千衣子の手によってボサボサだった美桜の髪は、艶を取り戻していた。ボサボサだったからいつも三つ編みにしていたその髪を、千衣子は高い位置で一つに縛った。いわゆるポニーテールというもの。制服についていた汚れも千衣子や他の使用人たちによって、跡形もなく消え去っている。
別人みたい、というのが美桜の素直な気持ちだった。今日は学校の帰りに祖母の病院に寄りたいことを龍巳に伝えたら、彼はそれを快く承諾してくれた。祖母は起き上がることはできるものの、一人で歩くことができない状態。医師からはその病気の症状を説明されたような気もするのだが、美桜には難しくてよくわからなかった。また、手術同意書というものにサインをしなければならないのだが、高校生である美桜は十八にならなければそれにサインができないようだ。だから、誰か他の大人をと言われているのだが、美桜にとって親族と呼べるものは祖母だけであるため、どうしたらいいかもわかない。その辺も含めて、病院のソーシャルワーカーに相談するように、とも言われていた。
祖母の事を考えていたら、いつの間にか学校に来てしまった。昨日は学校に来たものの、教室に辿り着くことすらできなかった。今日は周囲を見回しても加奈子一味がいない。ということは、どうやら教室までは行くことができそうだ。
美桜の席は真ん中の列の一番後ろ。一番後ろの席というのが、何かとありがたい。
いつもの通り黙って教室に入れば、クラスメートから好奇心の目を向けられた。
「金木さん、だよね?」
声をかけてきたのは、隣の席の田中真帆。
「あ、うん……」
できるだけ関わりたくない。彼女から避けるようにして小さく返事をして、席につく。
「え、どうしたの? 髪の毛、艶々じゃん。髪型も微妙にかわいいし」
真帆の大きな声で、人が集まってくる。
――あれ、金木?
――学校に来たんだ。別人じゃね?
――とうとう頭がおかしくなったのか?
そんな声が耳に届いてきた。美桜としてはそっとしておいて欲しい。ただ、それだけ。
それでも、加奈子はまだ学校には来ていないようだった。加奈子が来るまでに静寂が戻って欲しいと、美桜はひたすらそう願っていた。
だが、ショートホームルームの時間になっても加奈子は姿を現さなかった。担任が言うには欠席とのこと。昨日、あれだけ美桜をいたぶったにも関わらず、今日は休みというのは何があったのだろうか。他にも、彼女の取り巻きたちの姿もなかった。結局、この日はカースト上位の四人が欠席。美桜にとっては平和そのもの。
と思っていたのだが、その平和は昼休みに隣の席の真帆によって壊された。
「金木さんのお弁当。すごーい。自分で作ったの?」
なぜか真帆が美桜の机にその机を寄せてきている。合わせて一緒にお弁当を食べましょう、とでも言うように。真帆の声を聞きつけたのか、美桜の弁当を見るために数人のクラスメートが寄ってきた。
美桜は誰に見られても自分のペースを乱すことなく、弁当を口に運ぶ。この弁当は龍巳に持たされたもの。恐らく、あそこの料理人が作ってくれたのだろう。
「ねえねえ、金木さんのこと、名前で呼んでもいい? 私のことも真帆でいいから」
カースト上位がいなくなった途端、これだ。ある意味、カースト上位はいい仕事をしていたのかもしれない、と美桜は思った。他人と馴れ馴れしくするのは苦手。と思いながらも、あの龍巳と話をするのは嫌ではなかった。
「好きにしてください……」
クラスメートとはあまり話をしたことが無いため、このようなときにどのような言葉を口にしたらいいかがわからない。咄嗟に美桜の口を告いで出た言葉がそれだった。
「じゃ、美桜って呼ぶね」
やはり加奈子たちがいなくて良かったのかもしれない。こんなところを見られたら何を言われて何をされるか、わかったものじゃない。
真帆はお弁当を食べながら一方的に喋っていた。
ずっと声をかけてみたいと思ってた。だけど、加奈子たちがいたから。今まで無視してごめんね。
恐らく、そんな感じの内容だったと思う。
やはり、カースト上位がいないから興味本位で声をかけてきただけなのだろう。加奈子たちが学校に来たなら、どうせ声もかけてくれないくせに――。
そう思いながら、美桜はお弁当を噛み締めた。
放課後、美桜が帰ろうとすると真帆に呼び止められた。
「美桜、一緒に帰らない?」
美桜はぎょっとして真帆を見る。彼女はニコニコと笑顔を浮かべているのだが、その笑顔がどこか怖いように感じてしまったのは何故だろう。
「今日は。病院に行かなきゃいけないので」
