関を出てくると、藍さんは「今日はお休みになって下さいな」と寒菊さまへいう。彼の腕から紫菊を抱き取る。
寒菊さまは「そうしようかな」といって藍さんの髪を撫でる。彼女は照れたような顔をしているが、その眼の奥に嫌悪に似たものがどす黒く光っている。
寒菊さまはそれを気にしていないのか、気がついていないのか、表情を一切変えずに門の方へ歩きだす。
「藍、蹴鞠したい」という紫菊に、藍さんは「裏の目立たない方にいきましょうね」と穏やかにいって「あまりはしゃいではいけませんよ」と続ける。
「悪いね」という菊臣さまへ藍さんは「いえいえ」とかわいらしく答える。「菊臣はへたなんだ」という紫菊に、菊臣さまは「悪いね」と藍さんへのそれとは調子を変えていう。
紫菊が手を振ってくれるのに小さく手を振り返し、会釈する藍さんと菊臣さまに同じように返し、三人が林の方へ向かうのを見送る。
「綺」と藍一郎さまの声がする。
こちらへ出てくる彼を名前を呼んで迎える。
「三人はとても親しそうですね」
「夫婦と子のようだ」と藍一郎さまはいう。「そうだ、ああいう家族が一番いい」
その声はやはり、私の受け取り切れぬものを抱えているようで、なにもいえなくなる。
「子供なんていうのは一人がいいんだよ」
「そう、ですか」
私にはそうは思えない。もしも私に兄があれば、弟があれば、武家としての我が家を絶やすことはなかったはずだ。兄か弟か、とにかく長男が継げたはずなのだ。私にできなかったことを、彼らは成し遂げたはずなのだ。
私が握れなかった刀を握り、私が立てなかった戦場に立ち、夫になり、父になり、その家に生まれた者としての責務を果たしたはずなのだ。どれも、私にはできなかったこと。
私の手に刀はない、私のそばに夫はいない、私の腕に抱かれる子供はいない。私には、なにもない。自分の生まれた家も、自分の築いた家も。なんとも無力だ。
「二人も三人もいてみろ、人間というのは不器用なもので、彼らを同じように愛せない」
「そうなのでしょうか」
「優と劣の名をつけて、優を重んじ、劣を軽んじる」
「そんな」そんな哀しいことがあるものだろうか。父はこの私を愛してくれた。母もそうだ。才も力もない私でさえ、あんなにも充実した人生を送ってきた。
「あるんだよ」と藍一郎さまは声を張った。「そんなことが、あるんだ」と哀しい声が呟く。
「優は、全て奪うんだ。劣が持って生まれて、捨てたくても生涯持ち続けるほかないと愚かしく信じて疑わなかったものを、手前には初めからそんなものなかったんだと知らしめて、その非力な腕からそっと取り上げるんだ」
「藍一郎さま……」
「劣は、そうだな、初めからなにも持っていないんだ」
紛い物だよ——。その声は重々しく、無数の菊花を揺らした。
ちらと窺った藍一郎さまの眼には、先刻の藍さんの眼の奥にあったものと酷似した光が燃えていた。
ふと、彼が自らの腕に爪を立てているのに気がついて、思わず「藍一郎さま」と叫んだ。手の中には、収めきらぬ彼のかたい手があった。その突き立てられた爪が、切先のように、深く刺し込まれた刀身のように思えてならなかった。
「なりません。そんなことをしては……なりません」
どうか——
「どうか、御自愛なさりませ」
彼の頭髪は特徴的な色味だった。白と紫の中間色のような、実に美しい色だ。深紅の着物を纏っている。——紅蘭紫菊。
「帰ったんだね」という紫菊に「ああ、今し方」と穏やかな声が返る。
「いい子にしていたかい」という寒菊さまは、まるで父親のようだった。しかし「菊臣と遊んでた」というから、紫菊は一日中やんちゃしていたものと見える。
