棺の持ち主には湿気を払ったと告げ、俺と鷹一郎はその日のうちに那珂湊(なかみなと)まで船で戻った。今日はここで宿を取り、そこからまた汽船で神津港まで戻るのだ。
 行きは頭の中は支離滅裂で何をみるもなにもなかったが、改めてみると(やぐら)が立ち並ぶでかい町である。交通の要港として栄えている。ここには御一新前に大砲を作る反射炉があり、天狗党の乱の際に戦火に見舞われたと聞くが、港のあたりは賑やかさを取り戻しているように見える。

 現金な俺の胃袋は命の危険がなくなったとわかるとぐうと音を鳴らした。そこで鷹一郎が目をつけた港に程近い小料理屋で鍋をつついてむせていた。あんこう鍋は東京で食べた醤油味と違い、このあたりでは炒り肝を味噌に溶いたなめらかな味。ふうわり漂う上品な味噌の香りが胃を刺激する。

「だからって急にかきこむからですよ」
「そんなこと言ったって、ここんとこ飯が全然喉を通んなかったんだからよ」
「本当にどうしようもない人ですねぇ」

 飲み干して空になった湯呑みにほうじ茶が注がれる。酒はまだダメらしい。金主(スポンサー)がダメというのなら仕方がない。久しぶりに腐臭と異なる香りが胃を慰めた。
 騒がしい座席とその間を行き交う女中。ここは生きものの活気に溢れていた。

「染みるねぇ」
「相変わらずですねぇ。若いのに」
「うるせぇ。それに聞いてねぇぞ」
「生きてるんだから良いじゃぁないですか」
「だってあそこで言い争いをしていつの間にか死んでた、よりは一気に死にかけたほうが説得力があるでしょうよ」

 そんな問題じゃねぇ、死ぬかと思ったんだからな、と続けようとすると、とてとてと人形がやってきて袖を引っ張った。

「んぁ。お前さんのことじゃねえよ。大丈夫だよ。そこの糞陰陽師が悪ぃんだ」

 人形の頭を撫でると、そう? と首を傾げてまた鷹一郎の袖に戻る。
 鷹一郎は麗卿を閉じ込める棺を払い、この小さな人形に麗卿を封印した。今は新しい入れ物に慣らしている最中で、そのうち正式な人形か何か、適するものに移すらしい。アディソン嬢から借りた元代の耳飾りを芯にして術をこめながら藁で編まれた人形だ。
 そういえば行きの船の中で鷹一郎か鼻歌を歌いながらちまちま編んでいた。

「そもそも俺が棺に入る必要があったのかよ?」
「何をいうんです。麗卿は話を聞いてくれなかったったじゃないですか。スムーズに話を進めるためには耳をこちらに傾けさせる必要があったのですよ」
「そもそも話をするなと言っただろ」
「哲佐君は駄目ですよ。気づかれて縁ができると防ぐのが大変になりますから。哲佐君が眠っている時に私が何度か会話を試みましたが哲佐君を探すばかりでちっとも話を聞いてくれませんでした」

 人形は俺と鷹一郎の間を交互にキョロキョロしている。あん肝の空炒りしたのと身を煮詰めた煮合いをつまむとほろ苦く、ついつい酒が欲しくなる。
 麗卿は喬生を探していただけだったから他の者が話しかけても聞く耳は持たないかも知れねぇ。

「哲佐君に麗卿の望みを叶えて頂いたからこそ耳を傾けてもらえたのです」

 望みねぇ。骸骨だと思うとゾッとしないが本当は吸い寄せられるような美女ってことなら1回や2回はどうってことない気はするんだがなぁ。
 鷹一郎は腑に落ちない俺の気持ちを察してせせら笑う。

「ふふ、さすが唯一無二の供犠です。哲佐君は哲佐君が思っているよりずっと深みに嵌った気持ちの悪い変態的な行為を成し遂げたのです。大金をお支払いしても悔いがない」
「随分な言い草だ。お前がやらせたくせに」
「まぁ、そうなんですけどね。ところで如何でした、黄泉の国は」

 黄泉。確かにそう思えるほどあそこは暗く深い異界だった。魂の尾が現世から引きちぎられたような隔絶感。あの蓋は伊弉諾(いざなぎ)が黄泉平坂を塞いだという千引(ちびき)の岩のようにこの現世と切り離す蓋のようにも思われる。せめてあれがなければあれほど心細くなかったものを。
 思い出すと寒気が襲う。急いで温まった鍋に泳ぐ魚をつつく。

「なんで蓋閉めた。俺は入るだけと聞いたぞ」
「何を言ってるんですか。閉めてませんよ。第一あんな重い蓋、私1人で持ち上げられるわけないでしょう」

 そういえばどどんとせり出した太い木棺の蓋が棺の横に立てかけられていた。確かに、1人では、動かすことすらできぬような。だがそんな馬鹿な。だって世界は確かに暗くなった。だが、急に? パタリと灯りを消すように? 蓋は閉まっていなかった?

「何故蓋を閉じたんです?」
「あん?」
「麗卿の本体こそあの棺です。そこに哲佐君が入った。そしてそこが終点です。つまりあの柩の中こそ麗卿の黄泉の国。つまり哲佐君は麗卿より上にいるわけでしょう? 閉めたとしたら哲佐君じゃありませんか」

 俺が蓋を閉めたのか?
 確かに俺が自ら箱に入った。まさか、そんな。
 温かいはずの鍋のまわりにひゅうと昏い風が服。

「哲佐君が蓋を閉めてしまったものだからお陰で開けるのに時間がかかりました。いかがでしたか? 伊弉諾も逃げ帰った黄泉の享楽は」

『狂骨紅籠』了


補足
明治3年の国名・旧官名使用禁止令によって伊左衛門という名前は公的には使えなくなり伊左衛門も改名したはずですが、神津藩神白県はその辺が緩いので伊左衛門は個人事業主として芦屋伊左衛門名で商売を続けています。