美桜がはっと目を開けると、見慣れぬ天井が視界に入った。天井を見ただけでも、和室で布団を敷いて寝ていた、ということだけはわかった。天井は天井でも和室特有の目透天井。しかも、どこか香るい草の匂い。
ここはどこだろう――。
布団の上に仰向けになっている美桜は、首だけを左右に振ってみた。というのも、金縛りにあったかのように身体が動かないから。首を右側に向けた時に、床の間の前の座卓で書き物をしていたであろう男と目が合った。恐らく彼は、美桜の頭と布団がこすれる音を聞きつけたのだろう。
「目が覚めましたか?」
この男は、この和室に相応しいような着物姿。美桜は生まれてこの方、このように着物が似合う男性にお目にかかったことがない。
「あの、ここは……」
「青龍神社の社務所です。私の住居も兼ねておりますので」
青龍神社――それは美桜が住んでいる青砥町にある一番大きな神社。
「あ、人が住んでいたんですね」
大きな神社のわりには、いつも誰もいないなと思っていただけに、人が住んでいたことに驚いた。男は美桜の枕元で正座をする。
美桜は目だけを動かして男を見上げた。少し色素の薄い髪は茶色のような金髪のようにも見える。真っ黒い日本人形らしい美桜の髪とは大違いだった。丁寧な物腰で、年齢も二十代後半から三十代前半くらいなのだろう。とにかく、和服姿が良く似合う。これに尽きる。
「ところで。あなたは、どうしてあのような場所で倒れていたのですか?」
「あ」
倒れていた、ということで美桜はなぜ自分が青龍神社にやって来たのかということを思い出した。
「お百度参りを、と思いまして……」
彼女はお百度参りのために夜の帳が降りきった深夜、この青龍神社へとやって来たのだ。恐らく、美桜の年齢では夜中に出歩くのは褒められたものではない。
「お百度参り。またなかなかなことをされておりましたね。誰か、呪いたい方でもいらっしゃったのですか?」
「え、やっぱり。お百度参りって呪いなんですか?」
「冗談です」
この男の冗談は冗談に聞こえない、と思いながら美桜はちょっとだけ唇を尖らせた。いたいけな女子高生を騙すとは何事か、と。
「あなたが誰かを呪うような人間であるかどうか、ということを確認させていただきました。そのような方でしたら、助けるべきではなかったと、そう思っておりましたから」
そこで男が美桜を安心させるかのようにニッコリと微笑んだ。その笑顔に、美桜はドキリとする。さらに、和服姿というのも彼の魅力を引き出しているのだろう。
「ところで、よろしければ。なぜお百度参りをしようと思ったのか、理由を聞かせてもらってもいいですか?」
「あ、はい」
そこで美桜は身体を起こそうとした。先ほどまでの金縛りはとけたようだが、身体が重い。
「身体が辛そうですが。あちらの座椅子に移動されますか?」
男に言われた通り、とにかく身体が重くて腰を曲げて座っていることすら辛かった。美桜は這うようにして布団から出ると、男が差し出してくれた座椅子へと座った。寄り掛かる場所があるだけで、身体はずいぶんと楽になった。
「今、お茶をお出ししますね」
どこからともなく男はポットと急須を持ってきて、美桜の前でお茶を淹れ始めた。
「どうぞ」
緑茶の香りがい草の匂いと混ざって、とても落ち着く。
「いただきます」
お茶はちょっと温めに感じる温度。一口飲めば、甘味のある味が身体中へと染み渡る。その瞬間、先ほどまで重かった身体が一気に軽くなったような気がしたのが不思議だった。
美桜は湯呑を座卓の上においた。
「私、名前も名乗らずに失礼しました。私、金木美桜です。青砥高校の三年」
「高校生があのような時間帯にお百度参りをするとは、望ましくありませんが」
美桜は苦笑した。
「よろしければ、お百度参りをした理由を聞かせてもらってもよろしいですか? あ。私は怪しい者ではありませんよ」
慌てている様子の男が、可愛らしく見えてしまい、美桜もついつい笑みを零す。そもそも青龍神社の社務所に住居を構えている時点で、この神社の関係者ということだけは美桜にだってわかる。
「この神社の責任者を務めています湖東龍巳と申します」
「責任者?」
宮司とは違うのだろうか。
「はい、責任者です」
神社のことについてよくわからない美桜は、龍巳の言葉をなんとなく受け入れた。
「それで、美桜さんはなぜお百度参りをされたのですか? これはこの神社の責任者として尋ねております」
責任者として、と言われてしまえば、美桜は答えなければならないだろう。
「あの……。笑わないで聞いてくれますか?」
「あなたが真剣にお百度参りをなさったのであれば」
美桜は湯呑に手を伸ばして、もう一口お茶を飲んだ。お百度参りの理由を口にしたら、絶対に笑われるという気持ちがあったから。それでもこうやって今、休める場所を提供してもらって、さらに神社の責任者という龍巳には伝えなければならないのだろう。
湯呑を座卓においてから。
「あの、ですね……。宝くじが、当たるように、と……」
「宝くじ、ですか?」
美桜は頷いた。
「えと、ちょっと話が長くなりますが、よろしいですか? まあ、お金が欲しいというのはみんな同じ気持ちだと思うんですけど。私にはそれなりの理由があるんです」
金持ちになりたいから、働きたくないから。そんな理由で宝くじを当てたいと思っているわけではないことを、言い訳だと思われてもいいからきちんと伝えたいと、美桜は思っていた。この神社の責任者には誤解を与えたくない。
「ええ。時間はいくらでもありますから。お付き合いいたしますよ」
このスマートな物腰の言い方に、美桜はついつい身の上話を始めてしまった。
お百度参りをしたのは、宝くじを当てたいから。宝くじを当てたいのは、祖母の手術費用を払いたいから。祖母が亡くなってしまえば、家族がいなくなってしまうこと。
なるほど、と頷きながら龍巳は美桜の話を聞いてくれた。話を聞いてもらえるだけでも、落ち着くものなんだな、と美桜は思いながら。
「美桜さんの事情はわかりました。ですが、お百度参りしたからといって、宝くじは必ず当たるものではありませんよ」
龍巳は何も知らない子供を宥めるような言い方をする。美桜は少し馬鹿にされたような気分になった。
「わかってます。それでも、神様に祈りたかったんです。少しでも、不安を和らげたかった。それだけです」
「なるほど……。ところで美桜さん、この部屋。少し変わっていると思いませんか?」
「何がですか?」
龍巳の突然の問いに美桜は首を傾げた。いたって一般的な和室、だと思っている。だが、床の間には立派な日本刀が飾られていて、あれは模造刃なのか本物なのかが気になっていたくらいだ。
「変わっているとは思わないのですが。気になっているとしたら、あの日本刀。あれって本物ですか?」
美桜が尋ねると、龍巳はニヤリと笑った。このような和服イケメンにニヤリと笑われてしまったら、美桜の心の中は「キャー」と叫びたい気分である。
「美桜さん。やはりあなたは私が見込んだ通り。お金が必要というのであれば、ここでアルバイトをしませんか?」
龍巳にいきなりそのようなことを言われてしまっては、美桜は目を白黒させるしかない。
「アルバイト、ですか?」
「そうです」
腕を組んだ龍巳は大きく頷く。和服で腕を組むというのも、破壊力が半端ない。この男は女性の扱い方に慣れているのだろうか。
「美桜さん。あやかしについてはご存知ですね」
「はい。それは、小学校で習いますから。この世は人間界とあやかしの住む妖界によって成り立っている。人間界と妖界は今から千年ほど前の平安時代に、互いの世界を侵略しないという不可侵条約を人間界の陰陽師と妖界の麒麟が結んだ。千年以上経った現代も、その条約は有効である」
「教科書のような回答をありがとうございます」
教科書のような、ではなく、社会の教科書にそのように書かれているのだ。
「ですが、美桜さんがいまおっしゃったように、人間界と妖界の不可侵条約は千年以上も前に結ばれたもの。千年経った今、その条約が面白くないと思う輩が現れてもおかしくはないのです。むしろ、今まで律儀に守られていた方が不思議なくらいです」
龍巳の話の流れから、不穏な空気を感じる美桜。美桜だってそこまで鈍感ではない。むしろ、成績は良い。だから教科書に出てくるような人間界と妖界の話であれば、新聞やテレビのニュースで目にしている内容であれば、なんとなくわかる。それにこの現代、陰陽師と呼ばれる者は人間界では廃れている。
「もしかして、近頃、あやかしが犯人ではないかと思われる犯罪が増えてきているのは」
「ご名答。あやかしが、人間界に対して侵略を試みているからです。といっても、一部のあやかしですよ。全部が全部そうだ、と思われては、他のあやかしが可哀そうです」
「え、てことは。もしかして湖東さんは、あの陰陽師の血を引く人なんですか?」
「龍巳、でいいですよ」
一瞬、何を言われているのか美桜にはわからなかった。だが、その龍巳が彼の名前であったことに気付き、姓ではなく名で呼べということを言っているということを理解するまでに、一分という時間を要した。
「あ、はい」
としか美桜は言えない。
「では、先ほどの美桜さんの質問に答えます。私が、陰陽師の血を引く者かどうか。答えは、否です。私は陰陽師ではありません。ですが、あやかしが人間界を侵略する行為を否定する立場にある者です」
