迷える猫にお粥(エサ)を与えてから、男は、軋む階段を降りていく。

ガラス戸の前に立ち、空を眺める。今日も嫌味な位、太陽が、男が目を開けられない程に頬の傷を照らしつける。

ガラス戸を、少し開けると、男は、胸ポケットから煙草を、取り出して蒸した。

ズボンのポケットから、珍しくスマホが着信を告げる。相手は分かっている。煙草を灰皿に置くと、男は、通話ボタンをタップした。


「はい」

『何で僕が連絡してきたか、分かるよね?』

相変わらず、せっかちな話の進め方に、男はため息が、出そうになる。

「いや、ちっとも検討がつかないな」

小さく舌打ちが聞こえてくる。

『捨て猫は、拾うなって言ってたよな?』 

(捨て猫ね……)

「俺は、消去には手は出さない。でも復讐は別だよ……それは救いだから」

『違うな、それは、お前自身と重ねてるだけ。復讐には救いなんてないよ。あるのは、自己満足と、虚像の正義だけ。死んだものは、生き返らない』

「説教はごめんだよ」

男は、灰皿の煙草を指先に挟むと、大きく吸い込んだ。

『おい、煙草もやめろよ』

「へぇ……禁煙できたんだ?」

『おかげさまでな。てゆうか、早く猫は捨てろ!分かったな?』

「俺がお前との約束守ったことある?」

『……ないよな。でも今回だけは守れよ、分かってんだろ?』

「話はそれだけなら、切るよ」

『待てよっ!花灯(はなび)!」

花灯と呼ばれた男は、黙って通話を切った。


ーーーー花灯か。


もう自分の名を呼ぶのも、アイツくらいかもしれない。

『花灯ー、ご飯できたよ』

少し鼻にかかった甘い声が、滲みだらけの天井から降ってくる。

『もう、煙草はやめてよ』

小さな掌が、強引に煙草を取り上げては、大きな黒い瞳を細めた。胸まで伸ばされた黒髪が
サラリと揺れて、こちらを見ては、にこりと笑う。

どこにでもある日常、どこにでもある幸せだった。そんなものは、あっという間に消えてなくなる。火花を散らし終わった、花火のように。


ーーーーそして、残るのは、どこにでもある欲望と狂気。

湧き上がる欲望と、胸にたぎる狂気を押さえつけて、息を潜め、どのくらいの時がたっただろうか。

「俺は……何一つ変わらない。……変われないんだ」

届くはずがないと分かっていながら花灯は、静かに呟く。天井の滲みが一つまた一つ増えていくように、狂気は留まることをしらない。花灯は、拳を握りしめた。
 
そして、ゆっくり手を伸ばすと、久しぶりに聞いた自分の名を、もう一度頭に巡らせてから、花灯は、2本目の煙草を咥えた。