うふふ、と変な笑い声が聞こえてきた。誰の声なのかわからないほど。
「あぁ、残念。うまくいったと思ったのになぁ」
 その言葉の主はもちろん真帆。
「あいつらを使って、美桜を孤立させて。妖界(ようかい)に連れて行こうと思ったのに。残念無念」
 妖界という言葉が出たところで美桜はぎょっとする。
「なんで、妖界に?」
「え? 美桜。あなた、気付いていないの?」
 そこで、真帆はクンクンと鼻を鳴らすようにして、美桜の匂いを嗅ぐような仕草をする。
「美桜。あなたからもあやかしの匂いがするよ」
 ドキリ、と心臓が跳ねた。あやかしの匂い、とは何か。
「私。麒麟様から頼まれたの。人間界にいるあやかしを妖界に連れ戻せ、と。あやかしでありながら人間の振りをして人間界で暮らすあやかしたちを。あやかしは人間とは異なり、人間より上位の種。だから妖界に連れ戻してこい、と。ねえ、美桜。私と一緒に妖界に戻りましょう?」
 真帆が美桜の手首を掴んだ。そこが燃えるように熱く感じる。
「離して」
「離さない。あなたを麒麟様の元へと連れていく」
「私は妖界には行かない」
 ここには祖母がいる。祖母をおいてはいけないし、そもそも自分は人間。
「あいつらを返して」
 どうして? とでも言わんばかりに、真帆は首を傾げた。
「美桜をいじめていた奴らでしょう? いなくなってせいせいしたんじゃないの?」
 だが、真帆は先ほど口にした。あいつらを使って、美桜を孤立させた、と。ということは、彼らが美桜にしたことは彼らの本心ではない、ということに繋がるのではないだろうか。
「真帆さん……」
「ねえ、美桜。一緒に妖界に行こう?」
 先ほどから真帆がギリリと美桜の手首を掴んでいる。ちぎれてしまうのではないか、というほど力強く。
「妖界には行きません。私は人間です。ここで、暮らしていきます」
 美桜にしては珍しく、自分の意志で拒絶する。
 ――私はここにいたい。
 ビリっと、美桜の手首が光ったように見えた。その瞬間、真帆の手が離れる。すかさず席を立ち、彼女から距離をとる美桜。
「痛い、痛いよ。美桜。どうしてこんなことするの?」
 美桜は何もしていない。だが、真帆の手の平はざっくりと切れ、そこから真っ赤な血がだらだらと流れ出ている。それを必死で抑えている真帆。人間とはあれほどまで血を流すことができるのだろうか、とそう思えてしまうくらいに。
「もう、美桜。手加減しないから」
 血を流しながらも妖艶に笑う真帆は、同じ人間には思えなかった。そう思っていると、彼女から流れ出ている血が固まり、一つの形を作る。それは、まるでファンタジーゲームに出てくるような剣のような形をしていた。
「命さえあれば、どんな状態でもいいと、麒麟様はおっしゃっていたわ」
 真帆の手から生えているように見える血の剣。その切先は美桜に向いている。美桜は一番近くにあった机を思いっきり真帆に向かって投げつける。机の中からは、教科書やノートが転げ落ちてくる。
 真帆が怯んだ瞬間に、美桜は左手首に巻いた組紐を右手で覆った。そこから出てくるのは、龍巳から手渡された妖具の一つであるしなる鞭。
 ピシッと空を切る音が響く。
「美桜。そんな、危険なものは仕舞いなさい」
「だったら、真帆もそれを仕舞って」
 美桜は初めて真帆のことを呼び捨てにした。対峙する二人の距離は広がりもせず縮まりもしない。倒れた机を挟んで、じっと睨み合っている。
 美桜が手にしている鞭は妖具。あやかしであれば捕らえることができる鞭。そして、真帆は間違いなくこの鞭が見えている。となれば、彼女はあやかし。
 もう一度、ピシッと鞭をしならせ、床を叩いた。
 ――あやかしに向かって打ちつけるほかに、彼らを拘束させることができます。
 龍巳の言葉が思い出される。真帆を拘束するように念じて、鞭を彼女に向かってしならせる。
 すると不思議なことに、その鞭が伸びたように見えた。そして、くるくると真帆に巻き付いたのだ。
