皆と話し合った結果、私は掃除を担当することになった。空いた部屋、風呂場、廁、廊下、玄関。ありとあらゆる場所の掃除だ。

 派遣先で誰かと会うと、なんだかちょっぴり嬉しいような心地になった。玄関の掃除ではお客さまと短く話をすることもある。

 「お早いですね」と声をかけると、「長旅だからね」とその男性はいった。

 「どちらまで?」

 「ああ、ずーっと北へね、上っていくんだよ」

 「然様でございますか」

 「故郷が懐かしくなってね」と男性は穏やかに瞼を落とす。

 「君はここの人かい」

 「いえ。一つ跨いだ隣の町です」

 「そうかい。若いのに立派なものだね。時には故郷の空気を吸うといい」

 御家族に元気な顔を見せて差し上げなさい、という男性に「はい」と答えるのに、迷いはなかった。父は刀となってそばにいるが、母は故郷にいる。私がこちらにいるのは成長したためだ。

 「また寄るよ」という男性を、頭を下げて送った。彼についていた者が続いて玄関を出ていった。

 「綺」と声がして振り返ると、藍一郎さまがいた。

一階の端に、戸に隠された階段がある。廊下を渡ってこちらにきて、その階段を下りてきたのだろう。

 彼は今日も、着物も羽織りも藍色のものを着ている。

「おはようございます」と頭を下げると「おはよう」と穏やかな声が返ってきた。

 「よく似合っているね」

 私は自分の着ている服を見下ろした。「そうでしょうか」

 「ああ。もみじというのもまたいい」

 「藍一郎さまはもみじがお好きですか」

 「ああ、菊なんかよりずっといいね」

 ふと、藍さんが菊の花を持っていたのが思い出される。藍一郎さまが名をつけたというから、それなりに近しい関係なのだろう。

 「昨日、藍さんにお会いしました」

 「ほう。かわいい子だろう」

 「お美しい方でした」

 「彼女は俺に、よく菊の花をくれるんだ。ああ、庭に咲いているものだよ」

 私は藍一郎さまの言葉の続きを待った。

 「純粋な子だよ。俺が菊を渇望しているのを知って、毎日のように持ってきてくれるんだ」

 「藍一郎さまは、菊がお嫌いではないのですか」

 複雑な色を宿して、彼は「いいや」と瞼を落とした。「大嫌いだ」という声は微かな狂気を含んでいた。この敷地に咲く菊の全てを散らしてしまうような、黒い執念のようなものが薫った。

 「それはそうと」と藍一郎さまは穏やかな声でいって、その声によく似た眼差しをこちらへ向けた。「せっかくあっちへきてくれたのなら、顔を見せてくれたらよかったのに」

 「失礼致しました」

 「淋しくてこちらまできてしまったよ」

 藍一郎さまは体が触れ合うようなところまで寄ってくると、私の頬にそっと触れた。

 「綺」

 「……はい」

 藍一郎さまはふっと笑った。「お前は誠、愛らしい女子(おなご)だ」

 どこか名前のわからない場所が、棘が刺さったように痛む。私は藍一郎さまの手に自分の手を重ねた。

 「折角のお言葉ですが、藍一郎さまには藍さんがいらっしゃいます」

 「俺と藍が、恋仲に見えるか」

 「……特別な御関係と、お見受けしました」

 「俺と藍の間にあるのは情愛なぞではない」

 では、などと生意気な言葉を返すより先に、藍一郎さまは息を吸ったようだった。

 「藍色の紲だよ」

 藍一郎さまの静かな声を溶かした秋風は、菊の薫りがした。