「そうなんだ、残念。じゃ、明日、一緒に帰ろうね。ばいばい」
真帆の距離感がわからない。加奈子がいないからああなのか。加奈子がいてもああなのか。そもそも真帆はカーストの中間層の人間のはずだ。中間層の人間は上位がいなくなっただけで、ああも強くなれるのだろうか。鞄を手にした美桜は、そっと教室を出る。美桜の姿が教室から消えた時、換気口からするっと滑って外に出ていく何かがあった。もちろん、美桜はそれに気付いていない。
美桜は祖母の着替えを持って病院へと向かっていた。いつも三日から四日に一度の頻度で病院へと行っていた。やることが無いから、毎日行っても苦ではないのだが、それは祖母が嫌がっていた。だから、丁度よい回数が三日か四日に一度の頻度。
「おばあちゃん」
病室に入ると、今日もベッドの上でぼんやりとしている祖母の姿があった。
「みおちゃんかい?」
ゆっくりと首をこちら側に向ける。入院してから一気に老けたような気がする。祖母はまだ六十代だ。平均寿命までまだまだある、にも関わらず。
「おばあちゃん、着替えはここに置いておくね」
ベッドの脇にある床頭台の開き戸を開けて、新しい下着をそこにいれた。それからそこに置いてある汚れ物を取り出す。
「おばあちゃん。何か食べたい物とかある? 買ってくるよ」
「何もいらないねぇ」
一応、会話は成り立つ。どうして祖母がこうなってしまったのか、美桜にはよくわからない。医師の話を聞いても、難しくてよくわからない。
とりあえず手術が必要であること。手術をするためには、持病の治療をしてから、とのことで投薬治療が続けられている。
入院費用、手術費用、お金は祖母の年金から。美桜も単発のバイトをして、それを生活の足しにしているのだが、結局、家賃に手が回らなくなっていた。
「おばあちゃん。また、来るね」
「はいはい」
祖母はわかっているのかいないのか、ニコニコと笑顔を浮かべているだけだった。
「みおちゃん、みおちゃん」
祖母が帰ろうとする美桜を引き止めようとすることは珍しい。
「みおちゃんの腕。きらきら光ってるね」
祖母のその言葉に美桜は首を傾げる。それでも祖母が美桜の手首に手を伸ばしてきた。
「きらきら光ってるのは、ここだね」
それは昨日、龍巳からもらった組紐。ブラウスの下になるようにと、ブラウスの手首のボタンをしっかりとしめていたから、祖母からは見えるはずもなかったのに。
美桜は手首のボタンを緩めて、組紐を祖母に見せた。
「おばあちゃん、これ?」
「そうだよ。これは大事にしなきゃいけないね。美桜ちゃんを守ってくれるものだから。いいもの貰ったね」
ふと、入院前の祖母に戻ったような感じがした。
「おばあちゃん、ありがとう。また来るね」
龍巳からもらった組紐を褒められたことが嬉しかった。
美桜が病室から出ると、また通気口からしゅるりと出ていく何かがあった。
別人みたい、というのが美桜の素直な気持ちだった。今日は学校の帰りに祖母の病院に寄りたいことを龍巳に伝えたら、彼はそれを快く承諾してくれた。祖母は起き上がることはできるものの、一人で歩くことができない状態。医師からはその病気の症状を説明されたような気もするのだが、美桜には難しくてよくわからなかった。また、手術同意書というものにサインをしなければならないのだが、高校生である美桜は十八にならなければそれにサインができないようだ。だから、誰か他の大人をと言われているのだが、美桜にとって親族と呼べるものは祖母だけであるため、どうしたらいいかもわかない。その辺も含めて、病院のソーシャルワーカーに相談するように、とも言われていた。
祖母の事を考えていたら、いつの間にか学校に来てしまった。昨日は学校に来たものの、教室に辿り着くことすらできなかった。今日は周囲を見回しても加奈子一味がいない。ということは、どうやら教室までは行くことができそうだ。
美桜の席は真ん中の列の一番後ろ。一番後ろの席というのが、何かとありがたい。
いつもの通り黙って教室に入れば、クラスメートから好奇心の目を向けられた。
「金木さん、だよね?」
声をかけてきたのは、隣の席の田中真帆。
「あ、うん……」
できるだけ関わりたくない。彼女から避けるようにして小さく返事をして、席につく。
「え、どうしたの? 髪の毛、艶々じゃん。髪型も微妙にかわいいし」
真帆の大きな声で、人が集まってくる。
――あれ、金木?
――学校に来たんだ。別人じゃね?
――とうとう頭がおかしくなったのか?