つまり、人間界に住む美桜にとって、この龍巳という男は味方であると判断して良いのだろうか。龍巳は、その美桜の考えを読み取ったのだろう。
「私は人間の味方ですよ。正確には、今の人間界と妖界の関係を継続させていきたい者の一人です。ですから、一部のあやかしのやり方が気に入らない。そのようなあやかしをとっ捕まえて妖界へと送り返す、というのが私のもう一つの仕事です」
もう一つ、ということは他にも仕事があるのだろうか。
「それで。美桜さんに頼みたいアルバイトというのが、そのあやかし退治ですね」
なんか、さらっと凄いことを言ったぞ、この人。と思いながらも、なぜかそのアルバイトに惹かれてしまう。
「バイト代は、そうですね。あやかし一体を送り返すたびに、これくらい……」
「やります」
美桜は青砥高校に向かってとぼとぼと歩いていた。あの日、二日前に青龍神社で龍巳から話のあったアルバイトを報酬に目がくらんで引き受けてしまった美桜であるが「学校にはきちんといきましょう」という彼の言葉によって、月曜日である今日は高校へと向かっていた。美桜の学校へと向かう足取りは重い。
それもそのはず。まず、青龍神社からアパートに帰ってきた美桜を待ち受けていたのは、督促状だった。家賃滞納。祖母が入院してから、家賃が払えていない。かれこれ二か月。まだ、大丈夫と思いつつその督促状はテーブルの上に置いてきた。先月の分と合わせてまだ二通目。恐らく、半年くらいなら大丈夫だろう、と勝手に思っている。幸いなことに、電気や水道、ガスは止められていない。むしろ、こちらの支払いを優先させているから家賃が後回しになっているのだ。
昇降口に入れば、背中に衝撃を感じた。
「あ、ごめーん。いたんだ」
革靴を手にしていたのはクラスメートの丸山加奈子。あのクラスのカースト頂点に立つ女子生徒。そこから推測されるに、彼女はその革靴で美桜の背中を勢いよく叩いたに違いない。制服にははっきりくっきりと足跡がついていることだろう。
くだらない――。
美桜は加奈子を一瞥してから教室へと足を向ける。だが、それが加奈子には面白くなかったようだ。
「は? 貧乏人のくせに、何、お高くとまってんのよ」
加奈子が望んでいるのは、美桜が叫んで喚いて泣くこと。なぜ彼女の思い通りに行動しなければならないのか。
背中に鈍い衝撃が走った。周囲の笑い声。息がつまる――。
そこから美桜の記憶が途切れている。
美桜がはっと目を開けると、見慣れぬ天井が視界に入った。見慣れないけど、見たことのある天井だ。首だけ横に向けると、そこには困った顔の龍巳が正座をして姿勢を正して座っていた。
「え、と。私はなぜここにいるのでしょう?」
学校に行ったはず。朝からカーストトップの加奈子と出会ってしまい、絡まれた。だが、そこからの記憶がない。
「あなたが学校で倒れたと、連絡がありまして。それで、私が迎えにいきました」
なぜ美桜が倒れたら龍巳の元へ連絡がいくのか――。
あ、思い出した。生徒手帳の緊急連絡先に書いてあったアパートの電話番号の隣に、龍巳の携帯の番号を書いたのだ。龍巳が勝手に。
「あ、すみません。ご迷惑を、おかけしました」
美桜が身体を起こそうとすると、すかさず龍巳の手が伸びてきた。そして、気付いた。制服ではなく、浴衣を着て休んでいたらしい。いつ、誰が着替えたのか。浴衣を見てから龍巳に視線を向けると、彼は困った様に笑う。
「着替えをさせたときに、あなたの身体にある痣を確認させていただきました」
はっとして美桜は浴衣の胸元を押さえる。
「着替えさせたのは女性の使用人ですよ。私は、その痣を確認しただけです」
着替えさせられたことが恥ずかしいのではない。彼が口にしている身体中にある痣を見られた、ということが恥ずかしいのだ。
「誰かに殴られたような痣ですよね。ですが、あなたはおばあさまと二人暮らし。そのおばあさまは入院されている。誰がそのようなことをあなたになさったのでしょうか。学校で倒れたという話も聞いたことから、いつ、どこで、何をされたのかということは、容易に想像がつきます」
美桜は口を噤んだ。もう少しで卒業だ。できることなら事を荒げたくない。無事に高校を卒業さえすれば、働き口だって選択肢が増えるはず。そのために、今まで我慢をしてきたのだから。
「答えたくないのであれば、無理に聞き出そうとはしません。ですが、現状を変えようとしない限り、それは続くのではないのですか?」
「もう少しで卒業ですから。それまで、私があいつらに対して我慢さえすればいいのです」
美桜の口から言葉を聞けたことに安堵したのか、龍巳が微笑んだ。
「美桜さん、やっとあなたの口から何があったのかということを聞けたような気がします。あなたを傷つけたのは、あいつらですね」
美桜は小さく頷いた。両親もおらず、祖母と二人暮らしで、まして裕福ではない家庭で見た目は地味というスクールカーストという制度の中では底辺に位置する存在。殴る蹴る引っ張る押す、荷物を隠して困らせる。教師に気付かれないように美桜を痛めつけるのがカースト上位における彼らの特権のようなもの。むしろ知られても、それを捻じ伏せるだけの力があの加奈子にはある。
「いつの時代も、人間にとっての脅威は人間なんですよね」
美桜のつぶやきに、龍巳は薄く笑いを浮かべた。
千年以上も前に、不可侵条約のような約束が結ばれたのは、あやかしたちが人間を襲っていたから。それに対抗する力を持っていた人間が陰陽師と呼ばれる彼ら。だがこの争いに終わりはないのではないか、と気付いた双方のトップがその約束を結んだ。
だから現代の今、あやかしたちも人間界で人間に紛れて暮らす者もいるし、妖界で暮らすことを選ぶ人間だっている。そうやって時代は移り変わっていくというのに、人の本質というものはかわらない。
「人間は。自分より劣る者の存在を確かめることで、安心感を得ようとする生き物なのです」
龍巳の言葉を、美桜は黙って聞いていた。
「さて、美桜さん。あなたはまだまだたくさんの問題を抱えておりますね。荷物を取りにいった私の使用人が、あなたのアパートからこのようなものを見つけてきました」
先ほどから彼の口からは使用人という言葉が出てくるのだが、その使用人をお目にかかったことはない美桜。
勝手に人の家に入ったんですか、と普通なら騒ぎ立てるところなのだが、なぜかその気力すらない。
「美桜さん、ここに住みませんか?」
「は?」
この男の言っていることが飛躍し過ぎて、美桜の脳みそがついていかなかった。
「あなたのおばあさまも不在であるなか、あなた一人であのようなボロアパートにいるのは、さぞかし不安でしょう」
さりげなくボロと言って、美桜の家をディスっているようにも聞こえるのだが。
「それに、あなたは私の仕事を手伝ってくれるのでしょう? でしたら一緒に住んだ方が何かと便利なのです」
「え、あ。はい。あの、だけど、その。祖母が退院したら戻ってくる家がなくなってしまいますから」
「それは、おばあさまが戻ってきたときにまた考えましょう。とにかく私が今言いたいのは、あなたをあそこに一人でおいておきたくない、ということなのです。それに私の仕事の助手なのですから、できるだけ側にいて欲しいというのが本音です」
なぜだろう。どこからどう聞いても怪しい話なのに「はい」と頷いてしまったのは。それほどまでに追い詰められていたのか、それとも彼がこの神社の責任者だからなのか。
今、美桜は龍巳がいうところの使用人と共に、一度アパートへ戻っている。必要最小限の荷物を持ってくると共に、アパートの滞納家賃の支払いや解約手続きなどのあれやこれのために。だから今、この部屋には龍巳しかいない。
「青龍様、少し強引過ぎたのではありませんか?」
龍巳の首元にまとわりついている蛇。今、声を発したのはこの蛇であり、この蛇は龍巳の使役魔である。つまり、龍巳の言うことを聞く従順な生物のはずなのだが、どうやら口答えをしている様子。それはこの龍巳の力が強いから、困ったことに使役魔も意思を持ち始めてしまったのだ。
「ああいう子は、少しくらい強引にいかないとすぐに逃げてしまうのですよ」
龍巳は楽しそうに笑っていた。
龍巳が美桜を拾ったのは、本当に偶然だった。深夜、使役魔が騒いでいるから外に出てみたところ、人が倒れていた。それが美桜だった。助け起こそうと思って彼女に触れた途端、ビリッと全身に電気が走ったような痺れを感じた。
そこで龍巳は、彼女が自分の伴侶となるべき少女であることを悟った。
あやかしは、自身の伴侶となるべき者と出会うと本能的に感じるらしい。だが、そうは聞いていたものの、今までそういったことのなかった龍巳にとっては、その話すらも半信半疑であった。だが、それが確信へと変わった瞬間でもある。
彼女のことはただの人間であると思っていた。人間とあやかしの婚姻も、今となっては珍しいことではなくなってきているが、だからといって多いとも言い難い。寿命の異なる異種婚姻は、様々な手続きや根回しが必要となるからだ。だが、彼女はあやかししか見ることができない妖具を見ることができるようだった。
