美桜(みお)青砥(あおと)高校に向かってとぼとぼと歩いていた。あの日、二日前に青龍神社で龍巳(たつみ)から話のあったアルバイトを報酬に目がくらんで引き受けてしまった美桜であるが「学校にはきちんといきましょう」という彼の言葉によって、月曜日である今日は高校へと向かっていた。美桜の学校へと向かう足取りは重い。
 それもそのはず。まず、青龍神社からアパートに帰ってきた美桜を待ち受けていたのは、督促状だった。家賃滞納。祖母が入院してから、家賃が払えていない。かれこれ二か月。まだ、大丈夫と思いつつその督促状はテーブルの上に置いてきた。先月の分と合わせてまだ二通目。恐らく、半年くらいなら大丈夫だろう、と勝手に思っている。幸いなことに、電気や水道、ガスは止められていない。むしろ、こちらの支払いを優先させているから家賃が後回しになっているのだ。
 昇降口に入れば、背中に衝撃を感じた。
「あ、ごめーん。いたんだ」
 革靴を手にしていたのはクラスメートの丸山(まるやま)加奈子(かなこ)。あのクラスのカースト頂点に立つ女子生徒。そこから推測されるに、彼女はその革靴で美桜の背中を勢いよく叩いたに違いない。制服にははっきりくっきりと足跡がついていることだろう。
 くだらない――。
 美桜は加奈子を一瞥してから教室へと足を向ける。だが、それが加奈子には面白くなかったようだ。
「は? 貧乏人のくせに、何、お高くとまってんのよ」
 加奈子が望んでいるのは、美桜が叫んで喚いて泣くこと。なぜ彼女の思い通りに行動しなければならないのか。
 背中に鈍い衝撃が走った。周囲の笑い声。息がつまる――。
 そこから美桜の記憶が途切れている。

 美桜(みお)がはっと目を開けると、見慣れぬ天井が視界に入った。見慣れないけど、見たことのある天井だ。首だけ横に向けると、そこには困った顔の龍巳が正座をして姿勢を正して座っていた。
「え、と。私はなぜここにいるのでしょう?」
 学校に行ったはず。朝からカーストトップの加奈子と出会ってしまい、絡まれた。だが、そこからの記憶がない。
「あなたが学校で倒れたと、連絡がありまして。それで、私が迎えにいきました」
 なぜ美桜が倒れたら龍巳の元へ連絡がいくのか――。
 あ、思い出した。生徒手帳の緊急連絡先に書いてあったアパートの電話番号の隣に、龍巳の携帯の番号を書いたのだ。龍巳が勝手に。
「あ、すみません。ご迷惑を、おかけしました」
 美桜が身体を起こそうとすると、すかさず龍巳の手が伸びてきた。そして、気付いた。制服ではなく、浴衣を着て休んでいたらしい。いつ、誰が着替えたのか。浴衣を見てから龍巳に視線を向けると、彼は困った様に笑う。
「着替えをさせたときに、あなたの身体にある痣を確認させていただきました」
 はっとして美桜は浴衣の胸元を押さえる。
「着替えさせたのは女性の使用人ですよ。私は、その痣を確認しただけです」
 着替えさせられたことが恥ずかしいのではない。彼が口にしている身体中にある痣を見られた、ということが恥ずかしいのだ。
「誰かに殴られたような痣ですよね。ですが、あなたはおばあさまと二人暮らし。そのおばあさまは入院されている。誰がそのようなことをあなたになさったのでしょうか。学校で倒れたという話も聞いたことから、いつ、どこで、何をされたのかということは、容易に想像がつきます」
 美桜は口を噤んだ。もう少しで卒業だ。できることなら事を荒げたくない。無事に高校を卒業さえすれば、働き口だって選択肢が増えるはず。そのために、今まで我慢をしてきたのだから。
「答えたくないのであれば、無理に聞き出そうとはしません。ですが、現状を変えようとしない限り、それは続くのではないのですか?」