「兄上、戻られましたか」と菊臣さまも出てくる。「こら紫菊、いけませんよ」という声にはやはり凄みはなく、かえって紫菊のいたずらごころを煽りそうな具合だ。
「寒菊のお出迎えだよ」
「兄上は疲れているんだから」
「問題ないよ」と寒菊さまは優しく答える。
「今日も遠くまでいかれたのですか」と菊臣さま。
「そうでもないよ」という寒菊さまの声に、「寒菊さま」と呼ぶ藍さんの声が重なった。「藍だ」と跳ね上がる声に、彼女は優しく微笑む。
「お帰りなさいませ」と玄関を出てくると、藍さんは「今日はお休みになって下さいな」と寒菊さまへいう。彼の腕から紫菊を抱き取る。
寒菊さまは「そうしようかな」といって藍さんの髪を撫でる。彼女は照れたような顔をしているが、その眼の奥に嫌悪に似たものがどす黒く光っている。
寒菊さまはそれを気にしていないのか、気がついていないのか、表情を一切変えずに門の方へ歩きだす。
「藍、蹴鞠したい」という紫菊に、藍さんは「裏の目立たない方にいきましょうね」と穏やかにいって「あまりはしゃいではいけませんよ」と続ける。
「悪いね」という菊臣さまへ藍さんは「いえいえ」とかわいらしく答える。「菊臣はへたなんだ」という紫菊に、菊臣さまは「悪いね」と藍さんへのそれとは調子を変えていう。
紫菊が手を振ってくれるのに小さく手を振り返し、会釈する藍さんと菊臣さまに同じように返し、三人が林の方へ向かうのを見送る。
「綺」と藍一郎さまの声がする。
こちらへ出てくる彼を名前を呼んで迎える。
「三人はとても親しそうですね」
「夫婦と子のようだ」と藍一郎さまはいう。「そうだ、ああいう家族が一番いい」
その声はやはり、私の受け取り切れぬものを抱えているようで、なにもいえなくなる。
「子供なんていうのは一人がいいんだよ」
「そう、ですか」
私にはそうは思えない。もしも私に兄があれば、弟があれば、武家としての我が家を絶やすことはなかったはずだ。兄か弟か、とにかく長男が継げたはずなのだ。私にできなかったことを、彼らは成し遂げたはずなのだ。
私が握れなかった刀を握り、私が立てなかった戦場に立ち、夫になり、父になり、その家に生まれた者としての責務を果たしたはずなのだ。どれも、私にはできなかったこと。
私の手に刀はない、私のそばに夫はいない、私の腕に抱かれる子供はいない。私には、なにもない。自分の生まれた家も、自分の築いた家も。なんとも無力だ。
「二人も三人もいてみろ、人間というのは不器用なもので、彼らを同じように愛せない」
「そうなのでしょうか」
「優と劣の名をつけて、優を重んじ、劣を軽んじる」
「そんな」そんな哀しいことがあるものだろうか。父はこの私を愛してくれた。母もそうだ。才も力もない私でさえ、あんなにも充実した人生を送ってきた。
「あるんだよ」と藍一郎さまは声を張った。「そんなことが、あるんだ」と哀しい声が呟く。
「優は、全て奪うんだ。劣が持って生まれて、捨てたくても生涯持ち続けるほかないと愚かしく信じて疑わなかったものを、手前には初めからそんなものなかったんだと知らしめて、その非力な腕からそっと取り上げるんだ」
「藍一郎さま……」
「劣は、そうだな、初めからなにも持っていないんだ」
紛い物だよ——。その声は重々しく、無数の菊花を揺らした。
ちらと窺った藍一郎さまの眼には、先刻の藍さんの眼の奥にあったものと酷似した光が燃えていた。
ふと、彼が自らの腕に爪を立てているのに気がついて、思わず「藍一郎さま」と叫んだ。手の中には、収めきらぬ彼のかたい手があった。その突き立てられた爪が、切先のように、深く刺し込まれた刀身のように思えてならなかった。
「なりません。そんなことをしては……なりません」
どうか——
「どうか、御自愛なさりませ」