妖具――それがあの床の間に飾ってある日本刀のようなもの。あれは刀の形をした妖具なのである。妖具とはあやかしを捉えるための道具であるため、人間界の純粋な人間には見ることができないし、もちろん触れることもできない。
「青龍様、楽しそうですね」
使役魔はするすると龍巳の首から降りると、どこかへすっと消えていく。それは龍巳が命じたから。
美桜の様子を見張れ――と。
「まさか、私の伴侶が人間界にいるとは思ってもいませんでしたね」
龍巳は独り言ちた。
伴侶を得たあやかしは、その力を増幅させるとも言われている。だからこそ、伴侶は「極上の番」とも呼ばれているのだ。
龍巳は嬉しそうに目を細めた。
さて、諸々手続きをしてきた美桜は、龍巳につかえている使用人――名前を、千衣子という――と共に、この社務所へと戻ってきていた。美桜としては怒涛の数日間。宝くじを当てたくて、この神社にお百度参りをして、途中、力尽きて眠ってしまったというのが事の発端。
与えられた部屋は、あのアパートの一室よりも広い部屋だった。社務所の奥にこのような立派な住居があることも驚いたが、このような立派な部屋を与えられたことも驚きだった。なぜ、龍巳はここまで自分によくしてくれるのだろうか。
「美桜さま、お食事の準備が整いました」
荷物を片付けていた美桜の元へやってきたのは、千衣子。どうやら美桜付きの使用人とのこと。家賃滞納ボロアパートの貧乏暮らしから、一気にお嬢様になってしまったような、そんな気分。
千衣子の後ろを黙ってついていくと、案内された場所は大きな和室。和室であるのに、椅子とテーブルが並んでいるのだが、やはり和室にあったような黒や茶色を主体とした色合いのもの。
そのテーブルの上座と思われる場所に座っていたのは、もちろん龍巳であった。美桜の姿を見つけると、目尻を下げて微笑む。
「美桜さん、部屋のほうの居心地はどうですか?」
「あ。はい。私にはもったいないような部屋です。ありがとうございます」
「その着物も似合っています」
美桜は、なぜか着物を着つけられた。よく見たら、ここにいる人たちは皆着物姿だ。そもそもここは美桜が知っている世界と違うような気がする、のだが。それを口にしてもうまくはぐらかされてしまうような気がしていた。
「では、食事にしましょう」
美桜の前には料亭かと思われるような食事が運ばれてきた。このような料理、今までお目にかかったことさえない。むしろ、食べ方さえわからないようなものばかり。美桜が困って食べ物を見つめていれば、龍巳が優しく声をかけてくれる。だから美桜も恐る恐る口元へとそれを運ぶ。
「美味しい」
それが美桜の素直な気持ち。いつも満足な食事さえとることのできなかった美桜。逆に、お腹がびっくりしてしまうのではないかと思われるほどの豪華な料理。
「本当は食事をしながら、あやかし退治についてのお話をしたかったのですが……。どうやら美桜さんは食事に集中されたほうがよろしいみたいですね」
龍巳が笑っているのは、美桜がハムスターのように頬を膨らませているからだろう。それらをゴクンと飲み込んだ美桜は、恥ずかしいところを見せてしまったとでも思ったのか、少し頬を赤らめた。
「美桜さん。お気になさらず、好きなだけ好きなように食べてください」
美桜を見つめる龍巳の眼差しは優しい。いや、彼だけではない。ここにいる他の者たちも、美桜を見守るかのような眼差しを向けてくるのだ。
「美桜さん。食事が終わりましたら、私の部屋に来ていただけませんか? あやかし退治について説明しましょう」
部屋に来てもらえないか、と男性から誘われたら、ドキリとしてしまうかもしれない。だが、残念ながら美桜には魅力のない誘いだった。今は目の前のご飯の方が大事。
口の中にいっぱい食べ物が詰め込まれているため、美桜はコクコクと頷いた。
食事を終えた美桜は、千衣子に案内されて龍巳の部屋へと向かった。こんなにお腹いっぱいご飯を食べたのはいつ以来だろうか。
「待っていましたよ。どうぞ、そこにお座りください」
龍巳の部屋は、いつも美桜が気付くと横になっていたあの部屋だった。
「千衣子さん、お茶の準備をお願いします」
龍巳の言葉に黙って頭を下げた千衣子は、無言でお茶を淹れると二人の前に湯呑を差し出した。そして、黙って彼女は部屋を出ていく。
「美桜さん。早速ですが、あやかし退治について説明しましょう。明日も学校がありますから、あまりお時間を取らずにさくっと説明しますね」
彼の口から似合わないような言葉が飛び出して、思わず美桜はにやけてしまった。そんな彼女に安心したのか、龍巳は言葉を続ける。
「では、早速。あやかし退治には妖具と呼ばれる道具を使います。その妖具の一つがあの刀です」
そこで龍巳は床の間に視線を向ける。美桜も釣られるようにして床の間を見やった。立派な日本刀が飾ってあるのだが、あれがあやかし退治のための道具だという。となれば、本物なのだろう。
「妖具は、普通の人間には見えませんし触れません。ですからあの刀が人間を傷つけることはありません。あやかしをばっさりと切りつけて、強制的に妖界へ送り返す。それがあの刀の力です」
普通の人間を傷つけるわけではない、と聞いて美桜は安堵した。やはり刀と聞いてしまえば血生臭いことを想像しまいがち。
「それで、美桜さん。あなたは一体、何者ですか?」
美桜は問われている意味がわからなかった。ん? と首を傾げる。
「妖具は、普通の人間には見ることができないのです。ですから、あそこに日本刀のようなものがあることに気付かないのですよ。普通の人間であれば」
含みをもたせている龍巳の笑みが怖かった。何者と問われても、美桜は人間だ。あやかしではない。
「もしかして。私が陰陽師の家系の血を引く者、だったりするのですかね?」
龍巳もその可能性を考えた。妖具が見えているという時点であやかしか陰陽師の血を引く者か。もし、美桜が陰陽師の血を引く者であれば、龍巳がすぐに気が付くはずだ。これも普通の人間とは違う独特な気を放つから。
だが、美桜から感じられるのは人間の気。陰陽師でもあやかしでもない、いたって普通の人間の気。だから、彼女が妖具を目にすることができたのが解せないのだ。どうやら、美桜の生い立ちについては調べる必要がありそうだな、と龍巳は考える。自分の極上の番となるべき女性。謎に包まれているのも魅力の一つであるが、できることなら余すことなく彼女を知りたい、という欲。
「すみません、どうやら私の勘違いのようでした」
という一言で、龍巳はその場を誤魔化した。それから簡単に妖具の使い方を説明し、刀以外にもたくさんの種類があることも教えた。その中で、美桜には鞭のような妖具と小刀のような妖具の二つを与えた。
「こちらの妖具は、あやかしに向かって打ちつけるほかに、彼らを拘束させることができます。あやかしを妖界に送り返すには切りつける必要がありますので、そのときはこちらの小刀をお使いください」
つまり、人間でいうところの失血死のような状態になれば、あやかしたちは強制的に妖界に送り返される、とのことだった。だから日本刀や小刀のような切りつける妖具が必要になる、とのこと。
「それから、こちら。お守りです」
ミサンガのような組紐を手渡された。
「これでしたら、学校につけていくこともできるでしょう?」
龍巳は美桜の手首に、その組紐を結び付けた。美桜は黙ってそれを眺めたけれど、加奈子に見つからないようにブラウスの袖の下に隠しておこう、と思った。
千衣子の手によってボサボサだった美桜の髪は、艶を取り戻していた。ボサボサだったからいつも三つ編みにしていたその髪を、千衣子は高い位置で一つに縛った。いわゆるポニーテールというもの。制服についていた汚れも千衣子や他の使用人たちによって、跡形もなく消え去っている。
別人みたい、というのが美桜の素直な気持ちだった。今日は学校の帰りに祖母の病院に寄りたいことを龍巳に伝えたら、彼はそれを快く承諾してくれた。祖母は起き上がることはできるものの、一人で歩くことができない状態。医師からはその病気の症状を説明されたような気もするのだが、美桜には難しくてよくわからなかった。また、手術同意書というものにサインをしなければならないのだが、高校生である美桜は十八にならなければそれにサインができないようだ。だから、誰か他の大人をと言われているのだが、美桜にとって親族と呼べるものは祖母だけであるため、どうしたらいいかもわかない。その辺も含めて、病院のソーシャルワーカーに相談するように、とも言われていた。
祖母の事を考えていたら、いつの間にか学校に来てしまった。昨日は学校に来たものの、教室に辿り着くことすらできなかった。今日は周囲を見回しても加奈子一味がいない。ということは、どうやら教室までは行くことができそうだ。
美桜の席は真ん中の列の一番後ろ。一番後ろの席というのが、何かとありがたい。
いつもの通り黙って教室に入れば、クラスメートから好奇心の目を向けられた。
「金木さん、だよね?」
声をかけてきたのは、隣の席の田中真帆。
「あ、うん……」
できるだけ関わりたくない。彼女から避けるようにして小さく返事をして、席につく。
「え、どうしたの? 髪の毛、艶々じゃん。髪型も微妙にかわいいし」
真帆の大きな声で、人が集まってくる。
――あれ、金木?