「もう少しで卒業ですから。それまで、私があいつらに対して我慢さえすればいいのです」
 美桜の口から言葉を聞けたことに安堵したのか、龍巳が微笑んだ。
「美桜さん、やっとあなたの口から何があったのかということを聞けたような気がします。あなたを傷つけたのは、()()()()ですね」
 美桜は小さく頷いた。両親もおらず、祖母と二人暮らしで、まして裕福ではない家庭で見た目は地味というスクールカーストという制度の中では底辺に位置する存在。殴る蹴る引っ張る押す、荷物を隠して困らせる。教師に気付かれないように美桜を痛めつけるのがカースト上位における彼らの特権のようなもの。むしろ知られても、それを捻じ伏せるだけの力があの加奈子にはある。
「いつの時代も、人間にとっての脅威は人間なんですよね」
 美桜のつぶやきに、龍巳は薄く笑いを浮かべた。
 千年以上も前に、不可侵条約のような約束が結ばれたのは、あやかしたちが人間を襲っていたから。それに対抗する力を持っていた人間が陰陽師と呼ばれる彼ら。だがこの争いに終わりはないのではないか、と気付いた双方のトップがその約束を結んだ。
 だから現代の今、あやかしたちも人間界で人間に紛れて暮らす者もいるし、妖界で暮らすことを選ぶ人間だっている。そうやって時代は移り変わっていくというのに、人の本質というものはかわらない。
「人間は。自分より劣る者の存在を確かめることで、安心感を得ようとする生き物なのです」
 龍巳の言葉を、美桜は黙って聞いていた。
「さて、美桜さん。あなたはまだまだたくさんの問題を抱えておりますね。荷物を取りにいった私の使用人が、あなたのアパートからこのようなものを見つけてきました」
 先ほどから彼の口からは使用人という言葉が出てくるのだが、その使用人をお目にかかったことはない美桜。
 勝手に人の家に入ったんですか、と普通なら騒ぎ立てるところなのだが、なぜかその気力すらない。
「美桜さん、ここに住みませんか?」
「は?」
 この男の言っていることが飛躍し過ぎて、美桜の脳みそがついていかなかった。
「あなたのおばあさまも不在であるなか、あなた一人であのようなボロアパートにいるのは、さぞかし不安でしょう」
 さりげなくボロと言って、美桜の家をディスっているようにも聞こえるのだが。
「それに、あなたは私の仕事を手伝ってくれるのでしょう? でしたら一緒に住んだ方が何かと便利なのです」
「え、あ。はい。あの、だけど、その。祖母が退院したら戻ってくる家がなくなってしまいますから」
「それは、おばあさまが戻ってきたときにまた考えましょう。とにかく私が今言いたいのは、あなたをあそこに一人でおいておきたくない、ということなのです。それに私の仕事の助手なのですから、できるだけ側にいて欲しいというのが本音です」
 なぜだろう。どこからどう聞いても怪しい話なのに「はい」と頷いてしまったのは。それほどまでに追い詰められていたのか、それとも彼がこの神社の責任者だからなのか。

 今、美桜は龍巳がいうところの使用人と共に、一度アパートへ戻っている。必要最小限の荷物を持ってくると共に、アパートの滞納家賃の支払いや解約手続きなどのあれやこれのために。だから今、この部屋には龍巳しかいない。
「青龍様、少し強引過ぎたのではありませんか?」
 龍巳の首元にまとわりついている蛇。今、声を発したのはこの蛇であり、この蛇は龍巳の使役魔である。つまり、龍巳の言うことを聞く従順な生物のはずなのだが、どうやら口答えをしている様子。それはこの龍巳の力が強いから、困ったことに使役魔も意思を持ち始めてしまったのだ。
「ああいう子は、少しくらい強引にいかないとすぐに逃げてしまうのですよ」
 龍巳は楽しそうに笑っていた。