青龍(せいりゅう)神社の社務所。外から見ると、こぢんまりとしている建物に見える。だが、中に入れば広い。目の錯覚と呼ばれるものなのか、と思いながら、社務所の裏口に回る。
 奥の住居の方に入るには、裏口という名の玄関から入るようにと言われている。表の入り口は社務所内だけ。裏から入れば奥の住居に行けるようになっている作りらしい。
「ただいま帰りました」
「お帰りなさいませ、美桜(みお)さま」
 にこにこと笑顔を振りまいて千衣子(ちいこ)が出迎えてくれた。
「あの、洗濯をしたいのですが。洗濯機をお借りしてもよいでしょうか」
 祖母の下着も洗濯したいし、自分の着替えも洗濯したい。
「まあまあ、そのようなことは私どものほうでやりますから」
 と言われるのはわかっていた。
「あの、ですが。その、祖母の着替えもあるので」
「でしたら、まとめて洗濯しますよ」
 ここまで言われてしまったら、美桜は反論ができない。元々、学校では口数少なく。ここで普通に喋ることができる方が不思議なくらいなのだ。
「お願いします」
 美桜が頭を下げると、千衣子はやはり笑顔だった。ここに来てから、たくさんの人に笑顔を向けられる。蔑まれたような同情されたような視線ばかり向けられていた美桜にとっては、なかなか慣れない視線でもある。
「着替えを、お手伝いしますね」
 制服を脱ぐと、また着物を着付けられる。やはり、神社というところに住んでいるから着物なのだろうか。
「慣れれば一人で着付けられるようになりますから。夏になれば、浴衣もよろしいかと思います」
 千衣子はそう声をかけて、洗濯物を手にして、部屋を出て行った。
 着物を着てしまったら、疲れたといってゴロンとその辺に寝転がることもできない。仕方なく、座布団の上にしずしずと正座をして、鞄から教科書を取り出した。学生の本文は勉強だから、宿題とテスト勉強でもしておこう。
 だが、美桜は就職希望だった。もちろん、理由は金銭面。進学するだけのお金はない。家賃だって払えないような状況で、ご飯だって食べたり食べなかったりしていた日々だったのだから。就職希望だからテスト勉強は不要というわけではない。むしろ内申点が響くから、定期テストではそれなりに成果を出しておく必要がある。
 部屋の襖を叩かれた。
「はい」
「私です。今、入っても大丈夫でしょうか」
「はい」
 美桜が返事をすると、襖はゆっくりと開かれる。もちろん、そこにいたのは龍巳(たつみ)
「勉強中でしたか? 後で出直した方がよろしいでしょうか?」
「いえ、大丈夫です」
 美桜はテーブルの上に並べていたノートと教科書を両手でかき集めると、畳の上においた。これでテーブルの上だけは綺麗に片付いたはず。
「では、お言葉に甘えて」
 今日の龍巳の着物は、濃い茶色。美桜はまだ、龍巳が同じ柄の着物を着ていたことを目にしたことがない。
「学校は、いかがでしたか?」
「それが、ですね」
 聞かれてしまった事で、美桜は(たが)が外れたかのように勢いよく喋り出した。あの加奈子が欠席したこと、加奈子だけでなく取り巻きも欠席。なぜか隣の席の真帆が声をかけてきたこと。だけどそれは、加奈子たちがいないからだろう、ということまで。
「なるほど」
 美桜の話を黙って聞いていた龍巳だが、その内容は使役魔が伝えてきた内容とほぼ同等。ただ使役魔は客観的に報告するのに対して、美桜の話には彼女の感情が含まれている。違いがあるとしたらそこくらいだろう。
「おばあさまの様子は? 今日は、病院にいかれたのですよね」
「はい。相変わらずです。私のことは辛うじてわかっているようなのですが。いつ行ってもぼんやりとしていて。どこにいるかもわかっているのかいないのか。あ、それでも」