――学校に来たんだ。別人じゃね?
――とうとう頭がおかしくなったのか?
そんな声が耳に届いてきた。美桜としてはそっとしておいて欲しい。ただ、それだけ。
それでも、加奈子はまだ学校には来ていないようだった。加奈子が来るまでに静寂が戻って欲しいと、美桜はひたすらそう願っていた。
だが、ショートホームルームの時間になっても加奈子は姿を現さなかった。担任が言うには欠席とのこと。昨日、あれだけ美桜をいたぶったにも関わらず、今日は休みというのは何があったのだろうか。他にも、彼女の取り巻きたちの姿もなかった。結局、この日はカースト上位の四人が欠席。美桜にとっては平和そのもの。
と思っていたのだが、その平和は昼休みに隣の席の真帆によって壊された。
「金木さんのお弁当。すごーい。自分で作ったの?」
なぜか真帆が美桜の机にその机を寄せてきている。合わせて一緒にお弁当を食べましょう、とでも言うように。真帆の声を聞きつけたのか、美桜の弁当を見るために数人のクラスメートが寄ってきた。
美桜は誰に見られても自分のペースを乱すことなく、弁当を口に運ぶ。この弁当は龍巳に持たされたもの。恐らく、あそこの料理人が作ってくれたのだろう。
「ねえねえ、金木さんのこと、名前で呼んでもいい? 私のことも真帆でいいから」
カースト上位がいなくなった途端、これだ。ある意味、カースト上位はいい仕事をしていたのかもしれない、と美桜は思った。他人と馴れ馴れしくするのは苦手。と思いながらも、あの龍巳と話をするのは嫌ではなかった。
「好きにしてください……」
クラスメートとはあまり話をしたことが無いため、このようなときにどのような言葉を口にしたらいいかがわからない。咄嗟に美桜の口を告いで出た言葉がそれだった。
「じゃ、美桜って呼ぶね」
やはり加奈子たちがいなくて良かったのかもしれない。こんなところを見られたら何を言われて何をされるか、わかったものじゃない。
真帆はお弁当を食べながら一方的に喋っていた。
ずっと声をかけてみたいと思ってた。だけど、加奈子たちがいたから。今まで無視してごめんね。
恐らく、そんな感じの内容だったと思う。
やはり、カースト上位がいないから興味本位で声をかけてきただけなのだろう。加奈子たちが学校に来たなら、どうせ声もかけてくれないくせに――。
そう思いながら、美桜はお弁当を噛み締めた。
放課後、美桜が帰ろうとすると真帆に呼び止められた。
「美桜、一緒に帰らない?」
美桜はぎょっとして真帆を見る。彼女はニコニコと笑顔を浮かべているのだが、その笑顔がどこか怖いように感じてしまったのは何故だろう。
「今日は。病院に行かなきゃいけないので」
「そうなんだ、残念。じゃ、明日、一緒に帰ろうね。ばいばい」
真帆の距離感がわからない。加奈子がいないからああなのか。加奈子がいてもああなのか。そもそも真帆はカーストの中間層の人間のはずだ。中間層の人間は上位がいなくなっただけで、ああも強くなれるのだろうか。鞄を手にした美桜は、そっと教室を出る。美桜の姿が教室から消えた時、換気口からするっと滑って外に出ていく何かがあった。もちろん、美桜はそれに気付いていない。
美桜は祖母の着替えを持って病院へと向かっていた。いつも三日から四日に一度の頻度で病院へと行っていた。やることが無いから、毎日行っても苦ではないのだが、それは祖母が嫌がっていた。だから、丁度よい回数が三日か四日に一度の頻度。
「おばあちゃん」
病室に入ると、今日もベッドの上でぼんやりとしている祖母の姿があった。
「みおちゃんかい?」
ゆっくりと首をこちら側に向ける。入院してから一気に老けたような気がする。祖母はまだ六十代だ。平均寿命までまだまだある、にも関わらず。
「おばあちゃん、着替えはここに置いておくね」
ベッドの脇にある床頭台の開き戸を開けて、新しい下着をそこにいれた。それからそこに置いてある汚れ物を取り出す。
「おばあちゃん。何か食べたい物とかある? 買ってくるよ」
「何もいらないねぇ」
一応、会話は成り立つ。どうして祖母がこうなってしまったのか、美桜にはよくわからない。医師の話を聞いても、難しくてよくわからない。
とりあえず手術が必要であること。手術をするためには、持病の治療をしてから、とのことで投薬治療が続けられている。
入院費用、手術費用、お金は祖母の年金から。美桜も単発のバイトをして、それを生活の足しにしているのだが、結局、家賃に手が回らなくなっていた。
「おばあちゃん。また、来るね」
「はいはい」
祖母はわかっているのかいないのか、ニコニコと笑顔を浮かべているだけだった。
「みおちゃん、みおちゃん」
祖母が帰ろうとする美桜を引き止めようとすることは珍しい。
「みおちゃんの腕。きらきら光ってるね」
祖母のその言葉に美桜は首を傾げる。それでも祖母が美桜の手首に手を伸ばしてきた。
「きらきら光ってるのは、ここだね」
それは昨日、龍巳からもらった組紐。ブラウスの下になるようにと、ブラウスの手首のボタンをしっかりとしめていたから、祖母からは見えるはずもなかったのに。
美桜は手首のボタンを緩めて、組紐を祖母に見せた。
「おばあちゃん、これ?」
「そうだよ。これは大事にしなきゃいけないね。美桜ちゃんを守ってくれるものだから。いいもの貰ったね」
ふと、入院前の祖母に戻ったような感じがした。
「おばあちゃん、ありがとう。また来るね」
龍巳からもらった組紐を褒められたことが嬉しかった。
美桜が病室から出ると、また通気口からしゅるりと出ていく何かがあった。
青龍神社の社務所。外から見ると、こぢんまりとしている建物に見える。だが、中に入れば広い。目の錯覚と呼ばれるものなのか、と思いながら、社務所の裏口に回る。
奥の住居の方に入るには、裏口という名の玄関から入るようにと言われている。表の入り口は社務所内だけ。裏から入れば奥の住居に行けるようになっている作りらしい。
「ただいま帰りました」
「お帰りなさいませ、美桜さま」
にこにこと笑顔を振りまいて千衣子が出迎えてくれた。
「あの、洗濯をしたいのですが。洗濯機をお借りしてもよいでしょうか」
祖母の下着も洗濯したいし、自分の着替えも洗濯したい。
「まあまあ、そのようなことは私どものほうでやりますから」
と言われるのはわかっていた。
「あの、ですが。その、祖母の着替えもあるので」
「でしたら、まとめて洗濯しますよ」
ここまで言われてしまったら、美桜は反論ができない。元々、学校では口数少なく。ここで普通に喋ることができる方が不思議なくらいなのだ。
「お願いします」
美桜が頭を下げると、千衣子はやはり笑顔だった。ここに来てから、たくさんの人に笑顔を向けられる。蔑まれたような同情されたような視線ばかり向けられていた美桜にとっては、なかなか慣れない視線でもある。
「着替えを、お手伝いしますね」
制服を脱ぐと、また着物を着付けられる。やはり、神社というところに住んでいるから着物なのだろうか。
「慣れれば一人で着付けられるようになりますから。夏になれば、浴衣もよろしいかと思います」
千衣子はそう声をかけて、洗濯物を手にして、部屋を出て行った。
着物を着てしまったら、疲れたといってゴロンとその辺に寝転がることもできない。仕方なく、座布団の上にしずしずと正座をして、鞄から教科書を取り出した。学生の本文は勉強だから、宿題とテスト勉強でもしておこう。
だが、美桜は就職希望だった。もちろん、理由は金銭面。進学するだけのお金はない。家賃だって払えないような状況で、ご飯だって食べたり食べなかったりしていた日々だったのだから。就職希望だからテスト勉強は不要というわけではない。むしろ内申点が響くから、定期テストではそれなりに成果を出しておく必要がある。
部屋の襖を叩かれた。
「はい」
「私です。今、入っても大丈夫でしょうか」
「はい」
美桜が返事をすると、襖はゆっくりと開かれる。もちろん、そこにいたのは龍巳。
「勉強中でしたか? 後で出直した方がよろしいでしょうか?」
「いえ、大丈夫です」
美桜はテーブルの上に並べていたノートと教科書を両手でかき集めると、畳の上においた。これでテーブルの上だけは綺麗に片付いたはず。
「では、お言葉に甘えて」
今日の龍巳の着物は、濃い茶色。美桜はまだ、龍巳が同じ柄の着物を着ていたことを目にしたことがない。
「学校は、いかがでしたか?」
「それが、ですね」
聞かれてしまった事で、美桜は箍が外れたかのように勢いよく喋り出した。あの加奈子が欠席したこと、加奈子だけでなく取り巻きも欠席。なぜか隣の席の真帆が声をかけてきたこと。だけどそれは、加奈子たちがいないからだろう、ということまで。
「なるほど」
