ロウグ大臣が王城に戻ると言って退室すると、ラルフは大急ぎで団服を脱いだ。かと思えば、全く同じ意匠の別の団服に着替えた。

一見無意味な行動とも思えるが着替える前と後では大きく異なる点がある。それは、胸元に施された鷹の刺繍である。

レジランカ騎士団の団章には鷹が用いられており、団服の胸元には必ず両翼を広げた鷹があしらわれている。

ラルフが元々着ていた団服の鷹は金糸がふんだんに使われた豪奢な設えである。金色の団章は団長のみが身につけることが許されており、金色の鷹は国内外で有名である。ラルフの顔は知らずとも、金色の鷹の意味を知らぬ者はいない。

つまり、市中でこの金色の鷹を見られると身元があっさりバレてしまうのだ。

その点、新人の団服は忍び歩きにぴったりである。人数が多いため傍目にも個人を判別することが難しく、不届き者から無粋な因縁をつけられることもない。

……団長自ら身分詐称など職権濫用も甚だしいが。

(おっと、忘れていた……)

ラルフは仕上げとばかりに、最後に頭巾で金髪を隠した。明らかに変装に慣れている。慣れすぎている。

午後の訓練が始まっている時間のため、詰所の中にいる人間も少ない。
ラルフは無事に団長室を出て詰所から抜け出すと、愛馬のロンデを迎えに厩舎へと足を向けた。

……その時だった。

「兄上?」

聞き慣れた声と呼び方に思わずラルフは振り返り声の主人(あるじ)の姿を探した。

「……エミリア?」

そこにはラルフと同じ金髪を結い上げた小柄の女性が立っていた。離宮にいるはずのラルフの妹、エミリアである。

「どうして詰所にいる?」

「王都にいるお友達に産着の縫い方を教えにきたついでに兄上にご挨拶でもと思いまして」

エミリアはそよ風のように爽やかな笑顔で告げると、ドレスの裾を広げラルフに会釈をした。相手がラルフではなくそれこそ新人の団員であったら、可憐さのあまり感嘆のため息を漏らすだろう。

母のアリスに似たエメラルド色の大きな瞳、薔薇のように色づいた小さな唇、少し幼いながらも柔和な顔立ちは誰もが美しいと称賛する。

しかし、それはエミリアの特長のほんの一部でしかない。

ラルフはエミリアは裁縫が得意で針と糸を持たせたら王国一であることを知っている。その上努力家で苦労を厭わない。一度決めたことは何としても譲らない頑固な一面だってある。ラルフにとってエミリアはどこをとっても可愛い妹なのである。

「もしかしてひとりで来たのか?」

「ご安心ください。詰所の前までは馬車で送ってもらいました」

エミリアには過保護の兄の言わんとすることが手に取るようにわかっていた。常日頃からひとりで出歩くなとしつこいくらい言い聞かされているからだ。

「いまからお出かけですか?」

「ああ」

「困ったわ。折角兄上に差し入れを持って参りましたのに」

エミリアはあからさまにがっかりした表情を浮かべた。抱えている籠からは焼き菓子の甘い匂いがした。エミリアは裁縫の腕もさることながら、菓子作りも達人の域に達しているのである。

「すまない。急用でな」

「兄上は先月もそうおっしゃって離宮に戻って来られなかったでしょう?母上が寂しがっておられますよ。私だって兄上とお話しできると思って楽しみにしてましたのに」

「わかった。次の休みには一度顔を出す」

「今度こそ約束を守ってくださいね。兄上がいないと草取りがちっとも捗りませんもの」

庶民のように手ずから菓子を焼き、産着を縫う姫は珍しいが、ラルフもまた王子らしからず庭師や大工の真似事を好んで行っていた。

「焼き菓子は皆で頂こう。グレイに渡しておいてくれ。ついでにちょいと出掛けてくると伝言も頼む」

副団長のグレイであれば伝言の意図を察してエミリアをそのまま市中に放り出す事はせず、友人の屋敷まで送り届けてくれるだろうと見込んでのことである。

詰所の中にはラルフの妹であるエミリアをどうこうしようとする馬鹿はいないが、市中ではそうもいかない。

屈強な騎士を従えていても、エミリアにいかがわしい視線を送ってくる男が絶えたことはない。

「兄上ったらまたお忍びで出掛けるなんて副団長様に叱られませんか?」

胸元の鷹を見てラルフがこっそり出かけようとしていることに気がついたのかエミリアは心配そうに尋ねた。

「グレイは口は悪いが上司を立てられる奴でな。部下達の前では決して私を叱らないのが美点なのだよ」

ラルフは茶目っ気たっぷりに目配せした。

つまり、叱られはするが最低限の面子は保ってくれるということだ。冷静に考えれば王子を叱るなどあり得ないことである。

「まあ兄上ったら!!悪いおひとですこと……」

エミリアは思わずクスクスと笑い出してしまった。

エミリアにとって10歳年上のラルフはいつも朗らかで愛嬌があり、頼り甲斐のある兄である。そんなラルフをエミリアは心から尊敬していた。

「どうぞお気をつけくださいませ」

「ああ」

ラルフは右手を上げ、見送る妹に手を振ったのであった。