 美桜の顔がぱぁっと明るく輝いた。
「おばあちゃん。これに気付いてくれたんです。私を守ってくれるものだから、大事にしなさいって。ちょっと、嬉しかったです」
 気になる人から貰った物を、他人から褒められたらそれは素直に嬉しい。
「おばあさまが、そうおっしゃっていたのですか? 他には?」
「あ、そうですね。これがきらきら光ってるって言ってました。たまたま光に反射したんですかね?」
 という最後の一文は、美桜なりに考えた誤魔化しだ。口にしてから気付いた。この組紐がきらきら光るような造りになっていないことに。祖母がとうとうボケてしまった、と思われるのが嫌だったから。
 だが、龍巳は特に気にしていない様子。
「美桜さんの様子が聞けて安心しました。夕食の準備が整いましたら、また呼びにきます。それまでは、そうですね。どうぞ、勉強をしていてください。学生の本分は勉強ですからね」
 そこで龍巳は立ち上がった。美桜も龍巳を見送るために立ち上がろうとしたのだが、長く正座をしすぎてしまったせいか、足が痺れていた。痺れた足で立ち上がれば、身体はバランスを崩してしまい、倒れそうになってしまう。
「あ」
「危ないですよ」
 転ばずに済んだのは、すんでのところで龍巳が身体を引き寄せてくれたからだ。見た目よりも力強い龍巳に抱き締められて、美桜は少しドキリとしてしまう。
「気を付けてくださいね」
 美桜の頭の上から龍巳の声が降ってきた。思わず見上げれば、丹精なその顔が近い。美桜は頬が熱を帯びるような感じがした。すっと頭を下げて、視線を逸らす。
 だけど、まだ足が痺れて、彼の腕から逃げ出すことはできない。
「すみません、足が、痺れてしまって……」
 事実だけど言い訳のようにも聞こえたかもしれない。
「落ち着くまでこのままでいいですよ」
 また、頭上から龍巳の柔らかい声が降ってきた。この声に包まれると、なぜか落ち着く。落ち着くはずなのに、心臓だけはそれと正反対で忙しなく動いていた。じんとしていた足の痺れも、心臓が動くたびに和らいでいく。
「もう、大丈夫です」
 美桜は恥ずかしくなって、優しく龍巳を突き放した。
「では、また」
 龍巳は穏やかな笑みを浮かべて、部屋を出て行った。

 さて、美桜の部屋を去った龍巳だが、自室へ戻るや否や使役魔(しえきま)を呼びつけた。
「お呼びですか、青龍様」
「美桜のおばあさまの話です。何も、報告があがってきていませんが」
「すみません。中への侵入は成功したのですが、どうやらあそこの周辺には結界が張られておりました」
「結界、ですか?」
 龍巳はその丹精な顔を歪めた。
「はい。我々使役魔や力の弱いあやかしは近づくことができません。結界によって、美桜様との空間が遮断されてしまいました。ですが、美桜様がお帰りになられる際には結界も解けましたので、恐らく、美桜様の近くにいた誰かによる仕業だとは思うのですが」
 青龍は美桜に組紐を手渡したが、あの組紐にはそこまでの力はない。
「できれば、美桜のおばあさまからも話を伺いたいところですね」
 龍巳は顎を右手でさすりながら考える。だが、美桜の話では祖母は歩くことができない程弱っているらしい。記憶も曖昧になる、とか。手術のために、他の病気を治すための投薬治療を行い、そこが完治してから手術になる、と。
「美桜のおばあさまは、本当に病気なのでしょうかね」
 龍巳の目が鋭く使役魔を捕らえた。すっと、一歩退く使役魔であるが、どういう意味でしょうか、と龍巳を見上げる。それは、次の命令を待っているかのようにも見えた。
「とりあえずあなたは、美桜の身辺を見張っていてください。他の者に、美桜のおばあさまについて探りを入れてもらいます」