美桜の話を黙って聞いていた龍巳だが、その内容は使役魔が伝えてきた内容とほぼ同等。ただ使役魔は客観的に報告するのに対して、美桜の話には彼女の感情が含まれている。違いがあるとしたらそこくらいだろう。
「おばあさまの様子は? 今日は、病院にいかれたのですよね」
「はい。相変わらずです。私のことは辛うじてわかっているようなのですが。いつ行ってもぼんやりとしていて。どこにいるかもわかっているのかいないのか。あ、それでも」
美桜の顔がぱぁっと明るく輝いた。
「おばあちゃん。これに気付いてくれたんです。私を守ってくれるものだから、大事にしなさいって。ちょっと、嬉しかったです」
気になる人から貰った物を、他人から褒められたらそれは素直に嬉しい。
「おばあさまが、そうおっしゃっていたのですか? 他には?」
「あ、そうですね。これがきらきら光ってるって言ってました。たまたま光に反射したんですかね?」
という最後の一文は、美桜なりに考えた誤魔化しだ。口にしてから気付いた。この組紐がきらきら光るような造りになっていないことに。祖母がとうとうボケてしまった、と思われるのが嫌だったから。
だが、龍巳は特に気にしていない様子。
「美桜さんの様子が聞けて安心しました。夕食の準備が整いましたら、また呼びにきます。それまでは、そうですね。どうぞ、勉強をしていてください。学生の本分は勉強ですからね」
そこで龍巳は立ち上がった。美桜も龍巳を見送るために立ち上がろうとしたのだが、長く正座をしすぎてしまったせいか、足が痺れていた。痺れた足で立ち上がれば、身体はバランスを崩してしまい、倒れそうになってしまう。
「あ」
「危ないですよ」
転ばずに済んだのは、すんでのところで龍巳が身体を引き寄せてくれたからだ。見た目よりも力強い龍巳に抱き締められて、美桜は少しドキリとしてしまう。
「気を付けてくださいね」
美桜の頭の上から龍巳の声が降ってきた。思わず見上げれば、丹精なその顔が近い。美桜は頬が熱を帯びるような感じがした。すっと頭を下げて、視線を逸らす。
だけど、まだ足が痺れて、彼の腕から逃げ出すことはできない。
「すみません、足が、痺れてしまって……」
事実だけど言い訳のようにも聞こえたかもしれない。
「落ち着くまでこのままでいいですよ」
また、頭上から龍巳の柔らかい声が降ってきた。この声に包まれると、なぜか落ち着く。落ち着くはずなのに、心臓だけはそれと正反対で忙しなく動いていた。じんとしていた足の痺れも、心臓が動くたびに和らいでいく。
「もう、大丈夫です」
美桜は恥ずかしくなって、優しく龍巳を突き放した。
「では、また」
龍巳は穏やかな笑みを浮かべて、部屋を出て行った。
さて、美桜の部屋を去った龍巳だが、自室へ戻るや否や使役魔を呼びつけた。
「お呼びですか、青龍様」
「美桜のおばあさまの話です。何も、報告があがってきていませんが」
「すみません。中への侵入は成功したのですが、どうやらあそこの周辺には結界が張られておりました」
「結界、ですか?」
龍巳はその丹精な顔を歪めた。
「はい。我々使役魔や力の弱いあやかしは近づくことができません。結界によって、美桜様との空間が遮断されてしまいました。ですが、美桜様がお帰りになられる際には結界も解けましたので、恐らく、美桜様の近くにいた誰かによる仕業だとは思うのですが」
青龍は美桜に組紐を手渡したが、あの組紐にはそこまでの力はない。
「できれば、美桜のおばあさまからも話を伺いたいところですね」
龍巳は顎を右手でさすりながら考える。だが、美桜の話では祖母は歩くことができない程弱っているらしい。記憶も曖昧になる、とか。手術のために、他の病気を治すための投薬治療を行い、そこが完治してから手術になる、と。
「美桜のおばあさまは、本当に病気なのでしょうかね」
龍巳の目が鋭く使役魔を捕らえた。すっと、一歩退く使役魔であるが、どういう意味でしょうか、と龍巳を見上げる。それは、次の命令を待っているかのようにも見えた。
「とりあえずあなたは、美桜の身辺を見張っていてください。他の者に、美桜のおばあさまについて探りを入れてもらいます」
美桜の学校へと向かう足取りは、昨日よりも少しだけ軽い。仮に加奈子たちに絡まれたとしても、とことん無視してやるという気持ちと、毎朝、龍巳に見送ってもらうことが自信へと繋がっていた。
昇降口でパシッと肩を叩かれたため、美桜は身構えた。
「おはよ、美桜」
真帆だった。だからか、いつもより弱いパシッだったのは。
「おはようございます、真帆さん」
「真帆でいいって言ってるのに」
真帆は笑いながら上履きをとると、靴を履き替える。美桜は自分の下駄箱に手を伸ばすと、何かがおかしいような感じがした。何がおかしいのかと問われると答えることはできない。だけど、違和感。
真帆と並んで教室へと向かう。三年生の教室は三階。後ろからやって来た男子生徒は、一段抜かしで階段を駆け上がっていくため、美桜たちを抜かしていく。
「おはよー」
明るく真帆が声をあげて教室に入れば「おはよ」「おはよう」と挨拶が返ってくる。
「おはようございます」
真帆の後ろに隠れるかのようにして小さく挨拶をして、そそくさと自席へと向かう。だが、真帆は隣の席だった。いつの間にか彼女の机の周りには人だかりができている。
何かがおかしい、と美桜は思った。そう、いつも人だかりができる席は加奈子の席。何しろこのクラスのカーストトップなのだから。だが、今日は真帆だ。なぜ? 教科書を机の中にしまいながら、美桜は教室をゆっくりと見回した。
加奈子とそのとりまきの姿が無い。昨日は欠席だった。もしかして今日も休みなのだろうか。四人揃って――?
「ホームルームを始めます」
担任が教室に入ってきたため、真帆の周りの人だかりは散った。美桜はじっと空いている加奈子の席を見つめている。そんな彼女を、隣の真帆がちらっと視線を向けたのだが、もちろん美桜はそれには気付かない。
「出席をとります、朝野誠二……」
「はい」
「……金木美桜……。金木美桜……、金木さん、休み?」
「美桜、呼ばれてるよ」
「あ、はい」
ぼやっと考え事をしていたから、名前を呼ばれたことにも気付かなかった。返事をして手を挙げれば、担任も安心したように次の名を呼ぶ。
「藤川英人」
「はーい」
「宮崎有里」
「はい」
あれ、と美桜は思った。藤川と宮崎の間には丸山がいたはず。つまり、丸山加奈子。そして、他の三人の名前も呼ばれていなかったことに気付く。欠席の連絡があったから、最初から呼ばなかったのだろうか。いや、違う。欠席の連絡があってもまずは名前を呼んでから「休みの連絡がありました」と担任が言うのだ。おかしい、と思いながらもそれ以上、追究する術はなかった。
やっぱりおかしいかも、と美桜が思ったのは昼休みに入った時。あのカースト上位四人が欠席ではなく、いなかった者として扱われている。何がおかしいって、まずは机の並びだ。四人がいたそこの席から、不自然に机が無くなっている。ぽつんと、穴が開いているような席順なのだ。だが、クラスメートはそれすら不自然に思わないらしい。
「あの、真帆さん……」
真帆は美桜の机の方に自分の机を寄せていた。特に約束をしていたわけでもないのに、二人でお弁当を食べている。
「丸山さんとかは、どうされたのでしょう?」
「丸山? 誰、それ」
「え、と。丸山加奈子です。このクラスで一番成績の良かった」
「何、言ってるの? このクラスで成績が一番良いのは、美桜でしょ?」
「え?」
美桜だってけして成績は悪い方ではなかった。むしろ上位だ。それもあって加奈子たちに目をつけられていた。それでも美桜の上にはいつも加奈子がいた。クラス一位。加奈子はこの座から転げ落ちたことは無い。その次に加奈子の取り巻きたちが入って、美桜はいい時でもクラスで三位とか、そのような成績だった。
「もう、テストが近いからって、勉強疲れなんじゃない?」
そんなことはない。このクラスは四十人。今、四人がいなくなって三十六人。それそのものが不自然なのだ。
「あの、真帆さん。どうして、あそこの席は空いているのでしょうか?」
不自然にポツンと机の無い場所。それは加奈子の席だった場所。
「さあ? なんだっけかな? 別にいいんじゃない? 誰も気にしていないから」
「あそこは、丸山加奈子の席でしたよね?」
「うーん、ごめんね。美桜がさっきから言っている丸山加奈子って誰のことだからわからないんだけど。もしかして、美桜の中学のときの同級生?」
そこで美桜はこれ以上加奈子について口にすることをやめようと思った。おかしなことに加奈子を含むあの四人が、いないように扱われている。急にいなくなったのではなく、最初からこの世に存在していないかのように。