「ちょ、ちょっと。何をするのよ、美桜」
 まるで簀巻きのように鞭によって巻き付けられている真帆。
「真帆さん。あいつらはどこにいるんですか?」
 突然、この学校から消えた四人。このクラスの上位に属する四人は、美桜のことを間違いなくいじめていた。それは、三年に進級したあのときから。美桜はそうされることも仕方ないと思って、あきらめてそれを受け入れていた。学校にいる間だけ我慢すればいい、と。
 だが、それすら仕組まれていたものだったとしたら。心に浮かんでくる言葉は、悔しい。ただ、それだけ。
 一体、自分が何をしたというのか。あやかしの匂いがすると言われても、自分は人間界で生まれ、人間界で育ち、人間界で生きてきた。貧しくても、ひもじくても、いじめられても、この世界で生きていくものだと思っている。それに、母親を失ってから自分の面倒を一手に引き受けてくれた祖母。祖母がいてくれたからこそ、今の美桜がある。今は病に冒されている身体だけれど、きちんと治療をすれば、日常生活を送ることはできるようになると、医師は言っていた。
 ぐっと鞭のグリップを握りしめる。美桜の身体の方に引き寄せれば、真帆への締め付けはきつくなるようだ。
「離しなさい。美桜。あなたは、麒麟様の元へ行くのよ。こんな人間界ではなく、妖界で生きていくべきあやかし」
「あやかしは人間に対して能力(ちから)を使ってはならない。それを、破ったのは誰?」
「そんな、千年以上も前の約束を、律儀に守るほど私たちあやかしもお人好しじゃないの。あ、人間じゃないけどね」
 苦しそうに顔を歪めながらも、軽口を叩く余裕はあるらしい。
 ――あやかしを妖界に送り返すには切りつける必要がありますので、そのときはこちらの小刀をお使いください。
 真帆を妖界に送り返したい。強制的に妖界へ送り返されたあやかしは、向こうのルールで裁きを受ける。それが終わるまでは、人間界に来ることはできない、と龍巳が言っていた。
 だけど、切りつけるという行為が、美桜が躊躇っている要因の一つでもある。このように拘束することはできる。だけど、いくらあやかしといえども切りつける、怪我をさせる、というその行為に対して手が動かない。
「ねえ、美桜。これって妖具だよね? ただ縛り付けているだけじゃ、私を妖界に送り返すことはできないよ?」
 苦しそうにしながらも、どこか余裕があったのは、()()を知っていたからか。
 だが、美桜には真帆を切りつけることができない。彼女があやかしだとしても、見た目は人間でクラスメートだから。
「やっぱり、美桜って優しいね。それに、こうやって私を拘束しているのも、そろそろ辛いんじゃないかな?」
 真帆も苦しそうな表情をしているけれど、苦しいのは美桜も同じだった。相手を縛り上げるために、先ほどから腕に力を入れている。だから、先ほどから腕が痛い。どうしたらいいかがわからない。恐らく、真帆をあの小刀の妖具で切りつけなければならないのだろう。だけど、それが美桜にはできない。となれば今、真帆を拘束しているけれど、体力の無い方が負けるということになるのだろう。
 ――龍巳さん。どうしたらいいんですか? 私にはあやかしを切ることができません。
 バン、と勢いよく窓が割れた。廊下側の窓ではなく、ベランダ側の窓が。
「美桜さん」
「え? 龍巳さん?」
「やはり、昨日のお友達はあやかしだったのですね」
「え? ええ??」
 窓ガラスを割って現れた龍巳に驚いた。しかもこの教室、三階にある。どうやって、窓まであがってきたのだろう。
「美桜さん。そのまま、あやかしを拘束し続けてください」
「あ、はい」
 龍巳のことを考える余裕はなく。美桜は両手で鞭のグリップを握り直した。隙を見て小刀を取り出さなければならないと思っていた先ほどと違い、しっかりと握りしめて真帆を縛り上げることができる。