そんな声が耳に届いてきた。美桜としてはそっとしておいて欲しい。ただ、それだけ。
それでも、加奈子はまだ学校には来ていないようだった。加奈子が来るまでに静寂が戻って欲しいと、美桜はひたすらそう願っていた。
だが、ショートホームルームの時間になっても加奈子は姿を現さなかった。担任が言うには欠席とのこと。昨日、あれだけ美桜をいたぶったにも関わらず、今日は休みというのは何があったのだろうか。他にも、彼女の取り巻きたちの姿もなかった。結局、この日はカースト上位の四人が欠席。美桜にとっては平和そのもの。
と思っていたのだが、その平和は昼休みに隣の席の真帆によって壊された。
「金木さんのお弁当。すごーい。自分で作ったの?」
なぜか真帆が美桜の机にその机を寄せてきている。合わせて一緒にお弁当を食べましょう、とでも言うように。真帆の声を聞きつけたのか、美桜の弁当を見るために数人のクラスメートが寄ってきた。
美桜は誰に見られても自分のペースを乱すことなく、弁当を口に運ぶ。この弁当は龍巳に持たされたもの。恐らく、あそこの料理人が作ってくれたのだろう。
「ねえねえ、金木さんのこと、名前で呼んでもいい? 私のことも真帆でいいから」
カースト上位がいなくなった途端、これだ。ある意味、カースト上位はいい仕事をしていたのかもしれない、と美桜は思った。他人と馴れ馴れしくするのは苦手。と思いながらも、あの龍巳と話をするのは嫌ではなかった。
「好きにしてください……」
クラスメートとはあまり話をしたことが無いため、このようなときにどのような言葉を口にしたらいいかがわからない。咄嗟に美桜の口を告いで出た言葉がそれだった。
「じゃ、美桜って呼ぶね」
やはり加奈子たちがいなくて良かったのかもしれない。こんなところを見られたら何を言われて何をされるか、わかったものじゃない。
真帆はお弁当を食べながら一方的に喋っていた。
ずっと声をかけてみたいと思ってた。だけど、加奈子たちがいたから。今まで無視してごめんね。
恐らく、そんな感じの内容だったと思う。
やはり、カースト上位がいないから興味本位で声をかけてきただけなのだろう。加奈子たちが学校に来たなら、どうせ声もかけてくれないくせに――。
そう思いながら、美桜はお弁当を噛み締めた。
放課後、美桜が帰ろうとすると真帆に呼び止められた。
「美桜、一緒に帰らない?」
美桜はぎょっとして真帆を見る。彼女はニコニコと笑顔を浮かべているのだが、その笑顔がどこか怖いように感じてしまったのは何故だろう。
「今日は。病院に行かなきゃいけないので」
「そうなんだ、残念。じゃ、明日、一緒に帰ろうね。ばいばい」
真帆の距離感がわからない。加奈子がいないからああなのか。加奈子がいてもああなのか。そもそも真帆はカーストの中間層の人間のはずだ。中間層の人間は上位がいなくなっただけで、ああも強くなれるのだろうか。鞄を手にした美桜は、そっと教室を出る。美桜の姿が教室から消えた時、換気口からするっと滑って外に出ていく何かがあった。もちろん、美桜はそれに気付いていない。
美桜は祖母の着替えを持って病院へと向かっていた。いつも三日から四日に一度の頻度で病院へと行っていた。やることが無いから、毎日行っても苦ではないのだが、それは祖母が嫌がっていた。だから、丁度よい回数が三日か四日に一度の頻度。
「おばあちゃん」
病室に入ると、今日もベッドの上でぼんやりとしている祖母の姿があった。
「みおちゃんかい?」
ゆっくりと首をこちら側に向ける。入院してから一気に老けたような気がする。祖母はまだ六十代だ。平均寿命までまだまだある、にも関わらず。
「おばあちゃん、着替えはここに置いておくね」
ベッドの脇にある床頭台の開き戸を開けて、新しい下着をそこにいれた。それからそこに置いてある汚れ物を取り出す。
「おばあちゃん。何か食べたい物とかある? 買ってくるよ」
「何もいらないねぇ」
一応、会話は成り立つ。どうして祖母がこうなってしまったのか、美桜にはよくわからない。医師の話を聞いても、難しくてよくわからない。
とりあえず手術が必要であること。手術をするためには、持病の治療をしてから、とのことで投薬治療が続けられている。
入院費用、手術費用、お金は祖母の年金から。美桜も単発のバイトをして、それを生活の足しにしているのだが、結局、家賃に手が回らなくなっていた。
「おばあちゃん。また、来るね」
「はいはい」
祖母はわかっているのかいないのか、ニコニコと笑顔を浮かべているだけだった。
「みおちゃん、みおちゃん」
祖母が帰ろうとする美桜を引き止めようとすることは珍しい。
「みおちゃんの腕。きらきら光ってるね」
祖母のその言葉に美桜は首を傾げる。それでも祖母が美桜の手首に手を伸ばしてきた。
「きらきら光ってるのは、ここだね」
それは昨日、龍巳からもらった組紐。ブラウスの下になるようにと、ブラウスの手首のボタンをしっかりとしめていたから、祖母からは見えるはずもなかったのに。
美桜は手首のボタンを緩めて、組紐を祖母に見せた。
「おばあちゃん、これ?」
「そうだよ。これは大事にしなきゃいけないね。美桜ちゃんを守ってくれるものだから。いいもの貰ったね」
ふと、入院前の祖母に戻ったような感じがした。
「おばあちゃん、ありがとう。また来るね」
龍巳からもらった組紐を褒められたことが嬉しかった。
美桜が病室から出ると、また通気口からしゅるりと出ていく何かがあった。