口の中に入れた卵焼きの味が、まったくわからなかった。それくらい、美桜はじっと考え込んでいたのだ。
「変な美桜」
と真帆は口にするけれど、変なのは自分以外の人間ではないのか、と美桜は思っていた。
午後の授業もつつがなく進み、というのも、あのカースト上位四人がいなければ、物事は何事もつつがなく進む。あの四人のおかげで、新任の数学教師が休職しているというのも有名な話なのだが。
「美桜、一緒に帰ろう」
昨日は病院に行くから、という理由でそれを断った。だけど、今日は病院にいく予定はない。となれば、断る理由が無い。それでも、これ以上真帆と一緒にいるのは危険と何かが囁いていた。だが、断る理由が無い。気の弱い美桜は、結局二つ返事をしてしまう。
真帆と並んで昇降口へと向かうのも、なんとなく空気が重かった。それに彼女は気付いているのか、明るく声をかけてくる。上の空で返事をする美桜。
朝、違和感があった下駄箱。なぜ違和感があったのか。あの四人の上履きがなかったのだ。もう、存在しない人間かのように。
「どうかした?」
真帆の言葉に「何でもない」と答える。
靴を履き替えて正門の方に向かって歩けば、正門の向こうに人影がある。誰かのお迎えだろうか、と美桜が思った時、その人影が龍巳であることに気付いた。
「美桜さん、お迎えにきました」
「え、誰? 美桜、紹介してよ」
あそこでは着物姿の龍巳も、外出するときは洋服らしい。シャツにジーンズというラフな姿なのに、他人の目を惹きつけるのはやはりその容姿のせいだろう。隣にいる真帆が、誰、誰、と五月蠅い。
「美桜さん、隣の方はお友達ですか?」
龍巳はいつもと変わらぬ口調で尋ねてくる。
「あ、はい。同じクラスの……」
「田中真帆です。美桜さんとは隣の席です」
「元気なお嬢さんですね」
「あ、真帆さん。こちらは……」
「美桜さんの従兄弟です。美桜さんをお借りしてもいいですか? せっかく花の女子高生の時間の邪魔をしてしまって申し訳ないです」
「いえ」
有無を言わさぬような迫力とは、まさしくこのような龍巳の笑顔のことを言うのだろう。
「じゃね、美桜。また明日」
少し硬い表情で真帆が手を振ったので、美桜も小さく手を振った。
「車は少し離れたところに止めてあるのです。そちらまで歩きますが、よろしいですか?」
「あ、はい。ところで龍巳さん。今日はどうされたのですか?」
「先日のこともありましたので、少し心配になって迎えにきました」
と龍巳は言うが、それは嘘だ。美桜につけていた使役魔から報告があがってきたからだ。青砥高校の様子がおかしい――と。
「学校の方は、おかわりありませんか?」
美桜は龍巳に言おうかどうか迷った。加奈子たちのことを。
「あの」
と言いかけたところで、肩を抱き寄せられた。どうやら後ろから自転車が物凄いスピードで走ってきたようで、危うく美桜がぶつかりそうになったのだ。
「危ないですね。これでは、何のための歩道かわからないですね。どうかされました?」
どうもこうもない。突然、このように龍巳に抱き寄せられてしまえば、誰でもこうなってしまう。
「何でもありません、大丈夫です」
美桜にはそれだけしか口にできなかった。
龍巳の運転する車は大衆車でありながら、サーキットも走っていそうな車だった。そんな彼がステアリングを握る姿は、普通にかっこいいと思う。
「何かありましたか?」
あまりにも運転する姿が似合いすぎて、美桜がぼうっと見つめてしまっていたからだろう。龍巳がそう尋ねてきた。
「あ、いえ。あ、その……。学校のことなんですけど」
それは先ほど龍巳が聞きかけたこと。
「あの。今までいた人がいなくなって。他の人が誰もそれに気付かないって。そんなことありますか?」
「どういうことですか?」
美桜の話を聞きながらも、龍巳はあの学校で感じた何かを思い出していた。あれは、やはり気のせいではなかった、と。
「あの、一昨日。私を蹴った人たちが、昨日は休みだったんです。四人とも。それが、今日も学校に来ていないなと思ったら、誰もそんな人はいないって言い出すんです」
「まるで逆座敷童のようですね」
「逆座敷童?」
「座敷童はいつの間にか子供たちに交じっているわけですが、今回は知らぬ間にいなくなっている。その四人については誰も覚えていないということなのですか?」
「覚えていない、というか知らないという感じでした」
「なるほど」
そこで龍巳が黙り込んでしまったため、話は終了した。
青龍神社の裏手に駐車場があったらしい。そこに他にも何台か車が駐められていた。
社務所の裏の玄関から中に入れば「お帰りなさいませ」と千衣子に声が声をかけてくる。
「美桜様、お着替えしましょうか」
美桜と千衣子を見送った龍巳も自室へと戻り、着物へと着替えた。さすがにこちらの姿で彼女を迎えにいってしまえば、悪目立ちするという気持ちはあった。
しゅるりと音を立てて使役魔が龍巳の足元へとまとわりつく。
「いつから、あんな感じでしたか?」
龍巳が使役魔に尋ねているのは、あの青砥高校のこと。今、美桜の迎えにいって気付いた。あの学校には何かがある、と。
「明らかな異変が出たのは、まさしく今日。ですが、嫌な気配を感じるようになったのは昨日のお昼過ぎから」
ふむ、と龍巳は頷く。あの青砥高校で、何が起こっているのだろうか。
「美桜さんの様子はいかがでしたか?」
「特に、お変わりはなく。ですが、一人の娘が美桜様に何やらちょっかいを出している様子」
ちょっかいという表現は、いろいろと思わせるところがあるのだが。
「つまり、その娘に気をつけろ、ということですね」
そうです、と使役魔は伝えると、またしゅるりと姿を消す。
龍巳が美桜と出会ったのは偶然だろうか。それとも、必然か、はたまた運命か。
着替えを終えた美桜は、学校の宿題に取り掛かっていた。だが、それもどこか上の空。シャープペンシルを握っている右手は、先ほどから止まったままだった。
けして好きとは言えなかった加奈子だが、彼女がどこにいってしまったのかが、気になっていた。
そもそも、一昨日まで学校に来ていて、昨日は欠席で、今日にこの世に存在しない者として扱われていることがおかしい。龍巳に相談してみたけれど、彼は何か考えている様子で、その考えを美桜に伝えてくれるようなことはしなかった。
ピロリン。
と、美桜のスマホが鳴った。美桜のスマホが鳴ること自体、それが珍しい。よくて病院からの電話。
『やっほー、美桜』
真帆からのメッセージだった。
ピロリン。
『明日の放課後。勉強、教えてくれない?』
美桜は、クラスメートの誰にも連絡先を教えていなかった。聞かれなかったから、というのもあるし、美桜自身も彼らとこのようなやり取りを望んでいなかったからで。だが、昨日。昼休みに真帆が美桜のスマホを奪って、勝手に真帆の連絡先を登録した。挙句、このようなメッセージアプリをいつの間にかにインストールしていたのだ。
美桜は返信を打とうとしたのだが、勝手にそれを引き受けていいのか、ということに悩んだ。返信に困った美桜は、すっと立ち上がって、龍巳の元へと向かう。
結局、困ったときに頼れる人物は、龍巳しかいない。
「すみません、美桜です。入ってもよろしいでしょうか?」
障子越しに声をかければ、中から「どうぞ」と返ってくる。障子をすすっと開けて、美桜は中へと入った。
「どうかされましたか?」
龍巳はいつものように笑顔を浮かべている。だから、どう話を切り出そうかと、美桜は悩んでいた。だが、スマホの画面を見せるのが手っ取り早いと思い、それを龍巳へと差し出した。
「明日、友達が勉強を教えて欲しいと言っていまして……」
「友達? 友達というのは、先ほどのあの子ですか?」
「はい」
龍巳が口にした先ほどのあの子。それは使役魔が言ったちょっかいを出している一人の娘。
「場所は、どちらで?」
美桜が思わず怯んでしまったのは、いつも穏やかな龍巳の表情が鋭くなったから。
「あ、はい。多分、教室です」
「では、終わる頃、連絡をください。今日のように迎えにいきますから」
「わかりました」
龍巳に伝えたことで、美桜の心の中のもやもやが吹っ飛んだような気がした。真帆のことは嫌いでは無いけれど、苦手。だけど、断ることはできない。それは、今までの生活によって染みついたものでもある。言いたいことを飲み込んでしまう性格。だけど、龍巳の前ではするすると言葉が出てくるのが不思議だった。
次の日、放課後。
真帆は美桜の隣に机をくっつけて、勉強をしていた。美桜も、真帆が一人で問題を解いている間は、自分の勉強をすすめる。そういえば、期末テストまであと十日。つい最近、中間テストが終わったような気がするけれど、テストとはそういうものだ。
「ねえ、美桜。ここがわからないの。教えて」
「そこは……」
