「藍一郎さまは、藍色がお好きですか」

 藍一郎さまは一歩下がって、「なにを」と笑った。

 「自信がないだけだよ、自分の与えられたものに」

 私は高いところにある彼の物憂げな眼を見返した。

 「必死なんだ、藍一郎という名に」

 私には、その声に託された意味を受け取ることができない。あまりに膨大で、持ちきれないのだ。

 「綺の字は珍しく思う。なにか意味があるのかい」

 「わかりません。ただ、もしかしたら」

 「なんだい」

 「私は父に、家を守ってほしいといわれたことがあります」

 「ほう」

 「綺羅といっても、華やかで美しいというよりは、栄華という意味を込められたものかと」

 「綺、家の名は」

 強く痛むところがあった。父のことを、理解するように思い出された。私にはもう、名告る苗字はない。

 「この小さなところではいいだろう」といわれ、私は嚙んだ脣を放した。

 「岸尾、と申します」

 「美しいな」と藍一郎さまはいった。「日暮れなんかより、ずっといい」と。それがこの家の名であることに気がつくのに、時間がかかった。日暮。

 「そちらへ渡ったとき、なにが見えるだろう」

 「お綺」と声がして振り返れば、鳩司が玄関の外に立っていた。彼ははっとして「失礼致しました」と頭を下げる。

 「構わないよ」と穏やかな声がいって、見れば藍一郎さまは寺の方へ戻るようだった。その足を止め、思い出したように「ああ」と続けた。

 「鳩司」と振り返った藍一郎さまに、鳩司が畏まる。

 「綺を虐めてはいけないよ」と、どこかひんやりした声がいって、鳩司は改めて頭を下げた。

 藍一郎さまを見送ると、鳩司は静かに隣についてきた。

 「随分親しげだな」

 「どこ」と尋ねると「まじめだな」と笑われた。

 「部屋だ。いけばわかる。お綺ちゃんてばいつまで玄関やってるのかしら、と大騒ぎしながら飛ばされた」

 「それは憂鬱になる」

 「お客さまに嫉妬している声だ」という鳩司に「そういう噓の言伝を預かったのね」と返す。

 「人間じゃないんだ」と鳩司は苦笑する。「俺たちはそういう回りくどいことは嫌いだ」

 「だから安心していけ、と」

 「俺たちは魂のままなんだ、噓なぞつけるものか」

 そういわれてしまうと、「それもそうか」と納得してしまう。