真帆に聞かれたら教える。ただ、それだけ。真帆が聞いてこなければ、美桜も問題を解く。それの繰り返し。のはずだったのだが。
「あ……」
美桜は軽く息を吐いた。
やられた、ではなく、やられていた、が正解。教科書のあるページがべったりと何かで貼りつけられている。なぜ、今まで気付かなかったのか。もちろん、犯人たちはあいつらしかいないのだが。あいつらがいなくなって三日目。となれば、いなくなる前にやられていたのだろう。
龍巳の元にお世話になるまでは、教科書を開いて勉強をするとか、そういう状況ではなかったし、まして、このような倫理の教科書なんてテスト前にならないと開かないし。
「どうしたの?」
真帆が美桜の教科書を覗き込む。
「何、これ? 誰にやられたの?」
真帆の正義感というものが働いただのだろう。だけど、犯人は間違いなくあいつら。それをどう口にするか。もう一度、思い切って加奈子の名を出してみようか。
「ねえ、美桜。黙っていたらわからないじゃない。これ、誰にやられたの? 美桜はいじめられてるの?」
正確にはいじめられていた。カースト上位の加奈子たちに。だが、もう彼女たちはいない。
「丸山加奈子……」
美桜は、あいつらの名を口にした。
「荒木直人、片山充、森本綾乃。いつも私をいじめていたのは、この四人でしたよね」
誰、それ? と言わんばかりに、真帆は首を傾げる。
「丸山加奈子はそこの席、荒木はそこ、片山はそこ、森本はそこ。今、不自然に空いている席にいました。一体、彼らはどこにいったのでしょう?」
「だから、美桜。昨日から一体、何を言っているの? 中学の同級生の話?」
「違います。今のお話です」
そこで美桜は一枚の紙きれを広げる。
「これ、球技大会の名簿です」
なぜかその名簿が数学の教科書に挟まれていた。恐らく、球技大会の時に名簿を貰って、手元にあった数学の教科書に無くさないように、と挟んでおいたのだろう。
昨日、数学の勉強をしていてその名簿に気付いた。そして、やはり四人は実在していた、ということに。
「四人の名前、書いてありますよね? ですから、私の過去の話ではなく、今の話です」
それでも真帆は、知らないと言い切るつもりなのだろうか。
そもそも、彼らがいなくなった途端、美桜に接触してきた真帆。真帆は一体何者か。
うふふ、と変な笑い声が聞こえてきた。誰の声なのかわからないほど。
「あぁ、残念。うまくいったと思ったのになぁ」
その言葉の主はもちろん真帆。
「あいつらを使って、美桜を孤立させて。妖界に連れて行こうと思ったのに。残念無念」
妖界という言葉が出たところで美桜はぎょっとする。
「なんで、妖界に?」
「え? 美桜。あなた、気付いていないの?」
そこで、真帆はクンクンと鼻を鳴らすようにして、美桜の匂いを嗅ぐような仕草をする。
「美桜。あなたからもあやかしの匂いがするよ」
ドキリ、と心臓が跳ねた。あやかしの匂い、とは何か。
「私。麒麟様から頼まれたの。人間界にいるあやかしを妖界に連れ戻せ、と。あやかしでありながら人間の振りをして人間界で暮らすあやかしたちを。あやかしは人間とは異なり、人間より上位の種。だから妖界に連れ戻してこい、と。ねえ、美桜。私と一緒に妖界に戻りましょう?」
真帆が美桜の手首を掴んだ。そこが燃えるように熱く感じる。
「離して」
「離さない。あなたを麒麟様の元へと連れていく」
「私は妖界には行かない」
ここには祖母がいる。祖母をおいてはいけないし、そもそも自分は人間。
「あいつらを返して」
どうして? とでも言わんばかりに、真帆は首を傾げた。
「美桜をいじめていた奴らでしょう? いなくなってせいせいしたんじゃないの?」
だが、真帆は先ほど口にした。あいつらを使って、美桜を孤立させた、と。ということは、彼らが美桜にしたことは彼らの本心ではない、ということに繋がるのではないだろうか。
「真帆さん……」
「ねえ、美桜。一緒に妖界に行こう?」
先ほどから真帆がギリリと美桜の手首を掴んでいる。ちぎれてしまうのではないか、というほど力強く。
「妖界には行きません。私は人間です。ここで、暮らしていきます」
美桜にしては珍しく、自分の意志で拒絶する。
――私はここにいたい。
ビリっと、美桜の手首が光ったように見えた。その瞬間、真帆の手が離れる。すかさず席を立ち、彼女から距離をとる美桜。
「痛い、痛いよ。美桜。どうしてこんなことするの?」
美桜は何もしていない。だが、真帆の手の平はざっくりと切れ、そこから真っ赤な血がだらだらと流れ出ている。それを必死で抑えている真帆。人間とはあれほどまで血を流すことができるのだろうか、とそう思えてしまうくらいに。
「もう、美桜。手加減しないから」
血を流しながらも妖艶に笑う真帆は、同じ人間には思えなかった。そう思っていると、彼女から流れ出ている血が固まり、一つの形を作る。それは、まるでファンタジーゲームに出てくるような剣のような形をしていた。
「命さえあれば、どんな状態でもいいと、麒麟様はおっしゃっていたわ」
真帆の手から生えているように見える血の剣。その切先は美桜に向いている。美桜は一番近くにあった机を思いっきり真帆に向かって投げつける。机の中からは、教科書やノートが転げ落ちてくる。
真帆が怯んだ瞬間に、美桜は左手首に巻いた組紐を右手で覆った。そこから出てくるのは、龍巳から手渡された妖具の一つであるしなる鞭。
ピシッと空を切る音が響く。
「美桜。そんな、危険なものは仕舞いなさい」
「だったら、真帆もそれを仕舞って」
美桜は初めて真帆のことを呼び捨てにした。対峙する二人の距離は広がりもせず縮まりもしない。倒れた机を挟んで、じっと睨み合っている。
美桜が手にしている鞭は妖具。あやかしであれば捕らえることができる鞭。そして、真帆は間違いなくこの鞭が見えている。となれば、彼女はあやかし。
もう一度、ピシッと鞭をしならせ、床を叩いた。
――あやかしに向かって打ちつけるほかに、彼らを拘束させることができます。
龍巳の言葉が思い出される。真帆を拘束するように念じて、鞭を彼女に向かってしならせる。
すると不思議なことに、その鞭が伸びたように見えた。そして、くるくると真帆に巻き付いたのだ。
「ちょ、ちょっと。何をするのよ、美桜」
まるで簀巻きのように鞭によって巻き付けられている真帆。
「真帆さん。あいつらはどこにいるんですか?」
突然、この学校から消えた四人。このクラスの上位に属する四人は、美桜のことを間違いなくいじめていた。それは、三年に進級したあのときから。美桜はそうされることも仕方ないと思って、あきらめてそれを受け入れていた。学校にいる間だけ我慢すればいい、と。
だが、それすら仕組まれていたものだったとしたら。心に浮かんでくる言葉は、悔しい。ただ、それだけ。
一体、自分が何をしたというのか。あやかしの匂いがすると言われても、自分は人間界で生まれ、人間界で育ち、人間界で生きてきた。貧しくても、ひもじくても、いじめられても、この世界で生きていくものだと思っている。それに、母親を失ってから自分の面倒を一手に引き受けてくれた祖母。祖母がいてくれたからこそ、今の美桜がある。今は病に冒されている身体だけれど、きちんと治療をすれば、日常生活を送ることはできるようになると、医師は言っていた。
ぐっと鞭のグリップを握りしめる。美桜の身体の方に引き寄せれば、真帆への締め付けはきつくなるようだ。
「離しなさい。美桜。あなたは、麒麟様の元へ行くのよ。こんな人間界ではなく、妖界で生きていくべきあやかし」
「あやかしは人間に対して能力を使ってはならない。それを、破ったのは誰?」
「そんな、千年以上も前の約束を、律儀に守るほど私たちあやかしもお人好しじゃないの。あ、人間じゃないけどね」
苦しそうに顔を歪めながらも、軽口を叩く余裕はあるらしい。
――あやかしを妖界に送り返すには切りつける必要がありますので、そのときはこちらの小刀をお使いください。
真帆を妖界に送り返したい。強制的に妖界へ送り返されたあやかしは、向こうのルールで裁きを受ける。それが終わるまでは、人間界に来ることはできない、と龍巳が言っていた。
だけど、切りつけるという行為が、美桜が躊躇っている要因の一つでもある。このように拘束することはできる。だけど、いくらあやかしといえども切りつける、怪我をさせる、というその行為に対して手が動かない。
「ねえ、美桜。これって妖具だよね? ただ縛り付けているだけじゃ、私を妖界に送り返すことはできないよ?」
苦しそうにしながらも、どこか余裕があったのは、それを知っていたからか。
だが、美桜には真帆を切りつけることができない。彼女があやかしだとしても、見た目は人間でクラスメートだから。
「やっぱり、美桜って優しいね。それに、こうやって私を拘束しているのも、そろそろ辛いんじゃないかな?」
真帆も苦しそうな表情をしているけれど、苦しいのは美桜も同じだった。相手を縛り上げるために、先ほどから腕に力を入れている。だから、先ほどから腕が痛い。どうしたらいいかがわからない。恐らく、真帆をあの小刀の妖具で切りつけなければならないのだろう。だけど、それが美桜にはできない。となれば今、真帆を拘束しているけれど、体力の無い方が負けるということになるのだろう。
――龍巳さん。どうしたらいいんですか? 私にはあやかしを切ることができません。
バン、と勢いよく窓が割れた。廊下側の窓ではなく、ベランダ側の窓が。
「美桜さん」
「え? 龍巳さん?」
「やはり、昨日のお友達はあやかしだったのですね」
「え? ええ??」
窓ガラスを割って現れた龍巳に驚いた。しかもこの教室、三階にある。どうやって、窓まであがってきたのだろう。
「美桜さん。そのまま、あやかしを拘束し続けてください」
「あ、はい」
龍巳のことを考える余裕はなく。美桜は両手で鞭のグリップを握り直した。隙を見て小刀を取り出さなければならないと思っていた先ほどと違い、しっかりと握りしめて真帆を縛り上げることができる。
「やはり、あなた。美桜の従兄弟だなんて、嘘ね。それだけ妖気を匂わせて。あなたもさっさと妖界に帰ったら? それとも、私が連れて行ってあげましょうか?」
真帆が龍巳に向かって言っている言葉の意味が、美桜には理解できない。これではまるで、龍巳があやかしであると言っているようなものではないか。
「妖界に戻るのは、貴女の方ですよ」
龍巳は手にしていた刀を鞘から抜いた。それは、あの床の間に飾ってあったあの日本刀のようなもの。キラリと光を反射して、刃が光る。
「美桜さんはそのままで。そこから絶対に動かないでください」
龍巳は真帆に向かって駆け出した。邪魔になっている机を大きくまたいで。
「美桜は、人間界にいるべき者ではないのよ。どうしてそれがわからないの? 麒麟様のご命令なのよ」
龍巳が刀を振り上げたが、真帆の口から「麒麟」という言葉が出た瞬間、動きが止まる。だが、勢いよく真帆の頭上から真下に刀を振り落とした。
美桜は思わず目を閉じ、顔を背けた。
「美桜。必ず、あなたを妖界へと連れていくから。待っていなさいよ」
叫び声のような真帆の声。美桜が恐る恐る目を開けると、もう、真帆の姿はなかった。
「真帆さんは?」
「彼女は妖界へと送り返しました。強制的に妖界へ送り返されたあやかしは、向こうの裁きを受けるまで人間界に来ることはできませんから、もう安心ですよ」
「あ、はい……」
先ほどまで真帆が立っていた場所。今は何もない。美桜が握りしめていた鞭の先も、獲物がいなくなったため、だらりと落ちていた。
「あの、龍巳さん」
「はい」
「窓、割っちゃいましたね。片付けて、先生に報告しないと」
「それも心配なさらないでください。ここは、青砥高校であって青砥高校でない場所。もう一つの青砥高校」
「もう一つの?」
「つまり、あやかしが人間たちを攫うときに用いる、別空間なのです。人間界に対して異次元とでもいうのでしょうか。どうやら、この学校がその別空間に繋がっていたようでして」
龍巳の言うことは難しくて美桜にはよくわからない。
「あの。昨日言っていた、いなくなったクラスメートは……」
「無事ですよ。どうやら、この別空間に閉じ込められていたようですね。この辺の話は、そのうちきちんと説明します。とりあえず今は、戻りましょう」
こちらへ来てください、と龍巳が美桜を抱き寄せる。グラっと世界が歪んだような気がした。だが、見えている世界は先ほど変わってはいない。青砥高校の教室。
「さて、帰りましょうか」
「え。あ、はい」
慌てて美桜は教室内を見回した。倒れた机は元通り。壊れた窓も元通り。不自然に空いていた席も元通り。だけど、真帆の席だけが無くなっている。
「美桜さん。初めてのあやかし退治、お疲れ様でした」
あやかし退治。これがそうだったのだろうか、と美桜は思う。
「ですが、私はあやかしを切りつけることができませんでした。人を傷つけるような、そんな感じになってしまって」
「きっと、それが美桜さんの優しさなのでしょうね」
と龍巳は口にするが、それが彼女の弱さであるとも思っている。
「さて。あやかしを一体、妖界に送り返しましたので。美桜さんにはバイト代を支払わなければなりませんね」
美桜は龍巳から支払われたバイト代で、祖母の治療費を支払うことができた。バイト代が貰いすぎであるような気がしたけれど、あやかし退治にはそれだけの価値があると龍巳がしきりに言っていたので、申し訳ないと思いつつもそれを受け取った。
祖母は次第に体力を取り戻し、今では病室内をうろうろと歩いている。
「こんにちは」
龍巳は美桜の祖母の病室を訪れていた。術後、龍巳の力によって特別室へと移された美桜の祖母。
「あらあら。東の青龍さんが、この老いぼれにどのような御用ですかね?」
祖母は龍巳が妖界の東の王である青龍であることに気付いていたようだ。にっこりと笑って、目尻に皺を浮かべて、龍巳を迎え入れた。
「青龍神社の責任者を務めています湖東龍巳と申します。美桜さんにはお世話になっております」
「美桜の方こそお世話になっています。それに、この老いぼれにこのような立派な部屋まで与えてくださって」
「いえ、当然のことをしただけです。何しろ彼女は私の伴侶となるべき人ですから」
「あらあら」
美桜の祖母は笑っている。恐らく龍巳のその言葉の意味を理解したのだ。
「ところで、金木さん。美桜さんのご両親はどのような方ですか?」
「それが本題ですね」
「はい。美桜さんは、人間でありながら、人間ではない」
「美桜は私の孫ですよ。そして美桜の母親は私の娘」
「では、美桜さんの父親は?」
「さあ?」
そこで祖母は首を傾げた。それはけして誤魔化している、というわけではない。
「あまり、大きな声では言えないのですがね。美桜は、知らぬうちに娘が産んでいたんですよ。娘が事故で亡くなったから、私が美桜を引き取っただけ」
「美桜さんのお母様は、なぜ亡くなったのでしょうか?」
「事故、ですね。不幸な事故」
嘘をついているわけではない。話を誤魔化しているわけでもない。不幸な事故、というのは本当なのだろう。その不幸な事故の詳細を聞き出したいのだが、急に表情を曇らせた彼女を目にしてしまえば、それを口にするのは躊躇われる。
「金木さんは、何者ですか? 陰陽師の子孫、というわけでもなさそうですね」
「研究者ですよ。ただの研究者」
だからか、と龍巳は思った。恐らく、美桜の祖母は、あやかしと妖界を専門に研究していたのだろう。だから、あのとき、無意識に結界を張り、自分の命を狙っているあやかしから自分の身を守っていたのだ。
「私は、無駄に長く生きていますからね。自分の身を守る術というのは、その研究を通して身につけているのです。ですがね、美桜はまだ若いですからね」
「それは、安心してください。美桜さんは、私が守りますから」
「東の王の青龍さんに、そのようなことを言われては恐れ多いですね」
パタパタと廊下の方から足音が聞こえてくる。
「おばあちゃん、荷物持ってきたよ。って、龍巳さん?」
授業を終えた美桜が、制服姿のまま現れた。
「おかえりなさい、美桜さん。美桜さんのおばあさまのお見舞いに来ておりました」
「美桜ちゃん。こんな素晴らしい人のお世話になって、本当にいいのかね? 立派な部屋にまで移してもらって」
「あ、うん。大丈夫だよ、おばあちゃん。私、あの青龍神社でアルバイトすることになったんだから。きちんと、私が稼いだお金だよ」
と美桜は口にするが、仕事と報酬が合っていないようにも思っていた。だから、心の中で多分、と付け加える。
「そういうことですから、美桜さんのおばあさまも、ゆっくりと静養なさってください。退院後は、神社の方に部屋を準備しておきますから」
「やだねぇ。若い子たちの邪魔をするような野暮なことはしないよ。なけなしの年金で、新しいアパートでも探すよ」
「え、おばあちゃん。一緒に暮らそうよ」
「美桜さんもこう言っていることですし」
「じゃあ、退院までに考えておくよ」
祖母は美桜を手招きして呼び寄せると、彼女の頭を優しく撫でる。
「龍巳さんは優しいかい?」
「本当に、良くしてもらってる」
「そうかい。そのまま、青龍神社で雇ってもらえると、就職先の心配もなくていいね」
「おばあちゃん」
「美桜さん。私は先に車に戻っていますから。おばあさまとのお話が終わったら、駐車場に来て下さい。一緒に帰りましょう」
病室を出ていく龍巳の背を、美桜は微妙な気持ちで見送った。微妙な気持ち。それは龍巳への気持ち。この気持ちを何と呼ぶのか。